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水の精霊マリン

今回は、シエラの異世界時代を知る人物が登場します。

ささやかな日常回ですが、物語的には大切な一話です。

ぜひ最後までお楽しみください!

9時30分。

超越課のオフィスには、午前のやわらかな日差しが差し込んでいた。


ブラインド越しに落ちる光が、床に細い影をつくっている。

騒がしさはなく、キーボードの音も今日は聞こえない。


りんと拓磨は外出中だった。


広いオフィスに残っているのは、シエラと、みゆきだけ。


シエラは自分のデスクに座り、分厚い資料を前にして腕を組んでいた。


視線は紙面に落ちているが、その眉間にははっきりとしたしわが寄っている。


「……日本語、むずい……」


ぽつりと零れた声は、半分愚痴だった。


ひらがなとカタカナは、だいぶ覚えた。

簡単な単語も、いくつかは読めるようになってきた。

それでも――


資料の中ほどに並ぶ漢字の列は、まるで別の言語のように見える。


意味は、なんとなく分かる。

けれど、読み方が分からない。


シエラは資料をぱたんと閉じ、背もたれにもたれかかった。


「……むぅ〜、疲れた!」


誰に言うでもなく、不貞腐れたように呟く。


そのまま視線を泳がせて、ふと、別のデスクに目が留まった。


みゆきだった。


椅子に座ったまま、背中を少し丸めている。

手元には一枚のプロマイド。


胸元を伏せるように持ちながら、口元が――緩んでいた。


理由のない笑いではない。

明らかに、何かを見ている笑い方だった。


しかも、やけに楽しそうだ。


みゆきは小さく息を吐き、またプロマイドに視線を落とす。

そのたびに、口角がわずかに上がる。


シエラは、じっとその様子を眺めた。


(……なにしてるんだろ)


シエラは椅子から立ち上がり、音を立てないように歩き出す。



みゆきのデスクの上には、一枚のプロマイドが置かれていた。

写真用の光沢紙に写るのは、水色の髪に猫耳をつけた少女。


みゆきはそれを両手で持ち、じっと眺めている。

口元が、どうしても緩んでしまう。


「……昨日、初めて行ったけどさ……」


誰に聞かせるでもない、小さな声。


「猫耳カフェ。

 秋葉原に、こんなのあるなんて……」


プロマイドを指でなぞり、ため息をひとつ。


「あぁ……

 あの水色髪の子に、また会いたいなぁ……」


その瞬間――


「み〜ゆき!」


背後から、明るい声。


「ひゃうっ!?」


みゆきは肩を跳ねさせ、思わずプロマイドを胸に引き寄せた。


「な、なに!?

 急に声かけないでよ!」


振り返ると、そこにはシエラ。

腹を抱えて、ケラケラ笑っている。


「ちょ、今の反応なに!?

 びっくりしすぎ! ウケるんだけど!」


「シエラ!!

 ほんと心臓に悪いからやめて!」


「だってさ〜」


シエラは肩をすくめ、楽しそうに言う。


「さっきからずっとニヤニヤしてるんだもん。

 なにしてるのかな〜って」


「な、なんでもないから!」


みゆきは慌てて言い返す。


「シ、シエラには関係ないでしょ!」


「へぇ?」


その瞬間。


「――なにこれ」


シエラの手が伸び、

みゆきの手元からプロマイドをばっと取った。


「ちょっ!!

 返しなさいよ!!」


「ふーん……」


シエラは何も言わず、写真に目を落とす。


数秒の沈黙。


オフィスの静けさの中で、

シエラの視線だけが、写真に縫い止められていた。


やがて、ゆっくり顔を上げる。


「……みゆき」


声の調子が、少し変わる。


「この子、どこにいた?」


「え?」


「どこで会ったの」


みゆきは一瞬だけ言葉に詰まり、観念したように答えた。


「……秋葉原の猫耳カフェ。

 《Cat’s Veilキャッツ・ヴェイル》だけど」


次の瞬間。


「いこ!」


シエラが即答した。


「今度の休み、みゆきと一緒だから!

