影の王 ―新宿中央署襲撃事件―
ロビーは、静まり返っていた。
割れたガラスが床に散乱し、非常灯の赤い光が、それらを無機質に照らしている。
その光の下に、警官たちの身体が転がっていた。
動かない。
呼吸の音もない。
血が床に広がり、乾き始めている。
りん、拓磨、みゆきは、死体を踏まないように、自然とロビーの端へと下がっている。
ロビーの中央。
死体の間に、二人だけが立っていた。
一人はシエラ。
血の匂いの中でも、表情は変わらず、
重心を低く保ち、静かに前を見据えている。
そして、その正面には、影の王がいた。
影の王は、死体だらけのロビーを一瞥し、
まるで状況を楽しむように、軽く笑った。
「じゃあ、いくよ」
冗談のような声。
次の瞬間、
足元の影が鋭利な形状へと変わり、一切の予備動作なく伸びる。
初動。
殺すためだけの一撃。
――だが。
シエラは、ヒュッ、と音が鳴るほどの最小動作で、その軌道から外れた。
影の刃は空を切り、
床を抉り、深い傷だけを残して消える。
2人の視線が交錯した、その一瞬。
シエラの背後で、影が――動いた。
床に張り付いていたはずの影が、音もなく盛り上がり、
人の形を模した“分身体”へと変わる。
「シエラ、後ろ!」
りんの叫びと同時に、
分身体がナイフを振り上げ、背後から切り込んだ。
だが、シエラは振り向かない。
背中に迫る殺気を、感覚だけで捉え、
肘を引き、手首を掴む。
刃が止まる。
そのまま、体を捻り、
分身体を前方へと叩きつけるように投げ飛ばした。
影の塊が宙を舞い、
影の王へと向かって飛ぶ。
影の王は、即座に受け身を取る。
床を転がり、勢いを殺しながら距離を取った。
一瞬で立ち上がり、
楽しげに口角を上げる。
「やっぱ、強いね」
軽い声。
だが、その目は、確かに警戒していた。
シエラは、無言のまま立っている。
その両目は、すでに紫だった。
濁りのない、深い紫。
磨き上げられた宝石のように光を反射し、
内側から魔力を帯びて、静かに輝いている。
――次の瞬間。
影の王が、手をかざす。
床、壁、天井。
ロビーに落ちるすべての影が、同時に伸びた。
影は尖り、針となり、
四方八方からシエラへと突き立てられる。
逃げ場はない。
空間そのものが、彼女を穿とうとしていた。
「シエラ!!」
拓磨の叫びが響く。
だが、影が到達するより早く――
シエラは、消えた。
残ったのは、
床と壁に突き刺さる、無数の影の針だけだった。
「……いない?」
影の王が、呟いた、その直後。
視界の外から、
紫の光を帯びた拳が、影の王の顔面を貫いた。
衝撃が爆ぜ、
影の王の身体は、壁を突き破り、外へと吹き飛ぶ。
新宿中央署の入り口付近。
吹き飛ばされた影の王の身体が、宙を滑る。
次の瞬間、
その前方に、シエラがいた。
空間を詰めるように、一気に距離を詰め、
追いつく、というより――重なる。
シエラの手が、影の王の頭部を掴んだ。
勢いは殺さない。
そのまま、進行方向を下へと折り曲げる。
影の王の身体が、地面へと叩きつけられた。
鈍い衝撃音。
舗装に、ひびが走る。
「がっ……」
短い呻き声が漏れる。
その音に引き寄せられるように、
周囲にいた一般人たちが足を止め、集まり始める。
「今の……?」
「人が飛んできた……?」
ざわめきが、低く広がっていく。
舗装の割れ目の中で、
影の王は仰向けのまま、動かない。
次の瞬間、
シエラはその上に跨がった。
膝で腕の可動域を潰し、
体重をかけて、完全に動きを封じる。
「逮捕する……」
感情のない声。
懐から手錠を取り出す。
その瞬間。
影の王の視界の外で、
指先が、わずかに動いた。
――クイ。
シエラの背後で、影が盛り上がる。
床に落ちた影が形を持ち、
分身体となって立ち上がった。
影の腕が伸び、
鋭利な先端が、シエラの背へと突き込まれる。
だが、シエラは一歩、横へとずれる。
影の手は空を切る。
その一瞬の隙。
影の王の身体が、影の中へと沈み、
拘束から離脱した。
距離を取った影の王は、足を止め、短く息を吐いた。
肩が、わずかに上下する。
その表情には、焦りよりも――奇妙な高揚が浮かんでいた。
(思った以上に、強いなぁ……)
