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綴りちゃん①  ── 出会い

あの日、千草はまだ“普通の少女”だった。

努力すれば報われると信じていた。

けれど、世界は残酷に静かで――誰も彼女を見ていなかった。


これは、ひとりの少女が「愛されたい」と願い、

やがて“狂気”へと変わっていくまでの物語。


光の中で始まった“出会い”は、

いつしか闇の中でしか生きられなくなっていた。

【19時40分 八王子の街道沿い】


冷たい風が街を切っていた。


車のライトが線を描き、遠くの信号が滲む。

アスファルトを叩く足音が夜に響く。


りんの呼吸は荒く、胸の奥が焼けるように痛い。


街灯が流れ、光が揺れるたびに、記憶が滲む。

お弁当を見せて笑った顔。


腕に絡みついて「お姉ちゃん」と笑った声。

その残像だけが、暗い街を照らしていた。


「ほのかちゃん……!」


その一言が夜に消えた。

涙が風に溶け、冷たい光が頬を滑り落ちていく。




【同刻 八王子郊外・廃病院跡】


ほのかは椅子に縛られたまま、静かに頭を垂れていた。


壊れた蛍光灯が時々点滅し、淡い光が千草の頬を照らす。


千草はナイフを胸の高さで構え、刃に映る自分の顔を見つめていた。


銀色の反射の中で、歪んだ笑みがゆっくりと形を変える。


その歪みが、美しいと思えた。


唇がかすかに動く。


「りん……待っててね……あなたは私だけのものよ。」


光が一瞬、波打った。


その揺らぎの中で、千草の胸の奥に記憶の断片が蘇る。



まぶしい夏の光。風に揺れるカーテン。

ざわめく教室の匂い。


光の粒がふわりと散り、耳の奥で誰かの声が重なる。


「あなたと私の出会いは、ここからだったよね。」


まぶしさの中で、黒板の文字が浮かび上がる。


チョークの音。夏の風。

カーテンが揺れ、ノートの端がめくれた。


「私の名前は一ノ瀬千草。


どこにでもいる、普通の女子高生。」


教室には、昼休みのざわめきが広がっていた。


机を囲んで笑う声、スマホを見せ合う光。


その喧騒の中で、千草はひとり机に向かい、静かにペンを走らせている。


——友達? 馬鹿馬鹿しい。そんなの必要ない。

——私には、テストの点数だけがすべて。


ペン先が紙を突くたび、乾いた音がした。

その音だけが、彼女の世界の輪郭を保っていた。



【ホームルーム】


教室のドアが開く音がした。


朝の光が差し込み、席についた生徒たちのざわめきが少しだけ静まる。


先生が出席簿を閉じて、軽く咳払いをする。


「静かに。……えー、突然だが、転入生を紹介する。」


ざわめきがまた少し戻る。

その中心に、軽やかな足音。


「今日からこのクラスの新しい生徒だ。

 じゃあ、西園寺、自己紹介をしてくれ。」


「あたしの名前は西園寺りんです。よろしくお願いします!」


教室に明るい拍手が広がる。


千草は窓際の席から、その様子を無表情で見つめていた。


「どうせ、あの子も他の人と同じよ。」


ペンを取り、ノートの端に小さく数式を書き足す。

拍手の音も笑い声も、もう耳には入っていなかった。


——あの時はまだ、知らなかった。

この無関心が、あの子に惹かれていく最初の証だったなんて。



【休み時間】


りんの席のまわりには、生徒たちが集まり始めた。

机が軽く押され、笑い声が重なっていく。


「どこから来たの?」「何が好きなの?」「かわいい〜!」


りんは少し困りながら笑って、


「ちょ、ちょっと待って〜!質問多すぎっ!」

と手を振る。


千草はノートを開き、勉強しているふりをしながらも耳はそちらに向いていた。


「……うるさいわねぇ。」


ペン先が紙を軽く突く。



【1限目・数学Ⅱ】


黒板にチョークの音が走る。


白い粉が空気に混ざって、夏の光をかすかに反射していた。


「じゃあ――一ノ瀬。これ、解けるか?」


先生の声に、教室が静まる。

千草は立ち上がり、落ち着いた声で答えた。


「√2を通分して整理すれば、a=3です。」


先生が頷く。


「正解。」


クラスは反応しない。


それが当たり前のように、静かだった。

千草は小さく一礼して席へ戻る。


(当然よ。こんなの、解けて当然。)