 一緒に行こ!」


「えっ?」


「えっ、えっ!?」


みゆきが戸惑っている間に、

シエラはもう決めた顔になっていた。



          ◆


二日後。


昼前の秋葉原駅周辺は、平日にもかかわらず人で溢れていた。


改札を出てすぐの広場には、観光客と常連が入り混じり、

大きなキャリーケースを引く人、

紙袋をいくつも抱えた人、

スマートフォンを掲げて写真を撮る人の姿が絶えない。


雑踏の中を流れる音も、どこか独特だった。

アニメの主題歌が遠くから聞こえ、

路上の看板が視界を埋め尽くす。


派手なプリントのアニメTシャツを着た男性。

キャラクターのバッグを肩から提げた集団。

中には、ウィッグやコスプレ衣装を身につけた人もいて、

街そのものが一つの展示場のようだった。


その一角、

駅前の少し人通りが落ち着く場所で、みゆきは立っていた。


腕時計をちらりと確認し、

改札の方へ視線を向ける。


(そろそろ、来るはずなんだけど……)


人の流れを追っていると――


「みゆき〜!」


聞き慣れた声が、雑踏の向こうから飛んできた。


振り返る。


改札を抜けてくる人波の中、

一際目を引く姿があった。


手を大きく振りながら歩いてくるのは、シエラだった。


白を基調にした、少し短めのトップス。

動くたびに軽く揺れる、ギャル特有のシルエット。

腰の位置が高く見えるスカートに、

全体を引き締めるベルト。


露出は控えめなのに、

なぜか目を引く――そんなバランス。


いつものラフな格好とは違う。

明らかに“気合を入れてきた”服装だった。


シエラはみゆきの前まで来ると、ぴたりと足を止めた。


「お待たせ!」


少し息を弾ませた声。

その表情には、隠しきれない楽しさが浮かんでいる。


みゆきは軽く首を振った。


「ううん。

 私も今来たところだから、大丈夫よ」


「ほんと?」


「ほんと」


そう言って笑うと、シエラは満足そうに頷いた。


「じゃあ――」


ぐっと拳を握り、前を指さす。


「しゅっぱ〜つ!」


そうして二人は、並んで秋葉原の街へと踏み出した。




路地を一本入った先、

古い雑居ビルの前で、みゆきとシエラは足を止めた。


見上げると、三階の窓の横に、

**《Cat’s Veil》**と書かれた小さな看板が下がっている。


「……着いたよ」


そう言って振り返ると、

シエラは看板を見上げたまま、じっと動かない。


「……ここ、なんだ」


胸元に手を当て、

小さく息を吸う。


「なんか……ドキドキする」


その横で、みゆきも無意識に拳を握っていた。


(……また、会えるんだ)


あの水色の髪。

柔らかい笑顔。


思い出しただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


(やば……

 鼓動、速……)


誤魔化すように、みゆきは視線を逸らした。


「ほら、行こ」


ビルの中に入り、

二人は階段を上がっていく。


古い鉄の手すり。

足音が、やけに大きく響く。


三階。


目の前の扉には、

控えめな装飾と、小さなプレート。


みゆきは一度だけ深呼吸し、

ドアノブに手をかけた。


――カラン。


鈴の音とともに、扉が開く。


「おかえりなさいませ、にゃん主さ……」


カウンターの奥から、澄んだ声。


途中で、その声が止まった。


水色の髪。

猫耳。


綺麗なアクアマリンの目を見開いたまま、固まっていた。


「……ふぇ!?」


次の瞬間。


「マリ〜ン!!

