変わらない日常の中で 第3章-『透明な檻』
りんってね、意外と繊細なんだ。
いつも明るく見えるけど、ふとしたことで悩んでたりする。
名前を覚えられないって話をしてくれたとき、
あたし、ちょっと嬉しかった。
だって、それって信頼してる証拠でしょ?
──第3章『透明な檻』、幕開け。
変わらない日常の中で、少しずつ、何かが動き出す。
薄暗い六畳の部屋。
カーテンは閉め切られ、空気は息をすることを忘れたように重かった。
誰もいないのに、埃だけが静かに漂い、わずかな隙間風に揺れている。
壁一面には、少女の写真が貼られていた。
ランドセルを背負って笑う姿。
ブランコの上で風に髪をなびかせる姿。
そして――一人の女性の隣で、無邪気に笑う姿。
その全ての上から、無数のナイフ跡が刻まれている。
斜めに、縦に、乱雑に。
何枚かは切り裂かれ、目や口の部分が不自然に破かれていた。
まるで、笑顔そのものを否定するように。
床にはカッターナイフと、指先にこびりついたインクの染み。
焦げたフィルムの破片が、黒い蝶のように転がっていた。
壁際には、空になったペットボトルと、サプリメントの容器。
冷たく乾いた空気の中に、微かに鉄の匂いが混じっている。
時計の針が「カチ、カチ」と音を立てた。
その音だけが、この部屋でまだ生きているもののように響く。
14:00 新宿・アパートの一室
湿った風がカーテンを揺らしていた。
午後の光が薄く差し込み、リビングの床に倒れた踏み台を照らしている。
洗剤の匂いと、鉄のような湿った空気。
数人の刑事が息を潜めるように立ち尽くしていた。
りんはしゃがみ込み、倒れた踏み台をじっと見つめる。
「ねぇ、斎藤さん。これ……おかしいんだよね〜」
すぐ背後で、斎藤が眉を寄せた。
「おかしい?」
「台の倒れ方。普通なら真下か、せいぜい少し前。
でもこれ、明らかに“引っ張られてる”。」
鑑識の中野が、手帳をめくりながら首をかしげる。
「引っ張られてる……って、誰が?」
りんは立ち上がり、指でロープの結び目をなぞった。
「被害者の位置とロープの角度、合ってないの。
本来なら足元の真上にくるはずの結び目が、十センチほどずれてる。
――つまり、“誰かが後ろから力を加えた”ってこと。」
その一言で、場の空気が変わった。
音が消えたように静まり返り、全員の視線がりんに集まる。
「犯人は……田……田島さん!あなたね?」
若手刑事が反射的に肩をすくめる。
「えっ!? 俺ですか!?」
横で斎藤が小声で訂正した。
「りんちゃん……田所です」
「あ……あぁ、そうだったわね!」
りんが気まずそうに笑うと、中野が小さくため息をついた。
「まぁ……いいわ。――問題は、このロープを引いたのが誰かってこと。」
りんの視線が、ゆっくり田所に向く。
その穏やかな声に、田所の表情がわずかに引きつった。
「あなた、綺麗好きでしょ? でもここ、アルコールのムラが残ってる。
普段のあなたなら、こんな雑な拭き方はしない。――焦ってたのね。」
田所の肩が震える。りんの言葉が静かに続く。
「ロープを結び直した跡もある。被害者を吊ってから、形を整えようとしたんでしょ。
でも――その時、台の位置を戻し忘れた。
“完璧に見せたかった”のに、それが決定的なミスになった。」
沈黙が落ちた。
空気の温度が下がるような静けさの中、田所が唇を噛みしめる。
「……あいつが……僕のプロジェクト案を横取りしたんです。
悪びれもなく……しまいには『俺の成果にできて嬉しいだろ?』ですよ……
許せるわけがないでしょう!……許せるわけが……」
声が震え、最後の言葉は途切れた。
りんは何も返さず、ただ静かに見つめていた。
斎藤がそっと田所の肩に手を置く。
「連れていけ。」
中野が手錠を取り出し、金属の音が小さく鳴った。
それはまるで、この部屋の中で唯一“動いている音”のように響いた。
リビングの照明が淡く揺れた。
時計の針が「カチ、カチ」と時を刻む。
その音だけが、まだこの部屋で生きていた。
14:10 新宿・アパート前
規制線の外は、いつのまにか昼下がりの光が戻っていた。
赤いパトランプがまだ回っているが、
風の匂いはもう事件の空気を薄め始めている。
りんはペットボトルの水を口に含み、
無造作に首の後ろをあおいだ。
