偽りの楽園
ジムでのいつものトレーニング中、
突然シエラが崩れ落ちる。
助けようとする拓磨の前に立ちはだかる、
無表情のトレーニーたち。
声も届かず、視線すら空虚なまま。
まるで心が抜け落ちてしまったように――。
支配された空間で、拓磨はひとり立ち向かう。
シエラを救い出すために。
その瞬間、全てが狂いはじめる。
――ここから先を、ぜひ見届けてください。
鉄のぶつかる乾いた音と、短く吐き出される息。
ジムは、熱気と闘志でむせ返りそうなほど満ちていた。
拓磨はレッグプレスに背中を預け、汗を滴らせながら必死に足を押し出す。
「……くっ、あと……十回……!」
筋繊維が悲鳴を上げる。
それでも拓磨は笑っていた。
ギリギリで足を戻し、息を吐きながら視線を上げる。
隣のベンチでは別のトレーニーが重量を叩き上げていた。
みんな、今日も己と戦っている。
その一体感が、心を熱くする。
「……よし、ラスト」
再びプレートを押し出した――その瞬間。
ドサッ。
不自然な、重い音が響いた。
気づけば拓磨は、振り返っていた。
シエラが、床に倒れていた。
目は開いたまま、焦点がどこにも合っていない。
「……シエラ?」
呼びかけた声は、自分でもわかるほど震えていた。
そのすぐ後ろに、小田切が無表情で立っていた。
まるで倒れたシエラを “眺めているだけ” のように。
嫌な悪寒が、背骨を這い上がる。
「なに……してんだよ……」
拓磨の喉がひくついた。
ジムの熱気が、一瞬で凍りつく。
踏み出そうとした足――
その前に、影が滑り込む。
四、五人のトレーニーが無言で立ち塞がった。
「おい!! そこどけって!!」
返事はない。
無感情のまま拓磨を見つめてくる。
拓磨は歯を食いしばり、拳を握った。
踏み込みさえすれば、突破はできる。
(……くそ……やるしかねぇのか)
肩をひねり、拳を振り上げる。
だが――寸前で腕が止まった。
(ダメだ……相手はただの利用されてる一般人だ……!
傷つけるわけにはいかねぇ……!)
その瞬間、横から鈍い衝撃が胸をえぐった。
「ぐっ……!」
続けざまに腹、顔、こめかみへと打撃が降り注ぐ。
防ぐ腕ごと叩きつけられ、視界が揺れる。
「っ……やめろ……!!」
振り払えない。
反撃できない。
殴られ続ける自分が、あまりにも情けなかった。
膝が沈む。
鉄の匂いと汗の臭いが、混ざり合う。
世界がぼやける。
視界の端――
小田切がいた。
無表情のまま、ただ冷たい目で見下ろしてくる。
(……シエラ……)
彼女の名を心で呼んだ瞬間、
拓磨の意識は暗い底へ沈んでいった。
背中に、ねっとりとした湿気がまとわりついていた。
冷たいコンクリートの床は、水分を含んで黒ずんでいる。
鉄錆とカビが混ざったような臭いが鼻の奥にこびりつき、呼吸するだけで喉が痛む。
薄暗い照明が、天井でチカチカと瞬いた。
光の届かない影が、不気味に蠢いて見える。
拓磨はゆっくりと目を開け、意識をかき集めた。
「……っ、ここ……どこだ……?」
立ち上がろうとした瞬間、両手首に繋がる鎖がジャラリと音を立てる。
自由を奪われた感覚が、胸をぎゅっと締めつけた。
(シエラ……!)
