音の消えた部屋で
ねぇ、静かな部屋って落ち着く?
あたしはあんまり好きじゃない。
だって、静かすぎると“何か”が聞こえる気がするから。
今回の現場はね、音がひとつもなかったんだ。
それなのに、部屋中が叫んでた。
『音の消えた部屋で』
【ステラダイン2階・現場】
無音の中で、みゆきのスマホが震えた。
画面には「西園寺りん」。
「……りん?」
『特定できたわ。名前は加賀美真白。十五歳。新宿区南雫町。新宿第六中に在学中。
映像でも本人確認済み。逃走は徒歩、方向は東側。』
それだけ言って、通話は途切れた。
みゆきがスマホを伏せる。
隣のシエラが顔を上げた。
「……何かわかったの?」
「ええ…加賀美真白。十五歳の少女よ……」
「……十五歳、か」
「そう……なんだ……」
その後、誰も言葉を続けなかった。
静寂だけが、現場を包んでいた。
【午前9時35分 捜査車両・車内】
エンジン音だけが、低く響いていた。
さっきまでの現場の気配が、まだ車内にこびりついている。
みゆきは前を見つめたまま、ハンドルを握る指先に力を込めた。
十五歳の少女――その言葉が、脳裏から離れない。
あの現場を作り出したのが“子ども”だなんて、信じたくなかった。
助手席では、シエラが窓の外を見つめていた。
街並みが流れていくたび、どこか別の世界を見ているような表情になる。
「わからない世界だね……」
ぽつりと、シエラが呟いた。
けれど、それ以上何を言うでもない。
みゆきも返さず、ただ無言のままアクセルを踏み込んだ。
車内の空気は、まるで“お通夜”のように重かった。
赤信号で止まった瞬間、遠くから子どもの笑い声が聞こえる。
それが、今はやけに遠く感じた。
⸻
【午前9時50分 新宿区・南雫町】
車が止まった。
みゆきが小さく息を吐く。
目の前には、ごく普通の一軒家。
庭には花が植えられ、門には昨日の洗濯物がまだ干されたままになっている。
ほんの数時間前、十五歳の少女が異能事件を起こしたとは思えないほど“普通”だった。
シエラが小さく首を傾げる。
「これが、彼女の家……?」
「ええ。行くわよ」
みゆきがインターホンを押す。
すぐにドア越しから足音、そして――
エプロン姿の女性が姿を現した。
整った髪。けれど、その表情には張り付いたような笑顔。
そして、パトカーの赤灯を一瞥した瞬間、明らかに顔が引きつった。
「……加賀美さんのお宅でよろしいですか?」
「……はい。そうですけど」
みゆきが警察手帳を見せる。
「加賀美真白さんの件でお話を伺いたいんですが」
母親の視線が、一瞬だけ周囲へ向かう。
近所の家、カーテンの隙間。
誰かが見ていないか、怯えるように確かめていた。
「……どうぞ、中へ」
小声でそう言い、女性は玄関を開けた。
家の中には、柔軟剤とコーヒーの混ざったような匂いが漂っていた。
けれどその奥に――言葉にできない“冷たさ”があった。
【午前9時55分 加賀美宅・リビング】
母親に案内され、二人はソファに腰を下ろした。
リビングには、まだ淹れたてのコーヒーの匂いが残っていた。
みゆきがメモ帳を開き、静かに言う。
「それでは、真白さんについていくつかご質問してもよろしいですか?」
母親が小さく頷く。
「加賀美真白さんは、今もご自宅には戻っていませんか?」
「……戻ってません」
短い返答。声に感情はなかった。
「最後に顔を見たのはいつ頃ですか?」
「昨日の夕方、六時頃です。……様子は、わかりません。あの子、引きこもってたので」
“様子は、わかりません”。
その言葉が、みゆきの胸に小さな棘のように残った。
「普段はどんなお子さんでしたか?」
「おとなしい……と思います」
その瞬間、母親の視線が一度だけ玄関の方へ向いた。
まるで、逃げ道を探すように。
みゆきは視線を上げる。
