マギア・サピエンス
今回の話は、敵側の視点になります。
表では見えないところで、
世界の裏側が、
ゆっくりと動き始めています。
静かな回ですが、
何かが始まったことだけ、
感じてもらえたら嬉しいです。
6月20日 20時40分
新宿・路地裏
新宿の裏路地は、夜になると音が死ぬ。
ネオンの光は届かず、アスファルトだけが湿った光を反射していた。
その暗闇の奥から、歌声が聞こえてくる。
――ある日、森の中、くまさんに。
幼い、拙い声だった。
音程は少し外れていて、それが逆に耳に残る。
路地の中央。
女性の身体が倒れている。
もう息はしていない。
それでも、男はナイフを振り下ろし続けていた。
布を裂く音。
肉に沈む鈍い感触。
抜くたびに、ぬるりとした抵抗が指に絡みつく。
――出会った。
男の口元は、わずかに歪んでいた。
何かを壊しているという意識はない。
ただ、刺している感触だけが、そこにあった。
――花咲く森の道。
その言葉が途切れた瞬間、
男の背後に、いつの間にか人影が立っていた。
白い仮面。
両目は閉じられ、穏やかな表情を浮かべている。
現実を拒むような、眠りの顔。
眠りの王。
「ねぇ……」
柔らかな声だった。
叱責でも、恐怖でもない。
「もうこの人、死んでるよ。
やめなよ」
ナイフが、止まった。
男は振り返らない。
ただ、興味を失った玩具を見るように、死体を見下ろしている。
「邪魔しないでくれるかなぁ……」
男が立ち上がる。
その顔を覆っていたのは、黒い仮面だった。
死神を思わせる無機質な造形。
裁かず、救わず、意味づけもしない――
ただ“死を管理する”ための顔。
影の王。
「僕はね……
人を刺してる時の、感触が好きなんだ」
感情はない。
狂気もない。
ただの事実を述べるような声だった。
眠りの王は、ため息をひとつ吐いた。
「……もう行くよ」
仮面の奥で、目を開けることはない。
「皇位様が、呼んでるよ」
その言葉に、影の王は一瞬だけ黙り込む。
そして、興味を失ったように肩をすくめた。
「……分かったよ」
ナイフを落とし、立ち上がる。
死体を見ることもなく、二人は路地の闇へと溶けていった。
歌声だけが、取り残される。
――くまさんに、出会った。
やがてその声も、夜に吸い込まれて消えた。
◆
新宿の雑居ビル、その最上階。
外から見れば、使われている様子はない。
だが扉を開けた瞬間、空気が変わる。
窓はない。
壁は黒く、天井はやけに高い。
円卓だけが、部屋の中央に置かれていた。
すでに二つの席は埋まっている。
眠りの王は、静かに椅子に腰掛けていた。
相変わらず、その仮面の目は閉じられている。
その向かい側。
王の中でも、明確な序列を背負う存在――
《序列冠》を戴く、
支配の王。
腕を組み、苛立ちを隠そうともせず口を開く。
「遅いぞ」
声は低く、命令に近い。
「俺よりも後に来るな。」
扉が閉まる音がした。
影の王が、軽い足取りで部屋に入ってくる。
仮面の奥で、笑っている気配だけがあった。
「ごめんごめん」
気の抜けた声。
「ちょっと遊んでてさ」
支配の王は、舌打ちひとつでそれ以上は言わない。
影の王は円卓へ向かわず、歩きながら視線を滑らせる。
部屋の隅、闇の中に立つ影へと近づいた。
そこにいたのは――
全身を覆うように、無数の棘を思わせる仮面。
イバラの王。
「聞いたよ……」
影の王は、軽く首を傾ける。
「君の部下、やらかしたんだって?」
イバラの王は、答えない。
棘の隙間から、何の感情も漏れない。
「君の部下を倒した、超越対策課の1人……殺してあげようか?帳尻合わせに」
影の王が肩をすくめて言った。
次の瞬間。
影の王の背後、空間が歪む。
何もないはずの床と壁から、黒い棘が伸び上がった。
殺意は静かで、明確だった。
「やめなさい!」
眠りの王の声が、鋭く響く。
「あなたたち……
どうして、すぐにそうやって喧嘩するの」
棘が止まる。
影の王は、肩越しにそれを見て、小さく息を吐いた。
「はいはい」
軽く手を上げる。
イバラの王も、何も言わず棘を引かせた。
影の王は、何事もなかったように円卓へ向かう。
空いている席に腰を下ろし、背もたれに体を預ける。
円卓に、短い沈黙が落ちた。
「……来るぞ」
低く告げたのは、復讐の王だった。
その声には、嘲りも苛立ちもない。
ただ、事実を伝えるためだけの音。
次の瞬間、
廊下の奥から――圧が来た。
足音は、まだ聞こえない。
それでも空気が変わる。
呼吸が、わずかに重くなる。
皮膚の内側を、冷たいものが撫でていく。
支配の王が、無意識に拳を握る。
影の王は、いつもの軽さを失い、背もたれに深く体を預けた。
イバラの王は一言も発さない。
眠りの王でさえ、目を閉じた仮面の奥で、息を整えていた。
――カツ。
廊下に、足音が響いた。
一歩。
それだけで、空間が締め上げられる。
二歩目が鳴る前に、
王たちの額に、はっきりと汗が浮かんだ。
ドアが、ゆっくりと開く。
光が差し込むわけでもない。
風が吹き込むわけでもない。
それでも、
そこから入ってきた存在だけが、異質だった。
純白のローブが床を滑る。
足音は小さい。
だが、確かに“重い”。
顔は兜に覆われている。
表情は見えない。
視線も、感情も、読み取れない。
背を向けた一瞬、
ローブの中央に刻まれた紋章が見えた。
――切れたウロボロス。
神代は、そのまま円卓の奥へと進む。
王たちが座る円卓のさらに前。
一段だけ高く設えられた席が、そこにあった。
神代は何も言わず、
静かにその席へ腰を下ろした。
衣擦れの音が、わずかに響く。
神代は、円卓を一瞥する。
「……揃ったか」