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
(勝てないかも。
……いや)
唇が、歪む。
(こんな感覚、久しぶりだ……
ゾクゾクする)
その様子を、シエラは黙って見ていた。
紫の瞳は揺れない。
呼吸も、乱れていない。
「もう充分、楽しんだ?」
淡々とした声。
「終わってもいい?」
問いかけは、確認に近い。
そこに、挑発の色はない。
影の王は、肩をすくめ、笑った。
高鳴る鼓動を、隠そうともせずに。
「――まだだよ」
声が、弾む。
「僕は、まだ楽しみたいから」
「終わらせる気は、無いよ!!」
そう言い、影の王は右手を前に出し、指をクイッと上げる。
その瞬間、シエラの足元で影が動いた。
彼女自身の影が、地面から立ち上がり、
首と腕へと絡みつく。
影縛り。
逃げ場を奪うためだけの、簡潔な拘束。
影の王の動きが、止まる。
――だが。
シエラは、何も言わない。
その身体から、紫のオーラが静かに立ち上がった。
熱でも光でもない、圧だけを伴った魔力。
次の瞬間、
影の王を縛っていた影が、内側から崩れ始める。
裂ける。
砕ける。
そして、消える。
影の王は、目を見開いた。
「……おいおい、これもダメなのかよ」
呆れと、わずかな愉悦が混じった声。
その直後。
シエラの姿が、消えた。
次の瞬間――
衝撃。
一発ではない。
二発でもない。
視認できない速度で、
拳が、何度も、何十度も、影の王の身体を打ち抜く。
音が遅れて追いつく。
骨が、軋む。
思考が、追いつかない。
(あぁ……)
意識が、薄れていく。
(もう少し……楽しみたかったなぁ……)
影の王の膝が、崩れた。
身体が傾き、
そのまま、地面へと崩れ落ちる。
シエラは間を置かず、倒れた身体に馬乗りになった。
抵抗はない。
逃げる意思も、すでに感じられなかった。
手錠を取り出し、
両手首を確実に拘束する。
その拍子に、
影の王の仮面が、床に転がった。
露わになったのは、二十代前半と思しき若い男の顔だった。
鋭さはなく、どこか柔らかい輪郭。
唇が切れ、血が一筋、顎へと垂れている。
――それ以上、シエラは見ない。
「楽しかったよ……」
穏やかな声だった。
勝者を称えるような、あるいは友人に向けるような口調。
「久しぶりに、楽しめた……」
「そう……」
シエラは感情を乗せずに返す。
「それは、よかったね」
間を置かず、続ける。
「あんたには、組織の目的を吐いてもらう」
視線を逸らさない。
「覚悟しなさい」
影の王――否、男は、小さく笑った。
「それは……言えないなぁ……」
「だって、僕はもう、死ぬんだから」
「!?」
その瞬間。
男は、歯を――
ガキッ、と強く噛みしめた。
次の瞬間、
男の身体の内側から、光が溢れ始める。
白でも紫でもない、
異質な輝き。
シエラの瞳が、わずかに見開かれた。
――まずい。
瞬時に判断する。
(ここで爆発したら……)
周囲には、まだ一般人がいる。
(巻き込まれる)
その瞬間、紫の瞳がわずかに強く輝き始める。
光というより、深度が増したような色。
宝石の奥に、さらに別の層が現れたかのようだった。
その紫が、彼女の周囲に滲む。
金色の髪が、根元から淡く染まり、
光の加減で紫を帯びて見える。
空気が、変わる。
周囲の音が、遠のいたように感じられた。
「バロン=ンエ」
低く、はっきりとした声。
その言葉と同時に、
シエラと影の王を包み込むように、黒い球体が発生する。
表面は光を吸い込み、
中の様子は、外からは一切見えない。
「なに、あれ……?」
「球体……?」
一般人たちがどよめき、
誰かがスマートフォンを構える。
みゆきと拓磨が、反射的に駆け寄り、
りんが、球体を見つめたまま呟いた。
「……球体?」
次の瞬間。
黒い球体が、音もなく消失する。
そこに現れたのは――
無傷のシエラと、
爆死した影の王の死体だった。
肉体は完全に崩れ、
もはや生の痕跡はない。
「え……死体?」
「嘘だろ……?」
ざわめきが、一気に広がる。
その中心で、
シエラは何も言わず、
ただ黙って、影の王の死体を見つめていた。
新宿中央署襲撃・異能力大量殺害事件