チョークの音が再び響く。

先生が黒板にもう一つ式を書き、顔を上げる。


「じゃあ次は……西園寺。やってみろ。」


その瞬間、クラスの空気が少しだけ変わった。

りんが明るい声で返す。


「はいっ!」


椅子を引く音も元気で、立ち上がる動作に迷いがない。


黒板を見つめて、少しの沈黙。

すぐに口角を上げて言った。


「x=2、ですよね?」


先生が笑う。


「正解。」


一拍置いて、教室がざわめく。


「おお〜!」「やるじゃん西園寺!」「さすが転校生!」


りんは照れくさそうに笑って、


「えへへ、よかった〜!間違ってなくて!」

と頬をかく。


千草のペン先が止まった。


(……何それ。何よ、その空気。

 正解しただけで、どうしてあんなに盛り上がるの?)


ノートの端が少しだけ破れた。

手のひらが熱くなる。


りんが軽く頭を下げて席に座る。

周囲はまだ小さく笑っていた。


(あんな子がなんで“愛される”の?

 私がどれだけ完璧でも、誰も何も言わないのに。)


——その瞬間、千草の中で何かが静かにズレた。



【18時前 一ノ瀬宅 玄関前】


夕暮れの空気がまだ熱を帯びていた。

千草は家の前に立ち、カギを握りしめたまま動けずにいた。


頭の中で、教室の光景が何度も蘇る。


(……なんで。なんであんな問題、解けるだけで。)

(私だって同じくらいできるのに。)


玄関の影が、足元まで伸びていた。


深呼吸をして、無表情を作る。


カギを回す音が、小さく夜に溶けていく。

扉を開け、靴を脱ぎながら小さく呟いた。


「……ただいま。」


返事はない。


廊下の奥からはテレビの音と、食器のぶつかる微かな音だけが聞こえる。


リビングに入ると、母親が雑誌を閉じて振り向いた。

目は笑っていない。


「勉強してきたの?

 あなた、お父さんの娘なんだから、ちゃんといい大学に入って、有名企業に就職しなきゃダメよ。」


千草は立ち止まったまま、小さく頷く。


「……うん。」


母親はもうテレビに視線を戻していた。

部屋の明かりが眩しくて、千草は目を細める。


靴下のまま廊下を抜け、階段へ向かう。


一段ごとに、木が小さく軋んだ。

その音だけが、家の中で自分の存在を示していた。



2階の自室に入ると、カーテンの隙間から夕方の残光が差し込んでいた。

机の上には、開きかけのノートと昨日のペン。


千草は鞄を下ろし、制服のまま椅子に座る。

スマホを取り出すこともなく、ただノートを開いた。


(……やらなきゃ)


ページに数式を書き込む。

鉛筆の擦れる音が、静かな部屋に淡く響いた。


誰にも求められない“努力”だけが、

彼女の呼吸を繋いでいた。


【夜・自室】


ノートの上に数式が並ぶ。

シャーペンの芯が擦れる音だけが、部屋の空気を動かしていた。


ページの隅に数字を書き足しながら、千草はふと今日の授業を思い出す。


りんが席で顔を上げ、迷いもなく答えを口にしたあの瞬間。


(……なんで、あんなのが。)


(努力もしないくせに、笑って許されて。)


