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人は極度の恐怖状態に置かれると、
「叫ぶ」「動く」よりも先に
固まってしまうことがあります。
作中で多くの人物が
すぐに行動できなかったのは、
この心理反応を意識しています。
それでは本編お楽しみください!
銀行のロビーは、異様な静けさに包まれていた。
床に倒れているのは、五人の警官だった。
誰も動かない。
全員、頭部から血を流している。
赤黒い血が床に広がり、照明を反射して鈍く光っていた。
撃たれた痕跡は、見当たらない。
弾痕も、破片も、銃声の残響すらない。
それが、余計に不気味だった。
ロビーの隅では、人質たちが身を寄せ合って座り込んでいる。
誰も声を出さない。
肩をすくめ、膝を抱え、歯を噛みしめている。
恐怖で身体が震えているのに、叫ぶことすらできない。
その中に、一人の子供がいた。
小さな手を強く握りしめ、唇を噛んでいる。
泣きそうなのを、必死に堪えていた。
声を出したら、何かが起きる。
そう直感していた。
白石は、銃を構えたまま立ち尽くしていた。
(……何が、起きた?)
頭が、追いつかない。
新田が石を軽く投げた瞬間、一瞬で――。
周囲にいる警官たちも同じだった。
誰も、次の行動に移れない。
銃を構えたまま、固まっている。
その沈黙の中心で、新田が動いた。
右手の掌から、
小さな石を――ひとつ。
軽く、上へ放る。
石は、ふわりと宙に浮き、
次の瞬間、落ちてくる。
新田はそれを、何でもない動作で受け止めた。
「俺はなぁ」
声は、驚くほど落ち着いていた。
「速さを自在に変えられる能力者だ」
「くそっ……!」
警官の一人が、歯を食いしばった。
恐怖か、怒りか、
判断する余裕はなかった。
引き金が、引かれる。
「おい! やめ――」
白石の声は、途中で途切れた。
乾いた発砲音。
――しかし。
弾丸は、飛ばなかった。
いや、
飛んでいるのに、遅すぎた。
金属の塊が、
まるで水の中を進むように、
ゆっくり、ゆっくりと新田へ向かっていく。
空気を切る音はない。
衝撃波もない。
ただ、
異様な静けさの中で、
弾丸だけが進んでいく。
白石は、目を見開いた。
(……見えてる)
速すぎて見えないはずの弾が、
はっきりと、目で追えてしまう。
新田は、微動だにしない。
弾丸が、
彼の目の前まで来た、その瞬間。
新田は、
指先で――軽く、弾いた。
次の瞬間。
「ピュンッ」
甲高い音とともに、
弾丸は本来の速さを取り戻し、
あり得ない方向へと弾き飛ばされた。
視界から、一瞬で消える。
直後――
どこかで、鈍い衝撃音。
「……おいおい」
新田が、肩をすくめる。
「危ねえじゃねえか。
俺じゃなかったら、死んでたぞ」
冗談めかした声だった。
その軽さが、
この場の空気をさらに凍らせる。
白石は、歯を食いしばった。
新田は、もう次の動作に入った。
ポケットから、
両手いっぱいの石を取り出す。
指の隙間から、
小さな石がこぼれ落ちそうになる。
「これで――」
新田は、警官たちを見回す。
「お前ら、終わりだな」
軽く、腕を引く。
投げる――
その体勢に入った瞬間。
「伏せろ!!」
白石の声が、ロビーに叩きつけられた。
次の瞬間。
新田の腕が振られる。
「散弾加速」
石が、放たれた。
――否。
散った。
無数の石が、
散弾銃のように四方へ広がる。
「ピュン、ピュン、ピュン」
甲高い音が、連続して響く。
目で追えない速さ。
理解するより先に、
身体が崩れ落ちていく。
一人、また一人。
警官たちが、
糸を切られた人形のように倒れていく。
悲鳴は、ほとんど上がらなかった。
当たった瞬間には、
もう終わっていたからだ。
銃が床に落ちる音。
身体が倒れる音。
血が弾く音。
それだけが、ロビーを満たす。
新田は、投げ終えた手を下ろし、
ふう、と小さく息を吐いた。
「……っと」
静寂。
白石は、
伏せたまま、数秒動けなかった。
やがて、恐る恐る顔を上げる。
視界に入ったのは――
倒れ伏す数十人の警官たち。
立っている者は、ほとんどいなかった。
それでも。
人質たちは、
誰一人として傷ついていない。
泣いていた子供も、
床に伏せたまま、震えているだけだった。
(……警官だけ)
狙ったのは、
最初から――それだけ。
白石の背中を、
冷たい汗が伝った。
「……なあ」
新田が、低く笑う。
「俺はなぁ」
視線が、白石を射抜く。
「俺の愛した彼女……明香里を見殺しにした
お前ら警察を、許せねぇんだよ」
「……!?」
白石が、息を呑む。
新田は構わず続けた。
「一年くらい前からだ。
明香里はストーカーに付きまとわれてた」
淡々とした口調だった。
