気づいたらダメだよ
今日はジムのご褒美回!
まさかの温泉付きジムでクールダウン
いいなぁ……!実際こういうとこあるんですかね?
汗流して、のんびりお風呂。
……のはずだったんだけど――?
14:00
ケーブルが滑らかに動くたびに、金属が低く鳴った。
フロア全体に、汗と鉄の匂いが混ざっている。
昼の喧騒が落ち着き、今は真剣な呼吸音だけが響く。
シエラは無駄のない動きで、ハンドルを引き続けていた。
姿勢は崩れず、表情も変わらない。
「そこまで」
小田切が音もなく近づく。
「シエラさん。本当に初日ですか?
これ以上は負担になります。よく頑張りました」
「ん、そっか」
指を開くと、ケーブルがゆっくり戻っていく。
「拓磨さんも、結構お疲れでしょう?」
「うっす」
パワー系の器具にもたれて、息だけ荒い。
「うちは温泉がありますので、入ってきても大丈夫ですよ。
水風呂も完備してます」
「水風呂!? 意識高いなぁ!」
「温泉……入りたい」
シエラの声が少し上ずる。
二人は自然と小田切の背中を追っていた。
木目の壁。
赤と青の暖簾が、ふわりと揺れている。
温かい湯気の匂いがここまで届いてきた。
「では、ごゆっくり」
小田切が軽く会釈する。
「じゃ!俺、入ってくる!」
拓磨は迷いなく青い暖簾を押し開けた。
「うん。またあとで」
シエラも赤い暖簾へ手を伸ばす。
暖簾をくぐると、小さな脱衣所があった。
白いタイルが明るくて、思ったより静か。
「ふぅ……ちょっと疲れたかも。
筋肉痛になりそ」
シエラはそうこぼしながらジャージを脱ぎ、
カゴに畳んで置いた。
「あなた、シエラさんっていうんですよね?」
不意に背後から声がして、シエラは振り返る。
20代くらいの女性が立っていた。
髪をタオルでまとめ、運動後の顔で笑っている。
「私、今からお風呂なんです。
一緒に入りませんか?」
「あ、うん」
シエラが頷くと、女性は軽く頭を下げた。
「あっ私、紗希って言います。よろしくねお願いします。」
「紗希っていうんだね!こちらこそよろしくね!」
シエラがタオルを手に取ると、
二人はそのまま洗い場へ向かった。
ドアを引くと、湯気がふわりと押し出してくる。
奥に大きな浴槽。
広い空間に、数人が静かに浸かっている。
「わぁ……広い」
シエラは思わず声を漏らす。
「まずはシャワーで身体流してから。
終わったら一緒に水風呂入りましょ?」
紗希がタオルを肩にかけたまま言う。
「うん」
シエラは頷き、シャワーのつまみをひねった。
温かい水が頭から一気に落ちてきて、肩を濡らしていく。
つまみをキュッと締める。
冷えた水滴が、背中をつーっと滑り落ちた。
シエラは髪をかき上げて立ち上がる。
「終わった?」
すぐ後ろから、紗希の声。
もう近くにいたことに気づかず、シエラは一瞬だけ肩を揺らす。
「うん。終わった」
「じゃあ、一緒行こ?」
笑ってそう言うと、紗希の指先がそっとシエラの腕に触れた。
濡れた肌同士が、少しだけ吸いつくみたいにくっつく。
「わっ……」
「こっち、こっち」
紗希は自然な顔で、水風呂へ導いていった。
シエラは恐る恐る足先を入れた瞬間——
「ひゃ…つめた!!」
肩をすくめながら、慌てて胸まで浸かる。
紗希は対照的に、嬉しそうな声で言う。
「冷たいね!」
「いや、冷たすぎ……
てかなんで水風呂?あたし温まりたいのに」
「それはね、筋肉が疲労起こしてるから。
クールダウンが必要なんだって」
「……へぇ。そういうもんなんだ」
シエラは小さく息を吐きながら答えた。
「……あと何秒?」
「あと少し!」
紗希は笑顔のままカウントを続ける。
シエラは肩まで浸かって、歯の根を鳴らしそうに震えた。
「3、2、1……はい、よくできました」
「本当だよぉ……凍え死ぬかと思った……!」
縁を掴んで慌てて立ち上がる。
濡れた肌に空気が触れて余計に寒い。
「大袈裟すぎ〜。ほら、湯船いこ?」
「行く……絶対行く……」
二人は並んで湯船へ向かい、ゆっくり浸かった。
温かい湯が、凍りついた筋肉をゆるめていく。
「はぁ〜……生き返る……」
シエラの表情がとろける。
天井を見上げて、静かに息を吐く。
少しの沈黙。
湯の揺れだけが、ゆらゆらと音もなく広がっていく。
「ねぇ、シエラちゃん」
「ん?」
「シエラちゃんはさ、スタイル良くて……顔も可愛くて……羨ましいなって思ってたの」
紗希は照れたみたいに、湯の中で指先をもじもじさせる。
「えっ?なんで?