無意識にペンを握る指先に力がこもる。

芯が、軽い音を立てて折れた。


千草は小さく息を吐き、新しい芯を差し込む。


机の上に積まれたノートの山は、

努力の証というより、“自分を守る壁”のように見えた。




【数日後・期末テスト当日】


教室の時計が、試験開始から四十分を指していた。

鉛筆の音が一斉に重なり、静けさの中で規則的に鳴り続ける。


千草は問題用紙の余白を見つめ、細く息を整えた。


(これなら一位確実ね。)

文字も計算も完璧に並んでいる。


その時――前方から声が響いた。


「おい、西園寺! お前テスト中だぞ、起きろ!」


ざわり、と教室の空気が揺れる。


視線を向けると、りんが顔を上げて目をぱちぱちさせていた。


「ふぇっ? あっ、ご、ごめんなさい!」


クラスのあちこちから笑い声が上がる。


「りん寝てたの!?」「マジかよ!」

「かわいい〜!」


先生はため息をつきながら答案の山を整え、歩き出した。


千草の手が止まる。

視線が紙から離れ、りんの横顔に吸い寄せられる。


(……何それ。)

(どうして笑ってるの。

 努力しないのに、なんで許されるの。)


ペン先が紙を強く押しすぎて、穴が開いた。

白い紙の裏側に、黒い点が滲んで広がる。


千草はその一点を見つめたまま、動けなかった。



【翌週・放課後】


教室のあちこちで机を片付ける音がしていた。

その中で、誰かがスマホを見ながら声を上げる。


「通知きた! 期末テストの結果だって!」


一瞬でざわめきが広がる。


生徒たちがそれぞれ端末を開いて、自分の結果を確認し始めた。


千草も無言で画面をタップする。


表示された数字は――平均95点。

完璧なはずの結果の下に、“順位:2位”の文字。


(……二位?)


(どういうこと……?)


隣の席から明るい声が響いた。


「えっ、西園寺さん一位じゃん!」


「やば〜天才すぎ!」


「りん、ほんとすごいね!」


教室の空気がぱっと明るくなる。

笑い声、拍手、弾む声。


千草の視界が少しずつぼやけていく。


音が遠ざかり、代わりに心臓の鼓動だけが響いていた。


(なんで……私じゃないの……)


