サイレント―Silent―
あたしね、最初はただの聞き込みのつもりだったんだ。
消えた女の子の部屋、放りっぱなしの日記帳。
ページの隅に、震える字で書かれてたの――“助けて”って。
よくある話だと思った。
でも、あの家の空気は……なんか、違った。
ねぇ――“静かになりたい”って、思ったことある?
この世界は、うるさすぎる。
声も、音も、心の中の叫びさえも。
だから彼女は、全部の“音”を消したんだ。
でもね……静かになった世界って、ほんとに優しいのかな。
――エピソード13『Silent』
ここから先は、覚悟して読んでね。
【加賀美宅・リビング】
みゆきは、静かにノートをテーブルへ置いた。
「お部屋で、こういうものを見つけました」
シエラが無言のまま、それを母親に差し出す。
母親は少しためらったあと、ページをぱらぱらとめくった。
けれど、表情はほとんど動かない。
「……こういうの、よくあることじゃないですか。年頃の子には」
声は穏やかで、どこか“自分に言い聞かせている”ようだった。
みゆきが言葉を探して黙る。
代わりに、シエラが一歩前に出た。
「でも、“助けて”って、何回も書いてありました」
母親は小さく息を吸い、視線を逸らす。
「……あの子、少し変わってたんです。昔から。
静かで、何を考えてるのか分からなくて……。
だから、こういうのも……その、よくあることなんです」
最後の言葉だけ、震えていた。
けれどそれ以上、母親は何も言わなかった。
沈黙。
冷たい空気が部屋を満たしていく。
シエラは唇を噛み、抑えていた声を吐き出した。
「自分の子どもでしょ!?
なんで……なんで見ようとしないの!
あの子、ずっと――助けてって言ってたのに!」
母親の肩がびくりと揺れる。
けれど、すぐに顔を伏せた。
その瞳に、怯えとも後悔ともつかない影が差す。
「……帰ってください」
その声は、泣き出す寸前みたいに小さかった。
みゆきがゆっくりと立ち上がる。
「……失礼しました」
二人は玄関へ向かう。
母親は背を向けたまま、立ち尽くしていた。
扉が閉まる。
“閉まる音”が、耳の奥で何度も反響した。
【加賀美宅・外】
外に出ると、空気が重かった。
夕立の名残のような湿り気が、頬にまとわりつく。
みゆきは何も言わない。
シエラも黙ったまま、ただ並んで歩いた。
足音が、濡れた路面に吸い込まれていく。
遠くで子どもの笑い声がして、それもすぐに風に溶けた。
しばらくして、シエラがぽつりと呟く。
「……真白ちゃん、ほんとは、ずっとひとりだったんだ」
みゆきは小さく息をつく。
返す言葉が見つからない。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
見上げた空は曇っていて、光のない雲がゆっくり流れていく。
風がひと吹き、二人の髪を揺らした。
その瞬間、世界の音がほんの少し変わった。
【翌日・12:20 新宿第六中 校門前】
風が変わった。
昨日までの湿った空気とは違い、昼のざわめきが街を満たしている。
チャイムの音、笑い声、運動場から響く掛け声。
空気が、光を含んでいるように明るかった。
シエラは校門の前で立ち止まり、目を細めた。
「わぁ……これが“学校”かぁ。なんか、明るいね!」
みゆきは小さく頷く。
「昼休みだからね。午後になれば、もう少し静かになるわ」
シエラは「へぇ」と返しながら、門の向こうを見つめた。
生徒たちの笑い声が、どこか遠くの世界の音のように響いていた。
みゆきには、その明るさが少しだけ眩しかった。
みゆきは職員室で教員と話をしていた。
その間、シエラは廊下の窓際に立ち、外を覗いていた。
昼の光がガラスに反射して、校舎全体がきらきらと揺れて見える。
数メートル先では、生徒たちがスマホを囲んで笑っていた。
その光景に、シエラの目がきらりと動く。
「ねぇねぇ、それ、なに見てるの?」