「一緒に帰った。
同棲するようにした。
できる対策は、全部やった」
一瞬だけ、歯を噛みしめる。
「……それでも、
守れねぇ時間はあった」
視線が、床に落ちる。
「被害は日に日にひどくなっていった。
だから俺は、警察に行った」
白石を、見上げる。
「お前ら警察は、何て言ったと思う?」
答えを待たず、新田は吐き捨てる。
「事件性がない。
その一言で、追い返された」
ロビーが、静まり返る。
「……二週間前だ」
声が、わずかに低くなる。
「明香里は、殺された」
「犯人は捕まった。
でもな」
新田は肩をすくめた。
「それ以降、
お前らは何も言わなかった」
怒鳴らない。
叫ばない。
それが、逆に重かった。
「俺は憎んだよ」
視線が、ゆっくりと上がる。
「犯人を。
お前らを。
……それと、自分自身をな」
「俺に力があればって思った」
「――その瞬間…あの方が、現れた」
白石の眉が、わずかに動く。
「力をやるって言った。
好きに使えってな」
新田は、笑った。
「嬉しかったよ」
その笑みは、歪んでいる。
「これで復讐できる」
「お前ら警察を。
犯人を。
そして――」
ほんの一瞬、言葉が途切れる。
「俺自身を、殺せる」
ロビーの空気が、完全に凍りついた。
白石は、言葉を失ったまま、
ただ新田を見ていた。
「……もう終わりにするぞ」
新田が、低く言った。
次の瞬間、
裏ポケットから金属の棒を抜き取る。
手首を返すだけで、
棒は一瞬にして本来の長さへと伸びた。
警官の一人が、反射的に銃を向ける。
――その姿が、消えた。
白石の視界が、わずかに歪む。
次の瞬間には、
その警官の目の前に、新田がいる。
棒が振られた。
鈍い音。
頭部を叩き抜かれ、
警官は声を上げることもなく崩れ落ちた。
――見えたのは、そこまでだった。
一人が倒れた、その直後。
周囲の警官たちが、
どさ、どさ、と連続して倒れていく。
誰が、どこで、
どう殴られたのか――分からない。
新田の姿が、
白石の目には、かろうじて残像として映るだけだった。
警部も、
次の瞬間には膝を折り、床に倒れ伏していた。
(……反応、できない)
そう思った、その瞬間。
――背後。
白石の脳裏に、
最悪の想像が走る。
(加藤くん――!)
視線の先。
ロビーの奥、
カウンター脇の業務スペース。
銀行のパソコンが並ぶ一角に、
加藤の姿があった。
距離が、ある。
声を掛ける余裕はない。
考えるより先に、
白石の身体が動いていた。
そのまま、力任せに加藤を押し倒した。
「白石さん……!?」
加藤の声。
――直後。
背中に、
とてつもない衝撃。
金属が、肉を打つ感触が、
はっきりと伝わった。
「あぁ!!」
白石の叫びが、
ロビーに響いた。
そのまま床に倒れ込む。
息が――
入らない。
肺が、潰れたみたいに空気を拒む。
吸おうとしても、喉がひくりと痙攣するだけだった。
視界が、ぐにゃりと歪む。
「白石さん!!」
加藤の声が、遠くから聞こえた。
駆け寄ってくる足音。
肩を支えられる感触。
「し、白石さん……!大丈夫ですか!?」
答えようとしても、声が出ない。
痛みが、胸の奥で暴れている。
白石は、震える指で、
胸元のポケットに手を伸ばした。
新田は、その様子を見下ろしていた。
冷え切った視線。
「……あの方の言う通りだ」
独り言のように、呟く。
「能力を持ってねえ人間は、
能力者相手には――何もできない」
「超越課ってのが来なきゃ、
お前らは――虫同然だ」
視線が、白石に向く。
「……あっけないな」
白石の視界が、さらに滲む。
床に伏せたまま、
白石は小さく身体を丸めた。
痛みに耐えるように、
胸元を掴む。
呻き声に紛れて、
指先が――一度だけ動いた。
加藤の影が、視界を遮る。
「白石さん……」
その一瞬。
ピッ。
音は、外には漏れない。
胸元のピッチが、
無言のまま起動する。
対異能者緊急コード――《505》。
白石は、歯を食いしばり、
かすれた息のまま、吐き出した。
「……5……0……5……」
それだけで、限界だった。
指から、力が抜ける。
白石は、そのまま動かなくなった。
続く
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
新田の能力、
シンプルですがかなり厄介ですよね。
「速さ」を操れるだけで、
ここまで一方的な展開になるのか、という回でした。
そして、
頼りにしていた白石も倒れ、
現場に残されたのは加藤ただ一人。
正直なところ、
「これ……大丈夫なのか?」
と思ってもらえたなら、狙い通りです。
次回、
この絶望的な状況がどう動くのか。
超越課は間に合うのか。
もう少しだけ、
続きにお付き合いください。