紗希もスタイルいいじゃん」
「シエラちゃんほどじゃないよ!
ほんとに……」
紗希の声は柔らかいのに、どこか本気の響きがあった。
湯面が、ゆっくりと揺れた。
紗希は何か考えているように視線を落とし──
それから、決意したみたいに口を開く。
「実はね、私……昔、太ってたの」
シエラは少しだけ驚いて顔を向ける。
紗希は照れくさそうに笑った。
「恋もうまくいかないし、
オシャレしても似合わなくてさ。
なんか全部嫌になっちゃって」
淡い声で続けた。
「ある日、橋の上から川を眺めてたら……
“悩み事がありますか?”って声をかけられて」
「……誰に?」
「師父様に。」
シエラは軽く目を開いた。
「初めて会ったのに、
なんだか安心できて……
気づいたら色々話してたの」
「へぇ……」
「そしたら、
“よかったら来てみませんか”って言ってくれて。
喫茶店だったんだけど、すごく居心地よくてさ」
紗希は少し誇らしげに続ける。
「そこで運動も教えてもらえて、
通ってるうちに体重も落ちてきて」
「それ、すごいじゃん」
「うん。
そしたら師父様が言ってくれたの。
“もっともっと綺麗になれる場所がある”って」
紗希はバシャッと湯を指先で弾く。
「それが、ここ。
食事も管理してくれるし、
設備もすごいし、
何より楽しいんだよね」
迷いのない笑顔。
そのまま、湯に肩まで沈める。
「だから私は、ここに来てよかったって思ってる」
紗希は迷いなく言い切った。
その話を聞きながら、シエラは湯に視線を落とし、
指先で小さく波を立て、
「ねぇ、紗希ってさ……ここにどれくらいいるの?」
シエラが何気なく聞いた。
「んー……もう一ヶ月くらいかな」
「一ヶ月!?」
思っていたより長くて、素の声が出た。
「え?じゃあ仕事とかは?」
「やめたよ?」
紗希はあっけらかんと言う。
「だってここでもお仕事できるし。
サプリの製造とか、カフェのお手伝いとか。
売り上げもちゃんとあるから、生活は困らないよ?」
「へぇ……そうなんだ」
「うん。
栄養の勉強にもなるし、健康にもなるし、
すごい場所なんだよ、ほんと」
紗希は満足そうに湯に顎を乗せた。
「じゃあ私、先に上がるね!」
紗希は湯から立ち上がり、タオルを肩にかける。
「シエラちゃん、またお話ししよ!」
軽く手を振って、笑顔を向けてくる。
「うん。またね!」
シエラも湯から顔だけ出して、同じように手を振った。
紗希はぱたぱたと脱衣所へ向かい、
暖簾の向こうに消えていく。
湯の音だけが静かに揺れる。
(ふぅ……もうちょっと浸かろっかな)
シエラは肩まで沈み直して、
あと少しだけ、温かさを味わった。
――21:00。
部屋の天井スピーカーから、
小さなオルゴール音が流れ始めた。
優しい調子。
子守唄みたいで、眠りに誘う。
「就寝時間……ね」
シエラは電気をカチリと落とした。
薄暗い部屋に、赤いデジタル時計の数字だけが浮かび上がる。
布団に滑り込み、横を見れば――
「ぐごぉ……すぴー……」
拓磨は既に夢の中。
いつも通り、全力のいびき。
「はぁ……寝れないっての」
シエラは小さく頭をかき、
目をぎゅっと閉じた。
(これ、眠りにいい音楽なのかな……)
耳に届くオルゴールの音。
眠気は来るような、来ないような。
「……静かにしてよ拓磨」
ぼそりと呟き、布団を引き寄せる。
――23:00。
「ぐがぁぁ……すぴぃ……がぁ……」
相変わらず、隣から地響きクラスのイビキ。
壁の薄いアパートなら、近隣トラブル待ったなしの音量。
シエラは布団から顔だけ出して、
恨めしそうに拓磨の背中を睨む。
「…………うるさーい!」
声は出さず、口パク。
それでもイラつきが全身から滲み出てる。
「なんなの……ぜんっぜん寝れないんだけど……!」
枕に顔を押しつけながら、
ぐいっと布団を頭まで被る。
(寝る……寝る……寝る……!)