辺りを見回す。
どこにもいない。
「シエラ!!」
声が吸い込まれるように消える。
返事はない。
そのときだった。
カツ……カツ……カツ……
コンクリートを打つ靴音が、ゆっくり近づいてくる。
足音に合わせて、心臓が嫌な鼓動を刻んだ。
暗闇の奥から姿を現したのは――小田切。
その背後に、無表情のトレーニーたち五人が整列していた。
「……目が覚めましたか、拓磨さん」
感情の起伏を一切感じさせない声。
ただ作業の確認をするような、冷たい口調だった
「シエラはどこだ!!」
拓磨は、喉が裂けるぐらいの勢いで叫んだ。
小田切は少しだけ、口角を引きつらせた。
それは笑顔とは言えない、皮膚だけが歪んだ表情。
「少々…精神の調整をさせてもらいました。
安心してください。怪我はしていませんよ……」
優しさを装った声。
だがその瞳には、温度が欠片もない。
拓磨の背筋に、氷のつららが突き刺さる。
「……ふざけんな……」
唇が震え、怒りと恐怖が同時にこみ上げる。
「そして、次は……あなたの番です」
小田切が静かに言った瞬間――
トレーニーたち五人が、
まったく同じタイミングで一歩前へ踏み出した。
拓磨は歯を食いしばり、両手を動かそうとした。
ジャラリ。
金属が擦れる音が、耳に刺さる。
「……こんなもん……」
足を踏み込み、全身の力を腕に叩き込む。
手首の皮膚が裂け、血が滲む。
だが――
バキィッ!!
鉄の鎖が、悲鳴を上げて千切れ飛んだ。
小田切が薄く目を見開く。
「……なんと。鎖を引きちぎるとは……
あなたも“特別な側”の人間だったのですね」
「舐めんなよ」
拓磨の掌に、炎が宿った。
小さな火種が、怒りと共に膨れ上がる。
「シエラを返せ!!」
その炎が――
轟と音を立て、放たれようとした瞬間。
ドッ。
五人のトレーニーが
肉の壁のように、小田切の前へ滑り込んだ。
まるでその動きを読んでいたかのように。
「邪魔だ!! 退けよ!!
焼けるぞ……!!」
叫びは空気に溶けるだけ。
五人は、無言のまま睨み返してくる。
小田切が静かに歩み寄る。
「……あなた、お優しいんですね。
壁ごと焼き払えばいいものを」
「黙れ……!」
掌の炎が揺れる。
だが撃てない。
撃てば、こいつらが――死ぬ。
「だけど、そんなんじゃ……」
言い終える前に――
小田切の姿が、視界から掻き消えた。
(どこだ――)
「私を捕まえられませんよ?」
声は背後から落ちてきた。
「――っ!?」
気づいた時には、
小田切の手が拓磨の後頭部を掴んでいた。
ドンッ!!
「ぐあぁああ!!」
顔面がコンクリートに叩きつけられる。
歯の奥に鉄の味が広がる。
腕ごと床に押しつけられ、背中へ膝が深く食い込む。
「……お前だったのか」
床に押さえつけられたまま、拓磨は歯を噛みしめる。
「埼玉県所沢市での――
行方不明事件の犯人は……お前だろ」
小田切は否定しなかった。
ただ、静かに言葉を返す。
「私はただ…変わりたいのに変われない人たちを、救いたかったんです」
小田切は、抑揚のない声で続けた。
「大手ジムで働いていた頃……
努力しても結果が出ない人間を、
何人も見てきました」
「過度な食事制限をさせられて、
少し戻れば全部“本人の甘さ”にされる」
「痩せても、筋肉をつけても、
心は置き去りのまま」
「不安を煽って契約を増やし、
挫折すれば、はいそれまで」
小田切の声は、淡々と落ちていく。
「――そんなやり方が、正しいとでも?」
小田切は一度、呼吸を整えるように目を伏せた。
「そんなもの――
間違っているでしょう!!!」
小田切の声が、鋭く弾けた。
押しつぶされた空気が跳ね返り、牢の壁が震える。
「だから私は独立しました。
みんなが来て、良かったと思えるジムを作るために」
指の力が強まる。
拓磨の頬がさらに床へ押しつけられる。
「最初は全然ダメでしたよ。
赤字続きで……泣く暇もなかったくらいです」
「でも、ある日。
一人の女性が体験で来てくれたんです」
「楽しいって言ってくれました。
