『沈黙の校庭、響かぬ声』
やっほ〜、シエラだよ!
今日はみゆきと一緒に現場の聞き込み。
朝からパトカーで移動してるんだけど……眠い。
みゆきはずっと真面目な顔して運転してるし、
あたしはおばあちゃん相手に聞き込みで大苦戦!
全然会話にならなくて、もう笑うしかなかったよ。
でもね、なんか今日……空気が変なの。
太陽は出てるのに、風が止まってて。
……気のせい、かな。
【翌日・10:00 都内/パトカー内】
朝の光がビルの隙間を抜け、フロントガラスを穏やかに照らしていた。
昨日の重苦しい夜が嘘のように、街は静かに動き出している。
通勤の足音、信号の電子音、遠くのクラクション――どれも日常の音。
けれど、どこか“遠い”気がした。
パトカーの中には、エンジン音だけが低く響いている。
みゆきは無言のままハンドルを握り、前を見据えていた。
助手席のシエラは窓の外を眺めながら、頬杖をついている。
「今日は現場周辺で聞き込みをするわ。
何かわかったら、私に相談しなさい。」
みゆきが淡々と告げると、シエラはピシッと背筋を伸ばし、勢いよく敬礼した。
「了解! こう見えて話すの得意なんだよ、任せて!」
その調子に、みゆきは小さく肩を落とす。
「……その敬礼、どこで学んだの?」
「ん〜と……警察の勉強しようと思って、サスペンスドラマ見た!」
みゆきは短く息を吐き、視線を前に戻した。
外では、通りを渡る人々の声が風に混じって流れていく。
けれど、そのすべてが――妙に遠く感じられた。
【翌日・12:30 新宿第六中・校門前】
昼休みの校庭に、明るい声が広がっていた。
ボールの弾む音、遠くで響く笑い声、机を引く微かな軋み。
夏の光が白壁を照らし返し、風が通り抜けるたびに木々の葉が揺れる。
教室の窓の向こうでは、弁当を広げた生徒たちが笑い合っていた。
世界は、まるで何事もなかったかのように、“日常”を演じている。
その時――ふと、空気が変わった。
門の方へ目を向けた一人の生徒が、動きを止める。
何かを感じ取ったように、息を潜めた。
校門の影に、ひとりの少女が立っていた。
黒いパーカーのフードを深くかぶり、袖口には乾きかけた赤黒い染み。
手には、銀色のフォークが握られている。
その先端にこびりついた赤が、光を鈍く弾いた。
真白は、静かに立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、かつて自分が混じっていた光景。
笑い合う声、走る影、昼のざわめき。
どれも遠く、まるで別の世界の出来事のように滲んで見える。
風が止んだ。
髪が頬にかかり、空の端を白い雲がゆっくりと流れていく。
真白の唇が、わずかに動いた。
――その瞬間、空気の震えが途切れる。
ボールが宙で静止し、笑い声が消える。
風も、鳥も、チャイムも止まり、校舎全体が無音に沈んだ。
時間が、世界そのものが、呼吸を止めたかのように。
その中心で、真白だけが動いていた。
血の跡を残した手がわずかに震え、フォークが光を弾く。
その顔には――笑っているようで、泣いているようでもない、
人間のものとは思えない微笑が浮かんでいた。
グラウンドの端で、ボールを拾っていた生徒Aが、ふと動きを止めた。
何かが、おかしい。
音が――ない。
さっきまで響いていた笑い声も、風の音も、ボールの弾む音も。
耳の奥が詰まったように、世界が遠くなる。
Aは息を吸い、口を開いた。
「……あれ……?」
声が出ない。喉が動くのに、何も聞こえない。
ふと、視線の先に黒い影があった。
校門の方――その少女が、こちらを見ている。
体の輪郭が、煙のように揺れていた。
Aは振り向き、隣の友達に呼びかけようとする。
“なぁ、おい……”
唇が動く。けれど、やはり音は出ない。
その瞬間、風が切れるような震えが走った。
次の瞬間、Aと友人を含む十人の体が一斉に崩れ落ちる。
音はなかった。
ただ、世界のどこかで何かが“断たれた”ように、
空気だけが、ゆっくりと揺れた。
グラウンドに再び沈黙が戻る。
その中心に、黒いフードの少女が立っていた。
風も、声も、命の気配すら――もう、そこにはなかった。
グラウンドの中央。
倒れた生徒たちの間で、ひとりの女の子が小刻みに震えていた。
状況が理解できない。
立ち上がった瞬間、足元の砂がやけに静かに崩れる音だけが、胸の奥で響いた。
「……え……なに、これ……?」
声を上げたつもりだった。
けれど、自分の声が――聞こえない。
喉が動いている。息もしている。
でも、音が出ない。世界が、彼女の声を吸い込んでいた。
沈黙が、まるで空気ごと胸を押し潰すように重くなっていく。
パニックのまま、振り返る。
助けを呼ぼうと口を開く。
「たすけ――」
やはり音はない。
息が詰まり、涙が溢れた。
(なんで……なんで声が出ないの……?)
