“そこ”にいる
今日は、りん視点の探索パートです。
日常と非日常の境目がじわじわ崩れていく回になりました。
この病院の空気を、一緒に感じてもらえたら嬉しいです。
どうか最後まで読んでください。
【19:50 八王子・廃病院】
夜の気配がゆっくり落ちてくる時間帯だった。
八王子の外れにぽつんと残された廃病院は、
まるで呼吸を止めたように静まり返っている。
敷地の外からでも、空気がひんやりと肌に触れた。
伸び放題の草は足首まで揺れ、
割れた窓ガラスは黒い穴となって並び、
壁一面にはツタが絡みつく。
入口上の看板だけが、弱い風に押されて小さく揺れていた。
りんは足を止めたまま、ゆっくりと息を吸い込む。
胸の奥が、わずかに冷たくなる。
「……ここね……」
つぶやいた声は夜気に吸い込まれ、すぐに消えた。
一歩踏み出すごとに、靴底が乾いた草を押しつぶす音がかすかに響く。
建物の正面に近づくほど、風が細く吹き抜ける。
廃墟の中から流れてくる空気は妙に冷たく、
肌に触れた瞬間だけ体温を奪っていくようだった。
ギシ……。
古い建物全体が、生きているみたいに軋んだ。
りんの足が自然と止まり、胸の奥がきゅっと縮む。
「……風……?」
声を出した瞬間、
その場の空気だけがひときわ冷たく感じられた。
りんはガラス戸の前で立ち止まった。
スマホのライトをつけて、ドアの向こう側を
照らす。
中は真っ暗で、
ガラスに白い光がぼんやり反射するだけ。
奥の様子はほとんど見えない。
人影も動きも感じられなかった。
「……よし」
小さく息を整え、
りんはガラス戸にそっと手をかけた。
最初の一押しでは、まったく動かない。
りんは指に少し力を込める。
ズ……ッ。
重い抵抗だけが返ってきた。
それでも少しずつ押すと、
ドアのすき間が“ほんの数センチ”だけ開いた。
その細いすき間から、
りんはスマホを少し傾けて光を滑り込ませる。
白い光が、床 → 壁 → 天井へとゆっくり動く。
部屋の角や机の下に、人はいない。
すき間から流れ出す空気は、
外より冷たくて、
古い病院の匂いがかすかに広がる。
りんはそっと息を吸い、
ドアのすき間をもう少しだけ押し広げた。
ズ……ッ。
重い音がかすかに響く。
開いた幅は、肩が通る程度の狭さだ。
りんはスマホを胸元に寄せ、
一歩、静かに中へ踏み込んだ。
足音がロビーの広さに吸い込まれていく。
“カン…” と、小さな音が遠くで消えた。
ロビーはがらんとしていた。
受付カウンターだけが残り、
落ちた天井材が暗がりに影を落としている。
りんは声を出さないまま、
そのままゆっくりと左側の診察室へ向かった。
扉は白い板張りで、
銀色のレバーが湿気で鈍く光っている。
りんは壁に背中を寄せ、
身体を斜めにして死角を作らないようにしながら、
扉を数センチだけ押した。
ガコン……。
鈍い音が、遅れて耳に届く。
そのすき間からスマホの光を滑らせる。
床、机、倒れた診察椅子、
黄ばんだカーテン――
誰もいない。
りんは扉から手を離し、
無言のまま次へと向かう。
次の扉も同じ白い板の診察室だった。
りんは壁に背を寄せ、
扉を少しだけ押し込む。
ガコン……。
重い音が、また小さく響く。
すき間から光を入れると、
机、倒れた椅子、黄ばんだカーテン——
やはり誰もいない。
りんは何も言わず、
その扉を閉じて先へ進んだ。
三つ目の診察室も、同じように静まり返っている。
扉を開けると、
古いカルテが床に散らばっているだけで、
生きている気配はどこにもなかった。
空振りが続くほど、
胸の奥の静けさがゆっくりと冷たくなっていく。
りんは息をひとつ落とし、
廊下の奥に目を向けた。
そこに——
異様に重い扉があった。
グレーに塗られた厚い扉。
塗装は剥がれ、鉄がむき出しになっている。
りんは近づき、
スマホの光をそっと当てた。
光が吸い込まれるように弱くなる。
この部屋だけ、
空気が違った。
りんは小さく息を整え、
扉に手をかける。
押した瞬間、
“ズ……ッ” と重い抵抗だけが返ってきた。
音はほとんどしない。
あまりの静けさに、りんの指先がわずかに強張る。
少し力を込めると、
扉がゆっくり横にずれた。
ほんの、肩が通るか通らないかの幅。
その細いすき間から、
冷たい空気がふっと流れ出した。
今までの診察室とは違う、
濃くて、閉じ込められたような冷たさ。
りんは体を少し引きながら、
スマホの光をそのすき間へ滑り込ませた。
薄暗い部屋の中で、
光に照らされて古いX線写真が浮かび上がる。
壁いっぱいに貼られた骨の影が、
わずかに揺れて見えた。
