こちら側と、向こう側
6月20日 22時
新宿・路地裏
新宿の裏路地は、夜になると音が薄れる。
人の気配はあるはずなのに、遠くに押しやられ、湿った空気だけが残っていた。
路地の中央に、天の文字が刻まれ、
その下に、男女の死体が数体転がっている。
すでに息はない。
それでも――
ザクッ。
ザクッ。
鈍い音が、一定の間隔で響いていた。
背後に立つ男が、ナイフを振り下ろしている。
力は込められていない。
叩きつけるでも、怒りをぶつけるでもない。
ただ、刺しているだけだった。
刃が肉に沈み、抜かれる。
そのたび、ぬるりとした感触が手に残る。
やがて、音が止まった。
男は、死体を見下ろさない。
興味を失った物から視線を外すように、ナイフを下ろす。
刃先から、血が落ちた。
ポタリ、ポタリと、アスファルトに染みを作る。
「……あ〜あ」
気の抜けた声だった。
「せっかく新宿に来たのにさ」
男は、軽く肩をすくめる。
「全然、楽しくないなぁ……」
夜風に揺れる影の奥で、黒い仮面が街灯の光を弾いた。
死神を思わせる、無機質な顔。
影の王。
彼は、ふと何かを思い出したように首を傾ける。
「そうだ」
間延びした声。
「イバラの王のところの部下、倒されたんだっけ」
ナイフを指で弄びながら、楽しそうでもなく、退屈そうでもなく言う。
「……それってさ」
「やったの超越対策課、だったよね?」
影の王は、ふっと笑った気配を滲ませた。
「ちょっかい、かけよっかなぁ」
少し考える素振りをして、すぐに結論を出す。
「うん。そうしよう」
ナイフを持ち替え、血を振り払うこともせず歩き出す。
刃先から落ちる血が、足元に小さな点を刻んでいった。
死体には、もう振り返らない。
影の王は、軽い足取りで路地を抜けた。
◆
6月21日 9時 超越対策課・オフィス
朝のオフィスは静かだった。
昨夜の騒ぎが嘘のように、書類の音とキーボードの打鍵音だけが響いている。
村崎警視長は、報告書に目を落としたまま、低く言った。
「……つまり」
「犯人を確保したと思った直後に、
本人が爆死した……そういう理解でいいな」
シエラは、短く頷いた。
「うん……」
視線を落としたまま、続ける。
「組織で動いているのか、
それとも、ただの愉快犯なのか……」
「結局、何も分からないまま……
死なせてしまった」
村崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……仕方ない」
声は冷静だったが、切り捨てるようでもなかった。
「それが目的だったんだろう」
「証拠を掴ませないためのやり方だ」
報告書を閉じ、視線を上げる。
「死んだ人間は、何も話さない」
シエラは唇を噛み、何も言わなかった。
村崎は、しばらくシエラを見てから、低く言った。
「……それでもな」
「相手が“個人じゃない”ってことは分かった」
シエラは、わずかに顔を上げる。
「組織で動いている可能性が高い」
「それだけでも、十分な成果だ」
村崎は、そう言ってから、少しだけ声を和らげた。
「よくやった」
「……ありがとう、シエラ」
一瞬、オフィスの音だけが戻る。
シエラは、少し遅れて、小さく頷いた。
「……うん」
声には、力がなかった
その時だった。
オフィスの天井に設置されたスピーカーから、
無機質な電子音が鳴り響く。
《――緊急、館内放送》
空気が、一瞬で変わる。
《新宿中央署1階ロビーにて、異能力事件発生》
《超越対策課、直ちに出動せよ》
一拍置いて、
《繰り返す》
《新宿中央署1階ロビーにて、異能力事件発生》
《超越対策課、直ちに出動せよ》
オフィスのざわめきが、完全に消えた。
