透明な檻 3章完結
3章『透明な檻』、今日で完結します。
この章は、
りん・千草・ほのか、
三人それぞれの視点で積み重ねてきた物語が
今日、ひとつの形として収束します。
「忘れられるのが怖い」
「見てほしい」
「ひとりになりたくない」
ここにいる誰もが抱えていた気持ち。
その答えが、今夜、やっと交わります。
もしよかったら、最後まで目撃してください。
床に伏せたまま、りんはもう顔を上げられなかった。
視界には、冷たいコンクリートだけ。
千草の影が、りんの背中に覆い被さる。
刃の冷たさが、背中の上に落ちる気配。
——落ちる。
刃が振り下ろされる気配が、空気を切った。
その瞬間。
ガッ。
硬い音と共に、
千草の腕が途中で完全に止まった。
りんは動けないまま、
背中越しに、誰かの気配を感じる。
空気が変わった。
凍りつくような静寂。
そこに、シエラが立っていた。
シエラは無言で膝をついた。
うつ伏せのりんの首元に指を当てる。
微かに震える脈が、指先に触れる。
ほのかが泣き叫ぶ。
「りんおねぇちゃんっ……!りんおねぇちゃんっ!!」
その声も、シエラの耳には霞んでいた。
静かな呼吸で、状況を切り取るように言う。
「……大丈夫。りんは生きてる。
魔力も、まだ残ってる。」
そして、ほんの小さな声で ——
「アーク・ヒール」
光がりんの身体を包み込む。
裂けていた肉が、音もなく閉じていく。
血に濡れていた背中が、ゆっくりと温度を戻していく。
ほのかが息を飲む。
「……きずが、なくなってる……?」
その時、廊下側から荒い息が近づいてきた。
ドンッ—— 扉を押し開ける音。
「お前早いって、食事中に急に走り出すから
追いかけるの必死だったんだぞ!……って、なにこれ……おいりん!?大丈夫か!!」
拓磨の声が震えた。
シエラは立ち上がらず、短く言った。
「——大丈夫……りんを早く、安全な場所へ。」
シエラの言葉に、拓磨は一瞬だけ迷うように息を止めた。
だが次の瞬間、短くうなずく。
「……おぅ、わかった。」
声は低く、震えていた。
拓磨はりんの身体をそっと抱き上げる。
血で濡れた服が腕にまとわりつく感触に、顔が歪む。
ほのかとシエラを一度だけ見て、
足元の割れたガラスを踏みしめながら後退した。
千草の肩が小さく震えた。
「……なに……この子……?」
言葉が漏れた瞬間、
千草の足が勝手に後ろへ下がった。
意識していないのに、
身体が逃げようとしていた。
膝が小刻みに震える。
握った指先が、触れていない空気を掴むように震える。
背中が壁に触れるまで後退して、
ようやく自分が下がっていたことに気づく。
視界がぐらりと揺れる。
——あの日の光景が、勝手に蘇る。
数日前。
透明化して、りんを尾行していた。
夕方の街、雑踏、笑い声。
その中に、見知らぬ少女がいた。
金髪、整いすぎた顔。
りんの隣で、当たり前みたいに笑っていた。
誰……?
りんの、なに……?
