法の壁
ミリアムの能力覚醒は、マリンスワロー内のチームYに、驚きと同時に確かな希望をもたらした。狂暴化していたルミナス・ホエールたちは、ミリアムの歌声によって鎮まり、穏やかに潜水艇の周囲を泳いでいる。彼らの体から放たれる光は、まだ弱々しいものの、以前のような歪みはなく、わずかながらではあるが、本来の神秘的な輝きを取り戻しつつあった。
一方で、ミリアムが感知した「悪い機械の音」は、海底に隠されたガスクロス産業の不法投棄施設の存在を明確に示していた。
「ミリアム、すごいぞ!君のおかげだ!」
カケルの声には、興奮と安堵が混じっていた。
「私の……歌が……ホエールたちに届いたんだ……」
ミリアムは、まだ少し息を切らせながらも、その瞳を輝かせていた。頭痛は治まり、全身を貫いていた不快感も和らいでいた。彼女の体は、覚醒した能力に馴染もうとしているようだった。
ノアは、ミリアムが感知した「チカチカする音」の解析を急いでいた。
「ミリアムが感知した周波数パターンを逆探知している。これは間違いなく、ガスクロス産業の不法投棄施設に設置された、自動監視システムから発せられる信号だ。おそらく、廃棄物の投棄量を記録し、外部からの接近を検知するためのものだろう。しかし、GRSIのデータベースには、この施設の情報は一切ない」
「つまり、完全に隠蔽された違法施設ってことね」
エミリーが冷静に言い放った。
「これほどの規模の不法投棄を、人目のつかない辺境の惑星で行っていたなんて……」
イヴァンは、モニターに映る不法投棄施設の影を見て、拳を握りしめた。
「ちくしょう、こんなことやりやがって。今すぐぶっ壊しに行ってやる!」
「待て、イヴァン」
カケルが制止した。
「ノア、この施設の情報は、ガスクロス産業の公式データにはないということだが、惑星連邦の環境保護局や、廃棄物処理に関する公的機関のデータベースには何か記録があるか?」
ノアは、高速でキーボードを叩き、惑星連邦の広大なデータベースを検索した。
「検索中……やはり、公式な記録は一切ない。この施設は、あらゆる公的機関の監視網から完全に隠蔽されている。まるで、存在しないかのように」
カケルの表情が険しくなる。
「つまり、これは単なる不法投棄で済まされる問題じゃない。ガスクロス産業は、惑星連邦の法を完全に無視し、大規模な環境犯罪を組織的に行っている。彼らの背後には、相当な権力者がいる可能性もある」
「そうね。そうでなければ、これほどの大企業が、これほど大規模な施設を秘匿し、長期間にわたって不法行為を続けられるわけがないわ」
エミリーが同意した。
ミリアムは、深海の底から聞こえてくる「悪い音」に耳を澄ませていた。彼女には、その施設から放たれる「音」が、単なる機械の稼働音ではなく、まるで「傲慢さ」や「無関心」といった感情を帯びているかのように感じられた。それは、生命の苦痛を顧みない、冷酷な「音」だった。
「でも、どうするの、カケル?このままじゃ、ホエールたちが……」
ミリアムは、不安そうに尋ねた。彼女の耳には、ホエールたちの「安堵の音」が聞こえる一方で、海全体の「苦しみの音」はまだ消えていない。汚染源を止めなければ、ホエールたちは再び苦しむことになるだろう。
カケルは、眉間にしわを寄せた。
「この不法投棄の証拠を押さえる必要がある。だが、ガスクロス産業が公的に存在しない施設を運営している以上、GRSIが直接介入するには、惑星連邦議会からの特別な許可が必要になる。環境保護局からの要請があったとしても、手続きに時間がかかりすぎるだろう」
ノアが、冷徹な現実を突きつける。
「だが、ルミナス・ホエールたちの生態系の崩壊は、すでに臨界点に近い。このまま数日放置すれば、回復不能な状態に陥る可能性が高い。銀河連邦の許可を待つ時間は、ない」
潜水艇の内部に、重苦しい沈黙が訪れた。目の前には、汚染の根源と、それを停止させるための確かな手がかりがある。しかし、法的な壁と、時間の制約が、彼らの行く手を阻んでいた。
イヴァンが焦れたように言った。
「だったら、勝手に乗り込んでぶっ壊しちまえよ!証拠は後からでもどうにかなるだろ!」
「それでは、ただの不法侵入と破壊行為だ。いくら正義のためとはいえ、GRSIの原則に反する」
カケルは、イヴァンの提案を退けた。
「でも、そうしないと、ホエールたちが死んじゃうよ……!」
ミリアムの声が、切実に響いた。彼女には、ホエールたちの「歌」が、日に日に弱まっていくのが感じられるのだ。彼らの「命の音」が、少しずつ、しかし確実に、かすれていくのを聞き取るたびに、彼女の胸は締め付けられる。
エミリーが、腕を組みながら静かに言った。
「私たちは、法と秩序を守る組織。しかし、目の前で命が消えようとしている時に、ただ手をこまねいていていいのかしら……」
彼女の言葉には、葛藤が滲んでいた。
カケルは、モニターに映る不法投棄施設のシルエットと、その周りを穏やかに泳ぐルミナス・ホエールたちを交互に見つめた。ミリアムの覚醒した能力は、確かに希望の光をもたらした。しかし、その光は、まだ法と秩序の壁を打ち破るには至っていない。このままでは、ミリアムがせっかく鎮めてくれたホエールたちが、再び苦しみに沈むことになる。
「何とか……何か方法はないのか……」
カケルは、唇を噛み締めた。
彼らは、希望を見出したばかりだ。しかし、その希望は、法と時間という見えない壁によって、今にも砕かれようとしていた。彼らは、この絶望的な状況を打破するため、自分たちの信念と、GRSIのエージェントとしての職務の間で、大きな葛藤を抱えていた。この深海の闇の中で、彼らは、まさに究極の選択を迫られていた。