眠りの王が、静かに首を振った。
「いえ……」
「忘却の王は、本日欠席です」
神代は、ほんの一瞬だけ、言葉を止めた。
「……そうか」
眠りの王が再び口を開く
「……皇位様」
その声は柔らかく、
張り詰めた空気をそっと整えるようだった。
「本日は――
どのような件で、
我々をお集めになられたのでしょう」
その言葉が落ちた瞬間、
王たちの意識が、一斉に神代へ向く。
神代は、ゆっくりと円卓を見渡した。
一人ひとりを確認しているようで、
実際には誰も見ていない。
「集まってもらった理由は、二つある」
声は低く、淡々としていた。
重ねる必要のない言葉だった。
「一つ目だ」
神代は、わずかに間を置く。
「プロジェクトA.O――《アルカナ・オーダー》を本格的に開始する」
それだけだった。
だが、その一言で、
円卓に集う王たちは理解する。
これは提案ではない。
承認を求めるものでもない。
すでに始まった事実の共有だ。
神代は、わずかに間を置いてから口を開いた。
「二つ目だ」
円卓の中央に視線を落とす。
「俺たち――異能力持ちについて」
仮面越しでも分かるほど、空気が張り詰めた。
神代は一人を指名する。
「復讐の王」
低い声が応じる。
「……はい」
「お前は、
異能力というものを、どこまで理解している?」
復讐の王は即答しなかった。
慎重に言葉を選び、答える。
「異能力には、
皇位様のような先天的能力者と、
我々のような後天的能力者が存在します」
「異能力者は、
常人をはるかに超えた身体能力と、
個別の特異能力を有する存在――
その程度の理解は」
神代は、短く息を吐いた。
「……浅いな」
その一言で、場が静まり返る。
神代は、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺は、幼少期から
Iridiumにいたことがある」
王たちの気配が変わる。
「保護という名目だった。
だが実態は違う」
「能力の測定。
限界値の確認。
負荷試験。
――要するに、実験対象だ」
声に怒りはない。
事実を読み上げているだけだった。
「それが嫌で、
俺は脱走を試みた」
「その時、
施設内の資料に目を通した」
「そこには、こう記されていた」
――異能力者は新人類、
マギア・サピエンスである。
ホモ・サピエンスにとって、
脅威となり得る存在である。
円卓の空気が、明確に冷える。
「つまりだ」
神代は、静かに言い切った。
「俺たちは、
ホモ・サピエンスよりも
高位な存在だ」
「だが、現実はどうだ?」
神代は立ち上がる。
「俺たちは恐れられ、
隔離され、
Iridiumのような施設に押し込められ」
「ホモ・サピエンスの都合で、
実験材料として扱われている」
神代は、両腕をゆっくりと広げた。
「――おかしいだろう」
声は強くない。
だが、否定の余地はなかった。
「だから、A.Oは始まる」
「我々の目的は二つ」
「Iridiumに囚われている
同じマギア・サピエンスを解放すること」
「そして――」
神代は、円卓の全員を見渡す。
「マギア・サピエンス中心の世界を作る」
誰も声を上げない。
支配の王は腕を組んだまま動かず、
影の王は椅子に深く身を沈め、
イバラの王は棘を出すことすらしなかった。
沈黙は、同意だった。
やがて、一人、また一人と王たちは席を立つ。
言葉を交わす者はいなかった。
◆
扉が閉まる音が、静かに響き、
広い部屋には、二人だけが残された。
神代と、眠りの王。
しばらくの間、
どちらも口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、眠りの王だった。
「……皇位様。
お疲れ様です」
柔らかい声だった。
先ほどまでの張り詰めた空気を、そっと解くような声音。
神代は、椅子にもたれたまま、短く息を吐く。
「あぁ……」
それだけだった。
眠りの王は、神代の様子をうかがうように、
少し間を置いてから言う。
「皇位様の計画……
必ず、成功しますよ」
励ましとも、確信とも取れる言葉。
神代はすぐには答えない。
視線を落とし、砕けた円卓の残骸に目を向ける。
粉塵は、すでに床に沈んでいた。
「……そう簡単じゃない」
低く、静かな声。
眠りの王が、わずかに首を傾ける。
「……と、言いますと?」
神代は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「あの時だ」
「Iridiumを出た時、
施設長に会った」
眠りの王の気配が、わずかに強張る。
「なぜか……
見逃された」
「追撃もなかった。
警報も、遅かった」
神代は、淡々と続ける。
「理由は分からない。
だが――」
「俺は、あいつを化け物だと察した」
眠りの王は、何も言わない。
ただ、続きを待っている。
「Iridiumを破壊するには、
あいつを倒す必要がある」
「そのためには……
まだ足りない」
神代は、ゆっくりと立ち上がる。
「人材も、数も、
そして“覚悟”もだ」
「だから、気を緩めるわけにはいかない」
神代は、眠りの王を一瞥する。
「一切、だ」
眠りの王は、静かに頷いた。
「……承知しました」
再び、沈黙が訪れる。
だが先ほどの沈黙とは違う。
それは、次の段階へ進むための、
準備の時間だった。
続く
今回の話は、
神代視点で描かれた回となりました。
それぞれの王、
マギア・サピエンスという存在、
そして――
プロジェクトA・O。
この先、
物語の軸となっていくものが、
少しずつ姿を見せ始めます。
引き続き、
見守っていただけたら嬉しいです。