拓磨のイビキは右肩上がりにうるさくなっていく。
「……頼むから静かに……」
目をぎゅっと閉じたまま、
眠りに落ちるその瞬間を、ただ待った。
――6:30。
まだ眠気が残る身体を引きずって、
広い大広間へと向かった。
中にはトレーニングウェアの人たちがずらりと整列。
体育館みたいな空間に、息づかいすら揃っている。
「おっはよー!めっちゃスッキリ寝れた!!」
隣の拓磨、テンションMAX。
笑顔だけで朝日より眩しい。
「……寝れなかったんだけど」
シエラの声は低い。
目の下にしっかりクマが居座っている。
「寝不足か? 夜更かしは良くないぞ!」
拓磨は悪びれなく笑う。
シエラは拓磨をギロっと睨みながら、
(あんたのせいだよッ!!)
とシエラは睨みを深めたまま、心の底で静かにキレていた。
そのとき、壇上に小田切が軽やかに上がった。
スポットライトに照らされたみたいに、爽やかそのもの。
「みなさん、おはようございます。
今日も筋肉を育てていきましょう!」
「おはようございます!!!!」
全員の声が同じ音量、同じ熱量で響いた。
シエラがビクッと肩を跳ねさせる。
(声、デカ……)
小田切が続ける。
「では、三箇条。ご唱和!」
⸻
◆三箇条コール
「一! 食べて鍛えよ!!」
「二! 笑って鍛えよ!!」
「三! 迷わず鍛えよ!!」
それを 三回。
拓磨は全力で叫んでいる。
シエラは目を見開いて戸惑うだけ。
(な、なにこれ……)
「では、バーピージャンプ30回!」
小田切の合図と同時に、全員が一斉に飛んだ。
「1!2!3!」
声が揃う。動きも揃う。リズムが揃う。
「えっ、えっ、ちょっ……」
シエラはワンテンポ遅れて真似する。
心拍だけがどんどん上がる。
「ハハッ!楽しいなこれ!!」
拓磨は本気で楽しそうだ。
(いや、楽しくないから!!)
シエラの心の声が止まらなかった。
10:30
午前のトレーニングが始まって、空気はすでに熱を帯びていた
ダンッ…ダンッ…
床を響かせるフリーウエイトの音。
ローイングマシンのワイヤーが擦れる金属音。
湿った熱気が、肌にまとわりつく。
シエラは昨日と同じケーブルマシンに向かい、
いつもの動きを繰り返していた。
引く。戻す。呼吸を整える。
(……ん?)
ふと顔を上げた瞬間、胸がざわついた。
周囲のみんなが──
まったく同じリズムで、無表情のまま動いている。
(……えっ?)
もう少しよく見ようと、視線を向ける。
近くの女性。
真っ直ぐ前を見る男。
誰もが顔に笑みを乗せている…
笑ってるのに、目だけが死んでる
(仮面みたい…?)
瞬間、背筋がぴんと強張る。
(なにこれ……人形みたい……)
息が浅くなる。
そのとき。
すぐ後ろで、
「──気づいたらダメだよ」
囁きと同時に、
ぐわんっ…!
脳が揺さぶられたみたいに視界が歪む。
膝が抜けて、握っていたハンドルが離れた。
(っ……な、に……)
視界の端が真っ黒に滲む。
音が遠のいていく──
金属音も、息づかいも、消えて。
シエラの視界は
暗闇へ沈んでいった。
続く
温泉でゆったりリフレッシュ……
のはずが、最後なんか変な感じでしたね……
紗希ちゃん、いい子なんだけど……
何か抱えてるというか、気になるところが多いというか。
それに、シエラが見た “あの光景” は――
一体なんだったんだろう。
そして、シエラは無事なんだろうか……
次回はとうとう、
章タイトルにもなっていた “偽りの楽園” の正体へ。
続き、ぜひ読んでください!