また来たい、と」
少しだけ、口元が緩む。
「それからも何度も何度も通ってくれて……
毎回、楽しいって……笑って」
声のトーンは淡々としたまま。
だが、その次の言葉だけは僅かに歪んでいた。
「――なのに、目が笑っていないように見えたんです」
「初めは……気のせいだと思いました」
「ただの思い過ごしだと。
私が疲れているだけだと」
「でも、ある日――
ビラを配った時に気づいたんです」
「みんなが受け取ってくれて、
“行きたい”と言ってくれた。
次々と、嬉しいはずの言葉が続いたのに……」
「全員、同じ目をしていた」
淡々とした声が少しだけ震える。
「笑っているのに……
目だけが、まったく動かないんです」
「怖くて。
その場から走って逃げたこともありました」
「でも、どういうわけか……
ビラを渡した人たちが全員、翌日には来てくれたんです」
「指示を出すと……その通りに動く」
「私の言葉ひとつで
行動も、心も……変わっていく」
「それで……私、思ったんです」
小田切はゆっくりと顔を上げた。
薄暗い牢の光が、その瞳に妖しい輝きを宿す。
「私には――特別な力があるのだと」
「この力があれば、誰だって変えられる。
苦しんでいる人の身体も、心も、未来さえも……」
その声は震えていない。
救いを語る神父のように、純粋で歪んでいた。
「私のトレーニングで、
“理想の自分”にしてあげられるんですよ」
「……狂ってやがる」
拓磨は唸るように吐き捨てた。
小田切はゆっくりと首を傾げ――微笑んだ。
「分かっていますよ。
こんなこと、公にすれば私は捕まります」
静かで、穏やかで。
自分が“悪”である自覚すら持った上での声。
「でも……!」
ぐいと拓磨の頭を押しつける手に、力がこもる。
「私の夢を叶えるためには――
これしかないんです!!」
瞳は揺れていない。
確信しかない眼だった。
「私はいつか……ここを――」
小田切はゆっくりと視線を巡らせた。
まるで未来の光景がすでに見えているかのように。
「みんなが楽しく筋トレできる――
楽園にするのが夢なんです!!」
その言葉が響いた刹那。
パチ…パチ……パチ……
不自然な拍手が、牢内に木霊した。
後ろに並んだトレーニーたちが、
表情一つ変えず 両手を打ち鳴らしている。
喜びの色は、欠片もない。
瞳は空洞のまま。
ただ機械のように、音だけを響かせる。
「……っ」
拓磨の背筋に冷たいものが走った。
これは応援じゃない。
支配された肯定だ。
小田切はその拍手を聞きながら――
恍惚とした笑みを浮かべていた。
「さぁ……拓磨さん」
掴んだ後頭部へ、ぬるりと力が篭もる。
「あなたも……私と一緒に素晴らしい楽園を築きあげましょう!!」
その掌から、青い光が滲み出した。
皮膚を通して直接、脳の奥へ染み込んでくるような――冷たい闇。
「くそ……離せっ……!」
拓磨は全力で振りほどこうと暴れる。
だが指は鉄のように食い込んだまま、離れない。
「抵抗は無駄ですよ。
すぐに、“楽”になりますから」
青いオーラが、じわりと頭蓋に侵入する――その瞬間。
ドサッ。
ドサドサッ。
ガシャーン!!
背後から、次々と倒れ込む音。
「……え?」
小田切の手が止まった。
拍手をしていたトレーニーたちが、全員床へ崩れ落ちていた。
「な、何が……?」
小田切が振り返った瞬間、ほのかに甘い香りが、静かに空気へ溶けた。
続く
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
いや~、筋トレって最高ですよね?
みんなで汗を流して、楽しく鍛えて、
“理想の自分”になれる合宿ジム!
……ただし、心が支配されちゃう場合がありますが。笑
皆さんは、こんな特別なジム……
行ってみたいですか?
次回でいよいよ4章完結です。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです!
いつも応援ありがとう!