拓磨が、歯を食いしばる。
「……くっ」
拳を握りしめ、低く吐き捨てる。
「まさか……こんなところまで来るなんて……」
誰も否定しなかった。
否定できるはずがなかった。
みゆきが、一歩前に出る。
迷いはない。
「全員で行くわよ」
短く、はっきりとした声。
次の瞬間、声が重なる。
「はい!」
椅子が引かれ、足音が重なり、
オフィスは一気に動き出す。
新宿中央署
1階ロビー
白い照明に照らされたロビーに、
不釣り合いな歌声が流れていた。
――ある日、森の中。
幼く、拙い旋律。
音程は外れ、抑揚もない。
ロビーの中央に、黒い影が立っていた。
長いコート。
顔を覆う、無機質な黒い仮面。
影の王。
「撃て!」
1人の警官叫びが響く。
次の瞬間、銃声が重なった。
乾いた破裂音が、ロビーを満たす。
だが――
弾丸は、届かなかった。
影の王の周囲に、
黒い“影”が滲むように立ち上がる。
それは壁のように弾を受け止め、
金属音を立てて床に落とした。
「……は?」
警官の声が、間の抜けた音になる。
影の王は、ゆっくりと歩き出す。
「くまさんに」
淡々と、歌の続きを口ずさむ。
「……出会った」
そのまま、警官たちの間を通り過ぎる。
次の瞬間だった。
警官の背後から、
黒く、鋭利な影が伸びる。
槍のように、迷いなく。
胸を貫き、
さらに、隣の警官へ。
一瞬で、数人が崩れ落ちた。
床に、赤が広がる。
少し離れた位置にいた警官が、震える声で呟く。
「こ、こいつ……
なんなんだ……」
影の王は、立ち止まらない。
「――花咲く森の道」
その言葉と同時に、
影が揺らいだ。
「……消え――」
警官が言い終える前に、
背後から、
ザクッ。
鈍い感触とともに、ナイフが突き立てられる。
声は、出なかった。
影の王が、耳元で囁く。
「くまさんに、出会った」
ナイフを引き抜き、
刃についた血を、ゆっくりと舐める。
仮面の奥の目は、
完全に焦点を失い、異様な光を宿していた。
ロビーに、影の王の声が響いた。
「……出てきなよ」
軽い調子だった。
誰かを呼ぶというより、遊びに誘うみたいに。
「超越対策課」
黒い仮面が、ゆっくりと左右を見渡す。
「僕が――
殺してあげるからさぁ」
床に伏した警官の一人が、歯を食いしばる。
「……くっ……」
震える声で、吐き捨てた。
「狂ってやがる……」
その瞬間だった。
ロビーの奥、非常階段の扉が開く。
靴音が重なり、
四つの気配が前に出る。
みゆき。
シエラ。
拓磨。
りん。
影の王は、ぴたりと動きを止めた。
「へぇ……」
楽しそうでも、感心しているわけでもない。
ただ、事実を確認する声。
「これが、超越対策課かぁ……」
視線が、一人ずつをなぞる。
そして――
シエラで止まった。
仮面の奥で、何かが確信に変わる。
「あ」
短い声。
「君だ」
影の王は、指を鳴らすような仕草をする。
「イバラの王のところの部下、倒したの」
「……君だよね?」
シエラの肩が、わずかに強張る。
「……っ」
影の王は、首を傾けた。
「分かるよ」
声は相変わらず、軽い。
「僕、人をたくさん殺してきたからさ」
「ある程度の“実力”は、
匂いで分かるんだ」
一歩、近づく。
「君……強いよ」
次の言葉は、
不思議そうに投げられた。
「でもさ」
仮面が、ほんの少しだけ傾く。
「なんで、そっち側にいるの?」
沈黙が落ちる。
「君、本来は――
僕ら側だろ」
その言葉に、空気が張り詰めた。
その沈黙を破ったのは、みゆきだった。
「……どういうこと?」
低く、鋭い声。
「何が“本来は”だ」
影の王は、少しだけ首を傾ける。
「どういうこと、って……」
困ったようでも、考えているわけでもない。