胸が抉られるように痛む。
喉が焼けつく。
その瞬間だった。
少女が、
まっすぐ千草のほうを見た。
透明化しているはずの自分を。
ありえないはずなのに、確かに。
目が合った。
背骨の奥に冷たい刃が差し込まれたみたいだった。
息ができなかった。
逃げるしかなかった。
***
意識がそこで千切れるように戻る。
千草はハッと顔を上げた。
目の前——
シエラが立っていた。
さっきまで紫と金だったオッドアイが、
両目とも深い紫に染まっている。
空気が重く沈む。
肺が押し潰されるような圧が全身を包む。
紫色の気配が、部屋中に広がっていく。
千草は思わず後ずさった。
「……なに……これ……
息……が……」
声にならない声が漏れる。
静寂を切り裂くように、
シエラの声が落ちた。
「……あなたがやったの?」
低く、平坦で、温度のない声。
責めるでも、怒るでもなく——
ただ事実だけを確認する声。
千草の肩がびくりと跳ねる。
喉が詰まって、言葉が出ない。
それでも、震える声をなんとか押し出す。
「……っ、あたしとりんちゃんの関係に……
勝手に関わらないで……!」
声が途中で割れた。
言葉を押し出す力が、急に途切れる。
千草は一度、息を飲んだ。
視線が揺れて——すっと、冷たく静まる。
瞳の奥の光が、形を変えた。
「……あたしとりんちゃんの関係に
勝手に入り込むやつは——全部殺す」
言い終わるより早く、
千草の輪郭がふっと空気に溶けた。
透明化。
気配だけが、獣みたいに前へ突っ込んでくる。
ナイフが風を裂く音が、耳元で鋭く鳴った——
が、次の瞬間。
シエラの姿が消えた。
認識できない速度。
気づいた時には、すでに千草の背後にいた。
ガッ
千草の右腕が、後ろへ強制的にねじられる。
関節が悲鳴を上げる角度まで追い込まれる。
「——ああぁっ!!」
千草の喉から、抑えきれない悲鳴が漏れた。
シエラの声が、真横で落ちた。
「……やめなよ。」
温度も怒りもない声。
ただ平坦で、静かで、冷たい。
「……うっ、うるさい……!
あんたに何が分かるの!!」
「りんちゃんは……あたしの孤独を救ってくれたの!
あたしには、りんちゃんしかいないの!」
声が割れる。
「でも……怖かったの……
りんちゃんの中で、今のあたしが生きてるかどうか……」
「“綴りちゃん”ってあだ名だって……
本当は適当につけただけなんじゃないかって……
忘れられるのが……何より怖かったの……!」
指先が震える。
「だから……奪うやつは——全部殺すの!!」
叫びながら、千草は腕をねじり、シエラの拘束を力で振りほどいた。
フラフラの足取りで前へ出て、狂ったようにナイフを振り回す。
ビュッ、ビュッ——
空気だけが、鋭く裂けていく。
その姿を見て、ほのかが息を震わせながら言葉を漏らす。
「……おねぇさん、本当はさみしかったんだよね……?」
千草の動きが、一瞬だけ止まった。
「わたしも……お父さんとお母さん、
いつも仕事ばっかで……
わたしのことなんて、どうでもいいのかなって思ってたから……
……よく、わかるよ……」
「おねぇさんも、りんおねぇちゃんに見てほしかったんだよね……?」
千草の頬に、ぽつりと水滴が落ちた。
え?
理解が追いつかない顔。
指で拭う。
けれど、また落ちる。
また、また。
「なんで……?
なんで……止まらないの……?」
千草の声が震えた。
涙が両頬を伝って落ちていく。
シエラが、静かに言った。
「——あなた、本当はりんを傷つけたくなかったんだよ。」
千草の呼吸が止まった。
「本当は、辞めたかった。
でも辞められない自分が——いちばん怖かったんでしょ?」
千草の足から、力が抜けた。
どさっ。
その場に崩れ落ちる。
「う……っ……
うぁぁ……
うわぁぁぁあああああ!!!」
喉が裂けるみたいな叫び声が、
廃病院の空気を震わせた。
【9:00 八王子廃病院前】
外の空気は、夜の冷たさをそのまま抱いていた。
廃病院の前に、赤色灯の光が静かに揺れている。
パトカーのボディに反射して、血のような光が滲んだ。
拓磨がおぶったまま、りんとシエラ、ほのかが外へ出る。
冷たい空気が肌に触れるたび、りんの意識がゆっくり浮上していく。
駆け寄る足音。
「ほのか!!」
声が震えていた。
次の瞬間、ほのかは泣き崩れるように走り出した。
父と母の腕の中へ飛び込む。
「ほのか!心配したんだぞ……!」
「ほのか……っ、無事で……本当に良かった……!」
母の腕の震えが、ほのかの背中に伝わる。
ほのかの小さな手が、必死に両親の服を握った。