湿った風が髪を揺らし、どこか気だるげな午後の空気が流れる。
「りんちゃ〜ん! 今日もありがとな! 助かったよ〜!」
声の主は斎藤だった。
スーツの袖をまくり、汗をぬぐいながら大きく笑う。
「いえいえ〜。佐藤さんこそ、現場の段取り早くて助かりました〜。」
「……あっ、俺、斎藤ね。」
「あっ……ごめんなさい!」
りんは慌てて頭を下げる。ペットボトルを持ったまま、
申し訳なさそうに笑った。
「そろそろ覚えて? 毎回間違われると泣くぞ、俺。」
「うっ……努力します……!」
そのやり取りに、中野が深いため息をついた。
腕を組んだまま、どこか呆れたように言う。
「斎藤さん……なんであんなふざけた少女をいつも連れてくるんですか。
名前、一度もまともに言えてませんでしたよ。」
斎藤は肩をすくめて苦笑した。
周囲の刑事たちが現場を片付ける音の中で、
彼だけは少し柔らかい声を落とす。
「りんちゃんはな、事件が詰まったときの切り札なんだ。
面倒見た方が早いし、解決も早い。助けられることの方が多いんだよ。」
中野は渋い顔のまま、短く息を吐く。
「……そうっすかねぇ。」
りんはそんな空気を気にする様子もなく、
ポケットをごそごそと探り、くしゃっとした包み紙を取り出した。
中からドーナツをひょいと出し、もぐりと一口。
甘い匂いが、ようやく張り詰めた現場に溶けていく。
「……うん、やっぱ現場上がりのドーナツって最高。」
彼女の頬がふわりと緩み、
中野は呆れ顔で空を見上げた。
16:00 警視庁・超越対策課
午後の日差しが斜めに差し込む。
ブラインドの隙間からこぼれる光がデスクを横切り、
書類とキーボードの上でゆっくりと形を変えていく。
静かなフロア。
聞こえるのはパソコンのファンの低い唸りと、
遠くのコピー機が吐き出す紙の音だけだった。
その中で、ひときわ柔らかな吐息が混じる。
「はぁ……ルミナスハート、やっぱ最高……」
モニターの前で、みゆきが両手を頬に当てていた。
画面にはピンク色の光が踊り、変身バンクのBGMがかすかに流れている。
デスクの上のマグカップからはもう湯気が消えて、
冷めたコーヒーが午後の光を受けて鈍く反射していた。
「みゆき? どうしたの〜? ため息なんかついて。」
突然、隣のデスクの仕切りから顔がぴょこんと現れる。
銀髪を束ねた少女──シエラが、興味津々の目でこちらを覗き込んでいた。
「わっ……シ、シエラ!? いたの? いるなら言ってよ、もう!」
慌ててウィンドウを閉じるみゆき。
マウスを連打する指先が、焦りで少し震えている。
シエラは腕を組み、にやりと笑った。
「聞きたいことがあって呼んだのに、ずっと上の空だったんだよ?」
「えっ……うそ、そんなに?」
「そんなに〜。」
シエラはモニターの方へ顔を近づける。
閉じられたウィンドウの下に、ほんの一瞬だけアニメのアイキャッチが映る。
「なにこれ〜? かわいい〜! 楽しそ〜!
……なになに? 魔法少女ルミナスハート? へぇ〜!」
「ちょ、やめて! 見ないで!」
みゆきが慌てて体を張って画面を隠す。
シエラはきょとんと目を瞬かせて、それから悪戯っぽく首を傾げた。
「みゆき〜、仕事中にアニメ見たらダメなんだよ?」
まるで上司のような口ぶり。
しかし表情はどこか誇らしげで、
からかっているのか本気なのか分からない。
「ご、ごめんなさい……」
小さく肩を落とすみゆき。
その姿にシエラは満足げにうなずいた。
静まり返ったオフィスの空気が、突然破られた。
ドアが勢いよく開く。
りんが顔を出し、元気いっぱいの声を響かせた。
「戻りましたー!」
その声に、みゆきがモニターの前から顔を上げる。
「お疲れさま。どうだった?」
「まぁ、余裕で解決よ!」
りんは自慢げに胸を張る。
その姿に、斜め向かいのデスクからシエラがぱっと顔を出した。
「りん!! おつかれ〜! 仕事終わったらさ、一緒にどっか食べに行こ!」
「いいねいいね〜! どこがいいかな?」
二人のテンションが一気に上がり、
オフィスの空気が一瞬で賑やかになる。
しかし──その勢いを断ち切るように、みゆきの声が落ちた。
「……その前に、りんちゃん。報告書、書きなさいね。」
「うげぇ〜……」
りんの顔が一瞬で曇る。
椅子に腰を下ろしながら、机に突っ伏した。
「ちゃんとしなさい!」