そのとき、風が止んだ。
雲の影が地面に落ち、空気が背中を押すように冷たく揺れた。
彼女はゆっくりと振り向く。
すぐ後ろに、黒いフードの少女が立っていた。
顔は見えない。
ただ、手に握られた銀色のフォークだけが、光を反射して微かに揺れている。
次の瞬間――
そのフォークが、空気を裂くように――音もなく、風さえ裂かずに走った。
一直線に、彼女の喉元へ。
【12:35 新宿第六中・グラウンド】
空は、透き通るような青だった。
雲ひとつない真昼の空が、まっすぐに地面を照らしている。
けれど、その青はどこか冷たく、
見上げているだけで胸の奥がきしむほど、静かすぎた。
さっきまで笑い声で満ちていた校庭。
ボールの弾む音も、風のざわめきも、鳥の声も消えていた。
風が吹いても、砂埃が舞っても、
世界そのものが――息を止めたように動かない。
その真ん中に、黒いフードの少女が立っている。
影は長く伸びているのに、
なぜか地面には、彼女の輪郭が映っていなかった。
陽炎のように揺れる姿が、光の中に溶けている。
手の中には、小さな銀色のフォーク。
乾きかけた赤がこびりつき、
太陽の光を拒むように、鈍く沈んだ光を放っていた。
真白は、ゆっくりと顔を上げた。
真上の空はあまりにも青く、
その瞳にはもう、何も映っていない。
光だけを写す鏡のように、冷たく、静かに。
「……静かで、いいや。」
その言葉は、風にも乗らず、空にも消えた。
声のないまま、世界の奥へと沈んでいく。
真白は、ゆっくりと校舎の方へ歩き出す。
影のない足取りが、光の中でわずかに揺れた。
空はどこまでも澄んでいた。
【12:40 新宿第六中・校門前】
買い物帰りの主婦が、スーパーの袋を提げて歩いていた。
いつもなら、この時間は学校の前を通るのが好きだった。
昼休みの声、ボールの音、風に混じる笑い声。
「今日も元気ね」と微笑むのが日課――そのはずだった。
けれど、その日は違った。
風が止まっていた。
車の音も、人の話し声も聞こえない。
空気がぴたりと張りつき、肺の奥がきしむほどに重い。
まるで、世界全体が“息を止めた”みたいだった。
主婦は思わず足を止めた。
校庭の奥、白い砂の上に、制服の子どもたちがいくつも倒れている。
最初は信じられなかった。
日差しが強すぎて、影のいたずらかと思った。
けれど、どの子も動かない。
手も、髪も、風に揺れない。
胸の奥が冷たくなり、気づけば門へと近づいていた。
自分でも理由がわからない。ただ、確かめなければいけない気がした。
一歩、門をくぐる。
――音が、消えた。
風の音も、自分の靴音も、紙袋の擦れる音も。
全部が、急に、消えた。
あまりの静けさに、自分の心臓の鼓動だけが耳の奥で跳ねる。
主婦は近くに倒れている女子生徒に気づき、駆け寄った。
膝をつき、肩を揺らす。
返事はない。
瞳は開いているのに、もう何も映していなかった。
襟元が赤く染まり、乾いた血が黒ずんで光っていた。
ひどく甘い匂いが鼻を刺した。
「……だれか……」
喉が震えた。
けれど、声は出ない。
唇が動いても、音はどこにも届かなかった。
泣いているのかどうかもわからない。頬だけが熱かった。
逃げなきゃと思った。
けれど、足が動かない。
陽射しが強すぎて、視界が白く滲んでいく。
――後になっても、どうして門をくぐったのか思い出せなかった。
世界はただ、沈黙していた。
【12:40 第一発見者・通報】
主婦は校門を抜けて道路に出た瞬間、音が戻った。
車の音、人の声、風のざわめき――
それが、胸の奥を突くほどうるさく感じた。
手が震える。スマホがなかなか掴めない。
「……ひゃ、百十番……!」
コール音が鳴っただけで、涙が込み上げた。
『警視庁です。事件ですか? 事故ですか?』
「じ、事件……かも! 新宿第六中! 生徒が、たくさん倒れてて……! 音が、全部……消えてるんです!」
『音が……? 消えている、とは?』
「風も……声も……なにも、聞こえないんです!」
通話の向こうで一瞬、息を呑む音。
すぐに別の男の声が重なる。
『了解。最寄りの警ら隊を出します。危険です、中には入らないで。外で待機を。』