その光景を見て、りんは胸の奥でふっと息を吐いた。
張り詰めていたものが解けていく。
「本当に……ありがとうございました」
両親が深く頭を下げる。
拓磨は黙って頷き、シエラは表情ひとつ変えずに立っていた。
そのとき——
りんの視線が、パトカーの側で止まった。
手錠を掛けられ、俯いたまま歩く千草。
警官に両腕を掴まれ、影のように連行されていく。
「……拓磨、ちょっと降ろして」
声はかすれていた。
拓磨は一瞬だけ目を細め、静かにうなずく。
「……あぁ」
足がまだ覚束ない。
ふらつきながら、りんは千草の方へ歩き出した。
「綴りちゃ……」
言葉が震えて止まる。
りんは、深く息を吸ってもう一度言った。
「……いえ、一ノ瀬千草ちゃん」
千草の足が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
りんの目はまっすぐだった。
「あたし、千草ちゃんの叫び聞いてたよ…綴りちゃんってあだ名、本当は嫌だったんだね。気づかなくて……ごめんね」
千草の息が詰まる音が聞こえた。
「でもね、あたし……ずっと、ずっと千草ちゃんのこと覚えてたよ。
忘れてなんかない。
あたしが忘れたって思って、不安だったんだよね……?」
千草は、警官の手を強引に振りほどいた。
涙で視界を歪ませたまま、りんの前へ踏み出す。
「おい、勝手なことするな——!」
警官が声を荒げ、千草の腕を掴もうとする。
その瞬間、
一歩前に出たシエラが、静かに首を横に振った。
短く、ただそれだけの動き。
だが警官の手は空中で止まり、
反射的に息を飲む。
千草はりんへ走った。
涙で足元が見えず、つっ—— とつま先が引っかかる。
身体が前へ大きく傾く。
手錠のせいでバランスが取れない。
「っ……!」
倒れる寸前、震える脚で踏みとどまる。
そのまま、よろめきながらりんの前へ。
「——嫌なわけないじゃない!」
声が震えていた。
「綴りちゃんってあだ名、嬉しかったの!
初めて、あだ名で呼んでくれたのが……ほんとに嬉しかったの……!」
言葉と一緒に、涙が溢れていく。
「でも……
あなたが本当のあたしを忘れてるんじゃないかって、怖かったの……
怖かったの……ずっと……
ごめんね……痛かったよね……怖かったよね……ほんとに、ごめんね……」
手錠に塞がれて抱きしめられない。
だから千草は、震える手でりんの手を握った。
りんは、その手をそっと包んだ。
少しだけ背伸びをして、千草を抱きしめる。
「戻ってきたら、また一緒に遊ぼ」
千草の肩が震え、歪んだ声が漏れた。
「……うん……」
涙が落ちた場所に、赤色灯の光が滲んでいた。
「八王子廃病院誘拐・刺殺未遂事件」
発生日時:2025年5月30日 18:02
発生場所:東京都八王子市・廃病院跡地(旧第六医療センター)
概要
対象 一ノ瀬千草(23) は、下校中の
市立新宿第六小学校生徒 小鳥遊ほのか(9) を強制的に連れ去り、
廃病院内に監禁。
現場にて 西園寺りん(23) に対し刺殺行為を実行し、
致死量出血による生命危機状態へ追い込む。
行為は、超越対策課
異界転移者/シエラ・ヴァルキュリア によって阻止、
対象千草を確保。
項目内容
主犯一ノ瀬千草(23)
能力透明化
罪状誘拐罪 / 殺人未遂 / 住居侵入 / 器物損壊
被害者西園寺りん(23) /小鳥遊 ほのか(9)
損害建物内部の一部崩落、旧病棟構造破壊
対象千草は精神崩壊状態により自立行動不能。
Elysium-07(第七特別管理区画)移送予定。
本件は国家特級機密扱いとし、
記録は暗号化保管とする。
3章『透明な檻』 完
3章『透明な檻』を読んでくれて、本当にありがとうございました。
最初はただ怖くて重い話に見えたかもしれないけど、
この章はずっと、
りん・千草・ほのか、三人の救いの物語として書いてきました。
「忘れられるのが怖い」
「ひとりが怖い」
「見てほしい」
弱さって、いつだって誰にも言えなくて、
抱えたまま壊れていく人が多いと思う。
だから、この章では
弱さを“悪”じゃなくて“叫び”として描くことを目指しました。
誰かが差し伸べた手は、
いつだって完璧じゃない。
それでも、手を伸ばした先に
救いが生まれる瞬間があると信じています。
読んでくれたあなたが、
もし少しでも心のどこかで何かを感じてくれたなら、
自分はとても嬉しいです。
次の章は、全く別の空気になります。
引き続き『いせギャル』よろしくお願いします。