生徒Aが笑いながら答えた。
「これ?スマホ!おねぇさん知らないの?」
「すまほ……? なんか板の中に人が入ってるんだけど!?やば〜!」
生徒たちが爆笑した。
「おねぇさんマジおもろ!」
「金髪すげー! ハーフ?」
シエラは笑って髪を揺らす。
「ん〜地毛だよ。光が反射してキラキラしてるだけ♪」
「うわ、写真撮ろうよ!」
スマホを渡され、シエラはおそるおそる覗き込む。
「えっ、これ……自分映ってる!?すご!」
“カシャッ”という音。
一瞬、笑い声が廊下いっぱいに弾けた。
「……シエラ、あなた何してるの?」
背後からのみゆきの声に、シエラが振り返った。
スマホを両手で構えたまま、にっと笑う。
「ん? 聞き込み中だよ。」
生徒たちが笑い出す。
「マジおもろい!」「撮り方ヘタすぎ!」
みゆきは小さく息を吐いた。
「まったく……どんな聞き込みよ」
笑いが残る中、シエラは視線を生徒に戻す。
「ねぇ……真白ちゃんって、この学校にいたんでしょ?」
その名前が出た瞬間、空気が少しだけ沈んだ。
生徒のひとりがスマホを伏せ、うつむく。
「去年から来てないよ。ずっとヘッドフォンしてて」
「音が嫌いだったのかも。休み時間も一人でいた」
みゆきは「ありがとう」とだけ言って、メモを閉じた。
廊下の奥で誰かが笑っていた。
その声が、録音みたいに遠く聞こえた。
シエラは小さく目を伏せる。
「……そっか……ここでも、居場所がなかったんだね。」
【12:55 新宿第六中・校門前】
校門を出ると、風が心地よく頬を撫でた。
午前のざわめきが少し遠のき、校舎の白い壁がまぶしく光っている。
シエラは手を伸ばして伸びをした。
「ふぅ〜、学校楽しかったぁ〜!」
みゆきが呆れたように眉をひそめる。
「あなた、はしゃぎすぎよ。あんなに目立ってたんだから。」
シエラはくるりと振り向いて、笑いながら言う。
「え〜いいじゃん! みんな良い子だったし!」
みゆきは小さくため息をつく。
「……まったく、あなたって本当にマイペースね。」
「へへっ、ありがと〜!」
シエラは笑って、校門の外の道を軽い足取りで歩き出す。
その背中に、淡い光が静かに差していた。
【15:10 都内・あおい宅前】
車がゆっくりと止まり、エンジンが静まる。
「――着いたわ。」
「ありがと」
シエラはみゆきの方を振り返ってニコッと笑った。
みゆきは軽くうなずき、視線を前に戻した。
フロントガラスの向こうで、光が傾きはじめている。
「私はこれから庁舎に戻って、報告書まとめるから。」
「え〜、また仕事? 真面目すぎ〜」
「仕事だから当然でしょ。」
二人の軽いやり取りが、車内の空気をやわらげる。
シエラは笑いながらシートベルトを外した。
「じゃあ、あたしはここまで?」
「ええ。今日はここで帰りなさい。明日また聞き込みに行くわよ。」
「うん、了解! 明日ね!」
「遅れないでよ。」
シエラは明るく笑って手を振る。
その姿を見送りながら、みゆきは小さく息をついた。
車が角を曲がる頃には、もうシエラの姿は見えなかった。
淡い午後の光だけが、フロントガラス越しに残っていた。
19:15 加賀美宅・夜】
リビングの空気は、焦げつくように重かった。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、皺だらけの新聞。
「お前がちゃんと見てなかったから、こんなことになったんだ!」
父の怒鳴り声が壁を震わせる。
母は顔を上げず、冷えたマグカップを握りしめた。
「……あなただって、あの子と向き合ってなかったじゃない!」
言葉がぶつかり、沈黙。
冷蔵庫の低い唸りだけが残った。
ピンポーン、とチャイム。
母が立ち上がる。足音が妙に遠く響いた。
ドアを開けた瞬間、息が止まる。
街灯の光に照らされた少女が、そこに立っていた。
黒いパーカー。無表情。
その瞳は、まるで光を拒むように沈んでいた。