 会いたかったよ〜!」


シエラが、満面の笑みで駆け寄った。


「シエ……ラ、ちゃん……?」


マリンは一歩後ずさり、

信じられないものを見るように瞬きを繰り返す。


その様子を見て、

みゆきの思考が完全に停止した。


「えっ……?」


「えっ!?」


「えーー!!?」


声にならない驚きが、店内に転がった。



          ◆



店内の壁は淡いピンク色。

派手さはなく、柔らかい色合いで統一されている。

照明も明るすぎず、どこか落ち着いた光だった。


壁際には、猫をモチーフにしたイラストがいくつか飾られている。


丸みのある線で描かれたそれは可愛らしいが、

子ども向けというほど甘くはない。


店内には、すでに何組かの客がいた。


一人でテーブルに座り、

静かにメニューを眺めている男性。


向かい合って座り、

小声で話しながら笑っている友人同士。


そして、意外なことに――

女性客の姿も少なくなかった。


シエラはソファに腰を下ろすと、落ち着きなく背もたれに体重を預けたり、前のめりになったりを繰り返していた。


やがて、足音が近づいた。


トレーを両手で抱え、マリンが戻ってくる。

その上には、ドリンクと――ケチャップで猫の顔が描かれたオムライス。


テーブルの前で、マリンは一瞬だけ立ち止まった。


「……こほん」


小さく咳払い。


深呼吸をひとつしてから、覚悟を決めたように顔を上げる。


「ご……ご奉仕パワー、全開ですっ!」


ぎこちない動きで、両手を猫の形にする。


「にゃんにゃん、きゅんっ……!」


言い切った瞬間、頬が一気に赤くなった。


「――ぶっ!」


シエラが吹き出す。


「マリン!

 なにそれ!!」


「うぅ……!」


マリンは視線を泳がせ、耳まで真っ赤にする。


「し、仕事だから……!

 決まりだから……!」


肩をすくめるその様子に、

みゆきは思わず息を呑んだ。


「……尊い……」


ぼそっと零してから、はっと我に返る。


ぶんぶんと首を横に振り、気を取り直すように二人を見る。


「……ね、ねぇ。

 シエラと、マリンちゃんって……知り合いなの?」


「うん! そうだよ!」


シエラは迷いなく答えた。


「レヴァルティア大国時代の、同じパーティメンバーなんだ!」


「パーティ……?」


みゆきが首を傾げると、シエラは胸を張る。


「そうだよ!名前はね――

 ギャルと、ときどきせいれいと、まおう!」


「……なんだそりゃ」


みゆきの素直なツッコミが、静かな店内に落ちた。


マリンは俯いたまま、小さく呻く。


「……お願いだから……その名前恥ずかしいからここで言わないで……」


シエラは、楽しそうに笑っていた。


「そしてね!マリンってね、こう見えても――」


マリンの方を見て、にっと笑う。


「水の精霊で、とっても強いんだよ!」


「ちょ……ちょっと!」


マリンは慌てて手を振る。


「そ、そんな言い方しなくていいから……!」


みゆきは改めて、マリンをじっと見た。


「……精霊、ね」


ぽつりと呟く。


「正直、あんまり実感湧かないかも」


「えー!」


シエラが声を上げる。


「すっごく強いのに!」


「いや……」


みゆきは苦笑しながら視線を逸らす。


目の前にいる精霊が、

猫耳をつけて、猫の尻尾をつけて、

カフェで働いている。


そんな光景を、

誰が想像できるだろうか。


マリンは小さく咳払いをして、話題を切り替えるように言った。


「……ご注文、追加はありますか?」


シエラとみゆきは顔を見合わせ、笑った。


          ◆




夕方。


店内の明かりが、少しだけ柔らかくなる時間帯。


シエラは席を立ち、満足そうに伸びをした。


「マリン!

 今日は楽しかった!」


「……うん」


マリンは微笑む。


「また、来てね」


「もちろん!」


そう言って、シエラは大きく手を振った。


「絶対また来るから!」


マリンは小さく頷き、その背中を見送った。




店を出て、夕暮れの街を歩く。


昼間の賑やかさが少し落ち着き、

空の色がゆっくりと変わっていく。


みゆきは、隣を歩くシエラをちらりと見た。


シエラがすぐに気づく。


「ん?

 どしたの?」


「……ううん」


みゆきは首を振り、前を向いた。


「なんでもない」


それ以上は、言葉にしなかった。


けれど、心の中では思っている。


――シエラに会ってから、

私の“現実”は、かなり変わった。


異世界から来た女の子がいて。

水の精霊の女の子がいて。


そんなことが、

当たり前のように日常に混ざっている。


きっと、これから先も。


もっと、もっと――

非日常的なことが起こるのだろう。


みゆきは空を見上げ、静かに息を吐いた。


並んで歩く二人の影が、

夕暮れの道に長く伸びていた。


今回は、少し穏やかな日常回でした。

シエラの異世界時代に関わる人物も登場し、

物語の世界が、また少しだけ広がった回になったと思います。


次回も日常回となります。

白石結衣と加藤優馬、二人の時間を描くお話です。

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