床には紙が散らばり、
埃が光の中でふわっと漂う。
部屋の奥、
カーテンだけがほんの少し揺れていた。
りんの呼吸が止まる。
……誰もいない。
ほのかの姿も、気配すらない。
ただ、
この部屋だけ空気が張りつめていた。
りんはX線室の扉を静かに閉じ、
廊下へ戻った。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
廊下の奥——
手術室の方向だけ、
空気が濃く沈んでいるように感じた。
りんはスマホの光をそっと向けた。
しかし、光がそこだけ薄く見える。
まるで空中に透明な膜が張られているみたいに、
光が弱く吸い込まれていく。
音がない。
病院全体が、急に息をひそめたような静けさ。
ひんやりした空気が、
廊下の奥へゆっくり流れていく。
吸い込まれるような冷たさ。
りんの喉が、わずかに震えた。
声は出ない。
(……ここだ)
心の奥で確かにそう思った。
足を一歩踏み出す。
靴底が床をかすめるたび、
その音はすぐに廊下に吸い込まれて消えていく。
手術室の扉が見えてきた。
そこだけ影が濃く、
闇が沈んでいるように見えた。
りんは真正面には立たず、
壁に肩と背中を寄せて横から近づく。
スマホの光は低い位置で構えた。
ドアノブに触れると、
冷たさが指先に刺さった。
りんは息をひとつ整え、
わずかに力を入れた。
ス…ッ。
扉が一、二センチほど動いた。
音はしない。
金属が静かに沈むだけの動き。
りんは顔を近づけず、
その細いすき間へ、
光だけをそっと滑り込ませた。
床が映る。
ほこりだけが積もった、静かな床。
光を少し動かす。
椅子の脚。
そして——
小さな足。
りんの心臓が一度だけ跳ねた。
息が浅くなる。
光をわずかに上へ動かす。
膝。
服。
子どもの小さな肩。
ほのかだ。
りんはすき間をもう少し広げて視界を得る。
扉の裏、部屋の角、カーテンの奥——
光をゆっくり滑らせる。
他に人影はない。
静けさだけが残っている。
——ほのかが、椅子に座って眠っている。
りんは扉を静かに押し開けた。
音は出ない。
ゆっくりと一歩踏み込み、
ほのかの前でしゃがみ込む。
縄へ手を伸ばす。
指先がわずかに震えた。
その時——
「……ん……?」
ほのかのまぶたがかすかに動いた。
ぼんやりとした焦点が、りんを捉える。
「りん……おねぇ……ちゃん……?」
弱い声だった。
りんは小さく息を吸い、
声を押し出すように呼んだ。
「……ほのかちゃん……」
ほのかの目が、
りんの背後でふっと止まった。
まばたきもしない。
息が止まったみたいに固まる。
そして——
「りんおねぇちゃん!!
こっち来ちゃだめ!!」
叫びが弾けた。
りんが振り返るより速く——
ザクッ。
右腕の外側に鋭い痛みが走った。
血が霧みたいに飛ぶ。
スマホが床へ転がり、
揺れる光が部屋を泳ぐ。
りん
「……ッ!」
漏れた息だけが震えた。
床の上で、
揺れた光がゆっくり歪んだ。
空気の膜がはらりと剥がれるように、
影がひとつ、生まれる。
その影が、
濡れたように輪郭を帯びていく。
足。
手。
肩。
そして——
顔。
最後に現れた瞳が、
まっすぐりんを射抜いた。
「……会いたかったよ……りんちゃん……」
優しい声なのに、
温度がどこか狂っていた。
りんの喉がひくりと動く。
「……っ……あた……し……
いや……違う……
綴り……ちゃん……?」
言葉が震えて途切れる。
千草はゆっくり、笑った。
「うん……あたり。久しぶりだね……」
足音のない足取りなのに、
床がかすかにきしむ。
一歩。
一歩。
距離がじわじわと詰まる。
「……でもね、
あたしはずっと……りんちゃんの
そばにいたよ。」
近づくほど、
空気が胸に張りつくように重くなった。
「ずっと、ずぅ――っと見てたの。
だから……ほんとうは“久しぶり”なんかじゃないの。」
千草の視線が、
りんの血の流れる腕へゆっくり落ちた。
りんの呼吸が乱れる。
無意識に、
足が後ろへ下がった。
キッ……と床が鳴る。
千草の瞳が、
その音だけをゆっくり追った。
口元が、わずかに笑った。
続く
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
りんと千草がついに邂逅し、
物語は静かに、しかし確実に深い場所へ踏み込み始めました。
この先、りんがどの道を進むのか——
それは、彼女自身の選択と覚悟に委ねられます。
ただ一つだけ。
彼女があの暗い手術室で見たものは、
まだ物語の入口にすぎません。
どうか、次回も見守っていただければ嬉しいです。