母親の言葉の抑揚には、どこか他人事の響きがあった。
「学校や交友関係で何か気になることはありますか?」
「去年の夏頃から行ってなかったと思います。“みんなが私の話をしてる”って言って……それから部屋に籠るようになりました」
淡々とした口調。
悲しみも、焦りもない。
ただ、ひたすらに現実を読み上げているようだった。
短い沈黙。
その空気を破ったのは、シエラだった。
「ねぇ、さっきから“思います”って何?」
母親が顔を上げる。
シエラは真っ直ぐに見つめたまま、言葉を続けた。
「真白ちゃんのこと、もしかして何も知らないの?」
「……な、何を言ってるの。そんなわけ――」
「でも、自分の子どもならわかるはずだよね」
一瞬、空気が凍った。
母親は唇を震わせ、視線を逸らしたあと、
弾けるように声を荒げた。
「……あの子、なんなんですか!? 本当に警察なんですか!? そんな言い方、失礼じゃないですか!」
みゆきはすぐに一歩前に出て、静かに言う。
「……すみません。言葉がきつくなりました。彼女は少し気が強いんです」
母親は黙ったまま、俯いた。
その横顔に、怯えとも苛立ちともつかない影があった。
短い沈黙のあと、みゆきが口を開く。
「彼女の部屋を拝見しても、よろしいですか?」
「……勝手にしてください」
【午前10時10分 加賀美真白の部屋】
ドアを開けた瞬間、空気が変わった。
澄んでいるのに、どこか息苦しい。
整いすぎた空間。それだけで息苦しかった。
ぬいぐるみは列を乱さず並び、本棚の本は高さまで揃っている。
机の上に置かれたペンは一本だけ。まるで「これ以外は不要」とでも言いたげに。
みゆきは小さく息を吸う。
「……まるで展示品みたい」
そのとき、シエラが机の引き出しを開けた。
中には何冊ものノートが、日付順に整然と並べられている。
「……これ、全部……?」
「日記みたい」
シエラは一冊を取り出し、ページをめくった。
数行読んだだけで、眉をひそめる。
「どうしたの?」
「……これ、見て」
みゆきが手渡されたノートを受け取り、目を落とした。
⸻
2025年1月1日
お正月で親戚が来た。
小さい子が走り回っていてうるさい。
私は静かに本を読んでいたいのに、みんなが騒いで落ち着かない。
でも、これが“普通”なんだろう。
私は静かにしていようと思う。
⸻
2月25日
今日もお父さんとお母さんが喧嘩している。
下の階から怒鳴り声が聞こえる。
怖い。怖い。怖い。
助けて。
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4月16日
怖い怖い怖い怖い怖い
ドンドンって音がする。
怒鳴り声がする。
いやだいやだいやだいやだ
下の音が消えない。
消えない消えない消えない消えない
⸻
5月5日
音を消して
音を消して
音を消して
音を消して
音を消して
音を消して
音を消して
⸻
5月16日
キエタイ
キエタイキエタイ
キエタイキエタイキエタイ
キエタイキエタイキエタイキエタイ
キエタイキエタイキエタイキエタイキエタイ
キエ――
⸻
その先のページは破られていた。
紙の裂け目が、まるで悲鳴の跡のように残っている。
みゆきは反射的にバンッとノートを閉じた。
息が詰まる。手のひらが汗で濡れていた。
――みゆきの呼吸音だけが響く。
続く
……ねぇ、あたし、まだ分かんないんだ。
なんでこんな小さな子が、あんなことをしたのか。
何がそこまで追い詰めたのか。
どこで、誰が止めてあげられたのか。
ねぇ、みんな“事件”って言うけどさ。
これはただの事件じゃない。
もっと、ずっと前から壊れてたんだよ。
あたし、正義の味方でも神様でもない。
でも、せめてあの子の見た景色くらい、覚えておこうと思う。