「そのままの意味だよ」
視線は、ずっとシエラに向けられている。
「彼女はさ」
「僕と同じだ」
「殺し屋、みたいなところ」
みゆきの眉が、わずかに動く。
「どういう経由でそうなったのかは、知らないけど」
影の王は肩をすくめる。
「でも、分かるんだよ」
仮面の奥の視線が、シエラの背後へと滑る。
「ほら、君の後ろ――」
「いっぱいいる」
声は、淡々としていた。
「死んだ人たち」
「手、絡まってるよ」
まるで、見えているものをそのまま口にするみたいに。
「足にも、背中にも」
「離れない」
影の王は、小さく笑った気配を滲ませる。
「僕と一緒だ」
ロビーの空気が、冷え切る。
シエラは、無意識に息を詰めていた。
影の王は、楽しそうでもなく、哀れむでもなく、続ける。
「だからさ」
「不思議なんだ」
「なんで君は――」
黒い影が、足元で揺らぐ。
「守る側に立ってるの?」
その問いは、責めでも誘いでもない。
ただの疑問だった。
みゆきが、一歩前に出る。
「……黙りなさい」
その瞬間、空間が沈んだ。
床が呻くように軋み、ロビーの大理石に放射状の亀裂が走る。
影の王は、その言葉を聞いて、ふっと息を吐いた。
「……うるさいなぁ」
次の瞬間――
影が、消えた。
「えっ――」
みゆきが言い終える前に、
「みゆき、後ろ!」
シエラの声が弾ける。
「――アーク・アクアシールド!」
みゆきの背後に、水が噴き上がる。
瞬時に編まれた透明な魔法壁。
直後――
ザンッ、と空気を裂く音。
影の王のナイフが、水の壁に叩きつけられた。
衝撃が走る。
だが、刃は届かない。
水面が大きく揺れ、衝撃を吸収する。
「へぇ……」
いつの間にか、数歩後ろ。
影の王は、軽く距離を取って立っていた。
楽しそうでも、悔しそうでもない。
「今の、反応いいね」
視線は、シエラに向けられている。
「やっぱさ」
小さく首を傾ける。
「君、強いよ」
ロビーに張り詰めた緊張が、
さらに一段、深く沈んだ。
拓磨が一歩踏み出し、拳を構える。
りんも、静かに気配を張る。
その時――
シエラが、前に出た。
「……ごめん」
短い言葉。
「みんな……今回は」
一瞬、言葉を探してから、はっきりと言う。
「あたし一人で、やらせて」
「はっ?」
拓磨が声を荒げる。
「なんでだよ!
あいつ、一人でどうこうできる相手じゃねえだろ!」
シエラは振り返らない。
「大丈夫だから……」
その声は、震えていなかった。
次の瞬間、
彼女の両目が、はっきりと紫に染まる。
淡い紫の光が、体の輪郭に沿って立ち上る。
空気が、じわりと歪んだ。
拓磨は、その光を見て――
言葉を失う。
「……」
拳を下ろし、
「……分かった」
悔しそうに、だが納得した声。
「任せる」
りんが、小さく息を吐く。
「……そっか」
どこか、苦笑にも似た表情。
「今のシエラにとっては……
あたしたち、足手まといってことだよね」
シエラは、何も答えない。
否定もしない。
りんは、それで十分だった。
「……下がるよ」
静かに、一歩引く。
みゆきも、何も言わずに後退した。
その背中を見送ったまま、
シエラは振り返らずに言う。
「……ありがとう」
ロビーの中央に、
二人だけが残る。
影の王が、ナイフを軽く振る。
ヒュッ、と乾いた音。
「へぇ……」
楽しそうに、口元を歪めた気配。
「楽しくなってきた」
紫の気配と、黒い影が、
静かに向かい合った。
続く
今回の話は、
影の王とシエラが正面から向き合う回になりました。
影の王が口にした、
「本来は、僕ら側だろ」という言葉。
あれは、どういう意味だったのでしょうか。
次回、ひとつの決着を迎えます。