「……真白……?」
母の声が震える。
真白は何も言わず、玄関に一歩足を踏み入れる。
「……なんで……帰ってきたのよ」
「もう……帰ってこないで。あなたがここにいると、私……耐えられないのよ」
真白の唇がわずかに動いた。
「……そっか。私は、やっぱりいらない子だったんだね。」
母の声が、遠くから聞こえるようにぼやけた。
真白は、ただその唇の動きを見ていた。
次の瞬間――音が消えた。
世界の温度が、一度に下がる。
冷蔵庫も、時計も、世界そのものが息を潜める。
母の口が何かを言っている。
けれど、もう何も聞こえない。
光が、揺れた。
そして、静寂だけが残った。
真白はフォークを握りしめた。手が震えている。
けれど、それは恐怖ではなかった。
そして、フォークを母の喉に突き立てた。
世界が、一瞬だけ“逆流”した。
赤い光が、一瞬だけ揺れた。
空気がひび割れ、時が止まったように静まり返る。
母の動きが、ゆっくりと崩れていく。
――音は、なかった。
母の亡骸を確認した後、
真白はゆっくりと歩き出した。
足音はない。
廊下の壁にかかった家族写真が、かすかに揺れている。
それでも、音はしなかった。
リビングのドアを開ける。
父が何かを叫んでいる。
その口の動きが激しく震えているのに、
声は、どこにも届かない。
次の瞬間、父の瞳が真白をとらえた。
そこに映っていたのは、もう“娘”ではなかった。
黒い影のようなものが、真白の輪郭を覆い、
光を吸い込んでいく。
父の喉が震える。
けれど、その悲鳴も音にならなかった。
真白はゆっくりと歩み寄り、
テーブルの上から、ひとつのフォークを拾い上げた。
そのまま――父へ向かって、振りかぶる。
静寂を割るように、時計の針が動き出した。
チッ、チッ、チッ。
止まっていた世界が、音を取り戻す。
その音が――なぜか、やけに遠く感じた。
部屋には、冷たい鉄の匂いが満ちている。
床に沈んだ赤が、光を吸い込んでいく。
真白は膝をつき、両手を見つめた。
指の隙間から、何かが滴る。
それを見ながら、ふっと息を吐く。
そして――笑った。
「……あは。」
「……あは。あははは……ねぇ、静かだね。」
笑いの余韻が、部屋の中にまだ漂っていた。
真白は、ぼんやりと自分の手を見つめる。
乾きかけた血が、指先でひび割れていた。
「……あは。」
「やっぱり、あたし……この世界にいたらダメなんだね。」
その声には、もう怒りも悲しみもなかった。
ただ、静かな納得だけがあった。
涙が頬を伝う。
けれど、その顔は――笑っていた。
「だったら……あの場所 を静かにして
あたしも、一緒に消えよう。」
時計の音が、再び止まった。
そして世界は、もう一度“無音”に沈む。
翌日12:30 新宿第6中 校門前
昼下がりの太陽が、校舎の白壁を照らしていた。
グラウンドでは、生徒たちの笑い声が重なり、風がボールを転がす。
平和で、何の変哲もない日常。
その門の前に――黒い影が立っていた。
黒のパーカー。
深くかぶったフードの下から、白い指先がのぞく。
その手には、乾いた赤がまだこびりついていた。
真白の靴音が、校門の影で止まる。
空は、やけに青かった。
「……サイレント。」
転がったボールが、芝の上で静止した。
笑い声も、風の音も、鳥の声も――すべてが世界から抜け落ちる。
真白の口元が、ゆっくりと持ち上がる。
それは笑顔の形をしていた――
でも、もう人間のものではなかった。
続く
真白ちゃんは、静けさに逃げたんじゃない。
あの子にとって“静かになること”が、唯一の救いだったんだと思う。
でもね――その“静けさ”は、あたしたちにとっては地獄だった。
助けてって、ずっと言ってたのに。
誰も、聞こうとしなかった。
……あたし、まだ許せてない。
あの夜のことも、あの子を放った世界も。
いつか、あたしが必ず拾い上げる。
真白ちゃんの“声”を。