「……はい……」
その答えも、かすれて自分では聞こえなかった。
⸻
【12:50 新宿第六中・校門前】
パトカーのドアが開く。
アスファルトの上、靴音だけが乾いて響いた。
校門の中をのぞいた瞬間、二人の警官は息を呑む。
――音が、ない。
風も止まり、グラウンドの木々が静止画のように立っていた。
倒れている生徒たち。誰も動かない。
「通信指令、こちら第七警邏隊……現場に異常発生――」
ブツッ。
無線が、途切れた。
もう一度押す。沈黙。
警官の喉が鳴った。声が出ない。
「……電波が死んでる。映像だけ撮るぞ。」
レンズ越しの画面には、動かない子供たちと、
空っぽの空が映っていた。
車に戻ると、ひとりが受話器を取り、
震える声で言った。
「こちら第七警邏隊。新宿第六中……音が、消えてます。全て。」
通信指令室の職員は、報告を聞きながら無言で内線に切り替えた。
「……対超課に回します。異能案件の可能性あり。」
受話器を置いたあと、彼女は両手を見つめた。
指が、汗で濡れていた。
⸻
【12:52 対超課・オフィス】
昼休み明けの静かなフロア。
“内線”が短く鳴り、たくまが受話器を取る。
「……対超課、はい。――音が……全部、ですか?」
モニターの地名に目が止まる。
《新宿第六中》
眉がわずかに動く。
昨日、庁内の報告チャンネルで共有された一件が、頭の中でつながった。
――加賀美真白。ファミレス事件、所在不明。
“音の消失”という単語が、報告書の中で異様に浮いていた。
「……まさか、あの加賀美真白か?」
低く呟いた声に、たくまが顔を上げる。
たくまの表情を見て、すぐに何も言わず視線をそらした。
胸の奥が冷たく沈む。
嫌な予感が、現実の輪郭を持ちはじめていた。
たくまはデスクの端に置かれた庁舎携帯を取り上げ、
みゆきの番号を押した。
【同刻 都内・住宅街の一角】
昼下がりの陽射しがじりじりと照りつけ、蝉の声が途切れなく響いていた。
みゆきとシエラは並んで、ファミレス近くの住宅街で聞き込みをしていた。
ゆったりと歩くおばあちゃんを見つけると、シエラが勢いよく近づいた。
「すみませーん! ちょっとお聞きしてもいいですか!」
「えぇ? なぁにぃ?」
「加賀美真白って女の子、知ってます?」
「……かがみ……もち?」
「ち・が・うのっ! か・が・み・ま・し・ろ!!」
「かがみ……い・る?」
「も〜〜〜〜〜〜っ!!」
シエラが頭を抱える横で、みゆきは腕を組んで小さくため息をつく。
「……もう少し落ち着いて話しなさいよ。」
「だって全然聞こえてないんだもん!」
シエラがぷくっと頬をふくらませた、そのとき――
隣のみゆきのポケットから、突然「ピロリン♪変身完了!」という派手な音が鳴り響いた。
明るい魔法少女アニメの主題歌。
「……っ! びっくりしたぁ!!なにその音!」
シエラが思わず飛び上がる。
みゆきは無表情のまま携帯を取り出し、静かに言った。
「会社用よ」
画面には“たくま”の文字。
通話ボタンを押すと、彼女の声色が一瞬で変わる。
「……はい、みゆきです。――無音の異常? ……場所は?」
短い沈黙。
そして低く、冷たい声で言った。
「……わかったわ。すぐ向かう。」
通話を切ると、明るいBGMの残響だけが車内に虚しく流れていた。
風が止み、蝉の声も途切れる。
「みゆき……?」
シエラが不安そうに覗き込む。
みゆきは短く息を吐き、前を見据える。
「新宿第六中。……シエラ、真白ちゃんを――止めるよ。」
シエラは唇を結び、真剣な眼差しで頷いた。
「……わかった。」
昼の光が二人を包む。
さっきまでのやり取りが嘘のように、世界が静まり返っていた。
続く
……静かって、いいことだと思ってた。
けど、今日みたいな“静けさ”は、なんか違う。
胸の奥がギュッて締めつけられて、
息をしてるのに、世界が止まってる気がした。
真白ちゃんが、どんな気持ちであの空を見上げてたのか。
あたしにはまだ、わからない。
でも――もし、ほんの少しでも届くなら。
その“静けさ”の中に、ちゃんと手を伸ばしてあげたい。
次回は第2章『無音の咎』編佳境に向かっていくよ!!
覚悟してね




