悲鳴
マリンスワローは、ミリアムが指し示す方向へ、静かに、しかし着実に潜航を続けていた。深海の水圧は容赦なく機体を締め付け、船体から微かなきしみ音が聞こえてくる。外部ライトが照らすのは、無数の浮遊物と、時折通り過ぎる汚染に弱った海洋生物の影だけだ。潜水艇内の空気は、ミリアムの苦しげな呻きと、張り詰めた沈黙が支配していた。
ミリアムは、相変わらず両手で頭を抱え、身体を震わせている。
「ううっ……もっと、もっとひどくなってる……」
彼女の表情は青ざめ、額には冷や汗がにじむ。その耳には、ルミナス・ホエールたちの「悲鳴」が、まるで耳元で直接叫ばれているかのように響き渡っていた。それは単なる聴覚の限界を超えた、全身を貫くような痛みとしてミリアムを襲う。
カケルは、冷静に状況を判断しようと試みる。
「ノア、ミリアムの生体反応はどうなっている?この『音』が彼女に与える影響は?」
ノアは、ミリアムの脳波データと体内のストレスレベルを示すグラフを凝視していた。
「脳波の同期率が異常だ。まるで、外部の音波と彼女自身の脳波が共鳴しているかのよう……これは、一般的な聴覚の範囲を超えている。精神的な負荷も限界に近い。このままでは、彼女の神経系に永続的なダメージが及ぶ可能性もある」
彼の声には、僅かながら焦りが滲んでいた。理論とデータに裏打ちされた彼の知識をもってしても、ミリアムの現象は未知の領域だった。
イヴァンは、ミリアムの苦しむ姿を見て、苛立ちを隠せない。
「くそっ、どうにかしてやれねえのか!?見てるだけなんてごめんだぜ!」
彼は、自身の無力さに歯噛みした。拳を固く握りしめ、何かを殴りつけたい衝動に駆られる。
エミリーは、沈着な声でノアに問いかける。
「この『音』は、ホエールたち固有のものなの?それとも、汚染物質が発しているもの?」
「現在、分析を進めているが、ミリアムが感知しているのは、ホエールたちの生体反応から発される苦痛のサインと、周囲の汚染物質が持つ固有の周波数、そして……何らかの人工的な『響き』が混じり合っているようだ」
ノアの解析結果は、ミリアムが聞く「音」が単一のものではないことを示唆していた。特に「人工的な響き」という言葉が、カケルの注意を引いた。
カケルは、ミリアムの隣に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
「ミリアム、その『悪い音』は、どこから聞こえるんだ?もっと具体的に教えてくれないか?」
彼は、ミリアムの言葉に、まだ完全には理解できない部分があることを承知の上で、わずかな手がかりでも得ようとした。
ミリアムは、苦しげに顔を上げ、潜水艇の前方、そしてやや下方を示すように手を伸ばした。
「もっと……もっと奥……深いところに……。なんか、すごく冷たくて、重たい『音』……」
彼女は、自分が感じている「音」の正体を、どう言葉にすれば伝わるのか、もどかしさを感じていた。それは、色や形、温度、重さといった感覚が、すべて「音」として彼女の脳内に流れ込んでくるような、複雑な知覚だった。
「冷たくて、重たい音……か」
カケルは、ミリアムの言葉を反芻した。科学的な根拠は薄いが、彼女の直感を信じるしか今は術がない。
ノアは、モニターに映る深海地図を拡大しながら、ミリアムの言葉と既存のデータとの整合性を探る。
「深い場所、そして冷たくて重たい……考えられるのは、海底にある大規模な構造物か、あるいは極めて高密度の汚染物質の集積地点。そして、その人工的な響きが、もしガスクロス産業の不法投棄と関連しているなら、彼らの隠蔽工作のための何らかの装置が関係している可能性もある」
「つまり、その『悪い音』の先に、汚染源の根源があるかもしれない、ということか」
カケルは、ノアの言葉から結論を導き出した。
イヴァンが身を乗り出した。
「だったら、そこまで行っちまえよ!悩んでたって何も解決しねえ!」
「待って、イヴァン」
エミリーが冷静に制した。
「ミリアムの様子を見て。彼女の体は、この『音』に耐えきれていない。これ以上深部に潜れば、彼女の精神がもたない可能性もあるわ」
彼女はミリアムの顔色を心配そうに見ていた。チームメイトの安全が、何よりも優先されるべきことだと考えている。
ミリアムは、その言葉を聞いて、さらに苦しげに顔を歪めた。
「でも……でも、行かなきゃ……ホエールたちが……私に、助けてって言ってるの……!」
彼女は、身体的な苦痛にもかかわらず、ホエールたちを救いたいという純粋な思いが、彼女を突き動かしている。その「音」を無視することは、彼女にはできなかった。
カケルは、腕を組み、深く考え込んだ。ミリアムの感覚を信じるか、それとも彼女の安全を優先して引き返すか。時間がない中で、彼は究極の選択を迫られていた。
「ノア、ミリアムを安全に保つための、何か対処法はないのか?一時的にでも、彼女がその『音』から解放される方法は?」
ノアは困惑した表情で首を振る。
「残念ながら、この種の感覚神経の過剰な共鳴に対して、直接的な抑制方法は確立されていない。一時的な鎮静剤は、意識を朦朧とさせ、彼女の感覚を鈍らせるだけだ。それでは、彼女の感覚に頼ることができなくなる」
「くそっ……!」
イヴァンは床を叩いた。
ミリアムは、再び潜水艇の窓の外へと視線を向けた。外部ライトが照らし出す深海は、ますます暗く、重苦しい色を帯びていく。その暗闇の奥から、ホエールたちの悲鳴と、理解不能な「悪い音」が、彼女の心臓を直接掴むかのように響いてくる。
「私……大丈夫……行けるよ……」
ミリアムは、震える声でカケルに訴えた。彼女の目は、涙で濡れてはいたが、その奥には、確固たる決意の光が宿っていた。ルミナス・ホエールたちの「助けて」という「音」が、彼女に勇気を与えていた。
チームYのメンバーは、互いの顔を見合わせた。ミリアムの感覚が、今回の任務において極めて重要であることは明らかだった。だが、同時に、彼女の身体と精神に尋常ではない負荷がかかっていることも明白だ。
カケルは、迷いを断ち切るように深呼吸した。ミリアムの「音」は、他のどんな科学的なデータよりも、この海の真実を物語っているのかもしれない。彼女の言葉、彼女の痛み、それが唯一の手がかりだ。
「わかった。無理はさせない。だが、ミリアムの感覚が頼りだ。ノア、潜水艇の安全性を最大限に確保しろ。エミリー、イヴァン、ミリアムをサポートしながら、深部へ潜る準備だ」
カケルは、最終的な決断を下した。
マリンスワローは、深い、深い、未知の領域へと潜り始めた。ホエールたちの悲鳴が、ますます大きくなる中で。