指先が震える。

画面の“順位:2位”の文字が滲んで見えた。



【夕方・千草の家】


玄関の扉が静かに開く。

千草は靴を脱ぎながら、かすかに「……ただいま」と呟いた。


リビングからテレビの音と新聞をめくる音が聞こえる。


父が視線を上げずに言う。


「テスト、どうだったんだ?」


その隣で、母が立ち上がるように声を張った。


「千草! 聞いてるの? テストの結果どうだったの!」


千草は顔を上げずに、廊下をまっすぐ歩く。


「ちょっと、返事くらいしなさい!」


階段を上がる足音が、母の言葉をかき消した。

背後から、少し苛立った声が追いかけてくる。


「あなた、お父さんの娘なんだから——もっと頑張れるはずでしょ!」


返事はない。


ただ、二階へ続く足音が一段ずつ遠ざかっていった。


【二階・自室】


部屋の扉を閉めた瞬間、空気が変わった。


静かすぎる。


千草は机の上のノートを見つめていた。

端末の画面には、まだ「順位:2位」の文字が光っている。


「……なんで……」


掠れた声が漏れた。

指先が震え、次の瞬間、ノートを掴んで机に叩きつける。


「なんで! なんでなのよっ!!」


ページが宙に舞い、紙がばらばらと床に散った。


息が荒い。

涙ではなく、熱が頬に上がる。


「……なんで……なんで、なんで、なんで……!」


最後の一言はもう声になっていなかった。


やがて力が抜け、千草はその場に膝をつく。

床に座り込み、腕で自分を抱きしめるように体育座りをした。


部屋の隅で、時計の針の音だけが規則正しく響いていた。



——あの夜からだった。


私、まるで何かに取り憑かれたみたいに勉強ばかりしてた。


朝も夜も、数字と文字しか見てなかった。


でも結果は、いつも「二位」。

どれだけやっても、“あの子”には届かなかった。


母はため息をついて言った。


「もういい加減にしなさい、千草。いつになったら一位を取れるの?」


その言葉が頭から離れなかった。

……努力しても、足りない。

完璧にやっても、誰も見てくれない。


私はただ、誰かに“すごいね”って言われたかっただけなのに。





【放課後・教室】


教室には西日の光が差し込んでいた。


生徒たちが次々と帰っていく中、千草はまだ机に向かっていた。


静かな教室に、シャーペンの擦れる音だけが響く。


ページの上に並ぶ数式を追っていると、背後から明るい声がした。


「ねぇねぇ!」


振り向くと、りんが笑顔で顔を出していた。


その目がまっすぐに千草を見ている。


「……何よ。」


反射的に冷たい声が出る。


けれど、りんはまったく気にした様子もなく、机の横に立った。


「あなたって千草ちゃんっていうんだよね!」


唐突な言葉。

千草は眉をひそめる。


(……だから何?)


言葉にしようとして、やめた。


代わりにペンを動かす。

だが、視線の端にりんの笑顔が残って離れない。


(どうしてそんなふうに笑えるの……)


胸の奥で、何かがかすかに弾けた。


苛立ちと、戸惑い。

それらがひとつに混ざり合っていく。


りんは手に教科書を持っていた。


「この漢文の意味がわからないんだけど、千草ちゃんって勉強得意でしょ?

あなたにしか聞けなくてさ。」


あっけらかんとした口調。

千草はため息をつきながらノートを閉じた。


「……私より勉強できるあなたが何言ってるのよ。」


「お願いっ! ちゃんと覚えたいの!」


りんの声はまっすぐで、どこまでも無邪気だった。


千草は少しだけ肩を落とす。


「……仕方ないわね。」


教科書を覗き込み、指で文をなぞる。


「これはね、“山の中で清らかな風を聞く”って意味よ。」


「風を聞く? 風って音するの?」


千草は一瞬だけ視線を上げ、窓の外の木々を見る。


「するわよ。静かにしてないと聞こえないけど……


“清風”って、心が穏やかな人にしか届かない風のことなの。」


りんが目を輝かせた。


「へぇ……なんか千草ちゃんの言い方、すごく綺麗。」


その笑顔に、千草は言葉を失う。

胸の奥が、かすかに熱を帯びた。


りんは小さく笑って言った。


「さすが綴りちゃんだね!」


「つ……つづ?」


「だって千草ちゃんって、言葉を“綴る”みたいに喋るでしょ!


だから“綴ちゃん”! ねっ、可愛いじゃん!」


りんは満足げに笑い、教科書を閉じると軽く手を振った。


「じゃあ! またお話ししよ!」


ぱたぱたと軽い足音を残して、教室を出ていく。


夕陽の光が傾き、机の影が伸びていった。


千草はただ、その背中を見つめていた。

何か言おうとして、やめる。


(……なんだったのかしら。)


小さく呟いた声は、誰にも届かない。


机の上のノートには、まだ彼女の指の跡が残っている。

それがなぜか、胸の奥で温かく光って見えた。


        続く


千草過去編、第一話「綴りちゃん── 出会い」を読んでくださり、ありがとうございます。


彼女の物語は、努力と孤独の狭間で揺れる“心の声”から始まります。

誰かに見てほしかった。

誰かに認められたかった。

その小さな願いが、やがて取り返しのつかない方向へと歪んでいく——。


まだ序章です。

この“静かな狂気”は、ここから少しずつ形を持ち、やがて彼女自身を呑み込んでいきます。


次回は、千草の歯車が少しずつ狂いだす……

どうか、最後まで見届けてください。


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