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発生日時
2025年6月21日 9:30頃
※ 超越対策課による事後把握案件
※ 本件は新宿中央署内で発生した突発的武装襲撃事案として記録
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発生場所
東京都新宿区
新宿中央署 庁舎内および周辺区域
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概要
正体不詳の異能力者(通称:影の王)が、
単独で新宿中央署庁舎へ侵入。
異能力を用い、署内警官に対して無差別かつ極めて短時間の殺害行為を実行した。
本件により、
警察官12名の死亡を確認。
被疑者は、
超越対策課所属 シエラ による現場制圧を受け、
拘束直前、自身の体内に仕込まれていた起爆装置を作動させ、自爆。
被疑者は爆死。
事件は現場封鎖ののち終結した。
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主犯
影の王(仮称)
※ 本名・身元 不詳
※ 性別:男性
※ 年齢:20代前半と推測
※ 爆死により詳細な身元特定は不可能
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能力(推定)
影操作系・多重展開型能力
•影を実体化し、刃・拘束・分身体として使用
•屋内外問わず影の存在する空間で高い殺傷力を発揮
•高速戦闘能力を併せ持つ
危険度:極高
(近接・多方向攻撃により集団制圧能力を有する)
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被害状況
死亡者
•新宿中央署 警察官:12名(即死または重傷後死亡)
※ 被疑者は
6月20日夜間にも複数地点で殺害行為を行っていた可能性が高いが、
正確な人数・関連性は現在も特定不能。
→ 総殺害人数:不明
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被疑者の最期
拘束直前、
被疑者は歯部に埋め込まれた起爆スイッチを強制作動。
体内に仕込まれた爆発装置が起動し、
被疑者はその場で爆死。
•周囲への二次被害なし
•一般人への直接被害なし
•シエラに身体的損傷なし
※ 起爆装置は物理トリガー式
※ 異能力とは別系統の自爆装置と推定
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特記事項
•本件は
**「警察署を直接標的とした異能力単独襲撃事件」**として初の事例。
•被疑者の思想・動機・所属組織については不明。
•仮面着用および自爆行為から、
身元秘匿および情報遮断を前提とした行動が強く疑われる。
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備考
本件記録は
超越対策課 内部限定資料として指定。
一般公開情報においては、
「異能力者による単独襲撃事件」として簡略処理済み。
詳細記録は暗号化の上、
Iridium本部データバンクに保管。
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――続く
今回は、影の王とシエラの戦いを描きました。
本格的にバトルを正面から書いたのは、
第1話の邪龍戦以来だったかもしれません。
今回は派手さよりも、
「異能力同士が本気でぶつかったらどうなるか」
「現実の都市空間で戦闘が起きたら、どんな空気になるか」
そこを意識して描いています。
影の王は、能力も思想も含めて
かなり危険な存在として設定しました。
だからこそ、シエラの判断や行動にも
重さが出ればいいな、と思っています。
次回からは、事件の余波と、
少しずつ見えてくる“別の違和感”に踏み込んでいく予定です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