みゆきの叱責に、シエラがくすりと笑う。
「みゆき〜、みゆきも仕事中アニメ見ないようにね!」
「うう……はい……」
みゆきが小さく肩を落とし、顔を真っ赤にする。
その姿を見て、シエラとりんが声を揃えて笑った。
午後の陽射しがゆるやかに傾く。
超越対策課のフロアには、
しばし穏やかな笑い声が響いていた。
19:30 都内・小さなレストラン
窓の外は、街の灯が滲み始めていた。
小さなレストランの店内には、低く流れるジャズと、
カトラリーが皿に触れるかすかな音。
テーブルの上では、グラスの水面がライトに揺れていた。
りんはストローを指でコロコロと転がしながら、
少し遠くを見るように呟いた。
「ねぇ、シエラ……あたしさ、なんで人の名前、覚えられないんだろうって思う時があるんだ。」
対面の席で、シエラが顔を上げる。
白い髪が、柔らかくテーブルライトの光を反射した。
「また間違えたの?」
「うん……今日も。
いつも現場でバタバタして、つい口が勝手に違う名前出ちゃうんだよね。
でも、失礼だよね。相手にしたらさ。」
グラスの氷が、カランと鳴った。
りんの声は笑っているようで、どこか沈んでいた。
「でもさ、りんはわざとじゃないんでしょ?」
「……まぁ、そうだけど。無意識にやってるから余計タチ悪いよね。」
シエラは軽く首を傾げて、微笑んだ。
「そう? あたしは、りんが名前覚えられなくても全然平気。
だって、りんってちゃんと人のこと見てるじゃん。
表情とか、声のトーンとか。
そういうの覚えてる人のほうが、ずっと信頼できるよ。」
りんは一瞬、動きを止めた。
目を見開き、それから小さく息を吐く。
「だからみんな、りんのこと好きなんだと思うよ。」
その言葉に、りんの頬がわずかに緩む。
ストローを転がす指が止まり、代わりにその端を軽く噛んだ。
「……そんなこと言うの、ずるいなぁ。」
ふと視線を落としたまま、りんがぽつりと呟く。
「でもさ……なんでだろ。
シエラとか、みゆきとか、拓磨の名前はちゃんと言えるんだよね。」
シエラが首を傾げた。
「覚えやすいから?」
「違うの……なんか、シエラたちのこと――失いたくないんだ……」
テーブルの上の蝋燭の灯が、ふっと揺れた。
短い沈黙。
その中で、シエラの口元にゆるやかな笑みが浮かぶ。
「それって……もしかして、あたしのこと好きなの? 愛の告白?」
りんの顔が一瞬で真っ赤になる。
慌てて身を乗り出し、ストローを握りしめた。
「は? ち、違うし! そういう意味じゃないってば!」
「え〜? 照れ方が怪しい〜。」
「うるさいな……もう。」
りんはストローを指で弾く。
その音が、二人の間に軽く響いた。
顔を背けながらも、彼女の頬は赤いままだ。
唇の端が、わずかに笑みの形をつくっていた。
⸻
【21:00 都内・駅前通り】
夜風が少し冷たい。
街灯の光が交互に二人を照らしていた。
「はぁ〜、おいしかったぁ!」
シエラが満足そうに笑う。
「ここのレストラン当たりだね!」
隣を歩くりんが胸を張る。
「でしょ〜? ここ、あたしがめっちゃ気に入ってる店なんだ!」
シエラはくすっと笑い、ふと立ち止まった。
「うん、センスいいじゃん。……あ、あたしここで曲がるね。」
「おっけー! 気をつけてね!」
「りんもね〜。……また明日。」
シエラは角を曲がりながら手を振り、りんも軽く手を上げて見送った。
街灯の光がまた一つ、りんの背に落ちる。
「……なんか、シエラに話したら悩みどうでもよくなっちゃったな。」
小さく息をつき、りんは笑った。
「よし、今日は一人で飲むか〜!」
⸻
【コンビニにて】
自動ドアが開き、りんが缶チューハイを片手にレジへ向かう。
店員はりんの顔を見て、一瞬きょとんとした。
「あの……お子様はお酒買えないんですけど……」
りんは一瞬固まり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「お・こ・さ・ま・じゃな〜いっ!!!」
店員は目をぱちぱちさせ、ただ困っていた。
りんは名前を覚えるのがちょっと苦手。
でも、誰よりも人のことを見てる。
言葉より先に動いて、
考えるより先に助けに行く。
それが、りんなんだと思う。
今日も、そんな一日だった。
ここから少しずつ話が動き出すよ。
次回も楽しみにしててね




