惑星アクエリア
ホープウィスパー号は、漆黒の宇宙空間を滑るように進み、やがて青く輝く惑星アクエリアの軌道へと到達した。緑豊かな陸地はごく僅かで、そのほとんどが深淵な青色に覆われた水の惑星だ。軌道上からでも、その海が放つ独特の輝き、そしてどこか物悲しい雰囲気が伝わってくる。
列車は速度を落とし、アクエリアの赤道付近、唯一の陸地にある銀河鉄道の無人駅へと静かに着陸した。駅舎は古いながらも手入れが行き届いており、定期列車は運行されていないものの、時折訪れる調査隊や、かつての観光客をわずかに偲ばせる佇まいだった。周囲には、錆びついた貨物コンテナと、かつての栄華を物語るかのようにひっそりと立つ、朽ちかけた案内板があるだけだ。
列車が完全に停止すると、チームYのメンバーはホープウィスパー号から降り立った。アクエリアの空は、濃い青色に染まり、遠くには巨大なガス状惑星がぼんやりと輝いている。彼らの目の前には、どこまでも広がるアクエリアの海が広がっていた。波の音だけが、静かに海岸に打ち寄せる。
「うわぁ……すごい。どこまでも青いね」
ミリアムは、感動したように両手を広げた。その瞳は、海の輝きを吸い込むように見つめている。彼女の耳には、波の音、風の音、そして海の奥底から聞こえてくるような、微かな、しかし確かに存在する「音」が聞こえていた。
イヴァンが潮風を吸い込むように大きく息を吸い込んだ。
「んーっ、あんまり美味い空気じゃねえな。潮くせえ」
エミリーは、海を鋭く観察していた。
「見た目は美しいけれど、データ通りなら、この海はすでに深く病んでいる。この静けさも、かえって不気味に感じるわ」
カケルは、海岸線に沿って続く、わずかな汚染の痕跡に目を凝らしていた。肉眼ではほとんど判別できないが、彼の経験が、この美しい景色の裏に潜む異常を敏感に察知していた。
しばらく景色を眺めた後、チームYはホープウィスパー号へと戻った。マリンスワローは、ホープウィスパー号の車内に格納されており、列車から直接海中へと発進できる構造になっている。
「よし、乗り込むぞ。ノア、最終チェックを頼む」
カケルが指示を出す。
「了解。各システム、問題なし。潜水準備完了だ」
ノアは、マリンスワローのコンソールで素早く指を動かし、全システムの最終確認を行った。彼の顔には、この未知の海への探求心と、任務への集中が見て取れる。
イヴァンは、その屈強な体をマリンスワローの狭いハッチからねじ込みながら、「へっ、いよいよ潜るのか!海は苦手なんだがな、息ができねえのは」とぼやいた。
エミリーは、淡々と装備をチェックしている。
「非常用酸素ボンベの確認を怠らないで。深海の圧力は予想以上よ」
彼女の言葉には、慣れない環境でのリスク管理を徹底するプロ意識が滲む。
ミリアムは、興奮と不安が入り混じった表情でマリンスワローのハッチへと向かった。彼女の胸の奥では、アクエリアの海に近づくにつれて、ルミナス・ホエールたちの「音」が、ますます強く、はっきりと響き始めていたのだ。それは、単なる生物の鳴き声ではない。まるで、彼らの肉体的な痛みや、絶望感、そして助けを求める切実な「叫び」のような「音」が、直接彼女の心に語りかけてくるようだった。
「すごい……」
ミリアムは、潜水艇の窓から広がるアクエリアの海を見つめた。エメラルドグリーンに輝く浅瀬から、徐々に濃い藍色へと変化していくグラデーションは、息をのむほど美しい。しかし、その美しさの裏に、ミリアムはホエールたちの苦しみが潜んでいることを知っていた。
マリンスワローは、ホープウィスパー号の格納庫からゆっくりと海中へと潜航を開始した。水面に波紋が広がり、やがて潜水艇の周囲を深海の闇が包み込んでいく。
潜水艇内の照明が落とされ、外部ライトが深海を照らし出すと、目の前には想像を絶する光景が広がった。無数の泡がマリンスワローの周囲を舞い上がり、青い光の粒子が幻想的にきらめく。しかし、その幻想的な美しさとは裏腹に、海中の至るところに、異様な色の濁りや、未知の浮遊物が漂っているのが見えた。
「これが汚染か……」
カケルの声が、潜水艇内に響いた。彼の表情は、先ほどよりも一層険しくなっている。
「ノア、汚染状況のリアルタイム分析を開始しろ。エミリー、ルミナス・ホエールの探索。ミリアムは……」
カケルが指示を出そうとしたその時だった。
ミリアムの体が、突如として大きく震え始めた。両手で頭を抱え、苦悶の表情を浮かべる。
「ミリアム!?どうした!」
カケルが慌ててミリアムに駆け寄る。
「うるさい……!うるさいよぉ……!」
ミリアムは呻いた。その目からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。
イヴァンが驚いて声を上げる。
「おい、ミリアム!急にどうしたんだ!?」
エミリーも心配そうにミリアムを見つめる。
「気分でも悪いの?潜水艇酔い?」
「違うの……!違うよ……!」
ミリアムは首を激しく横に振った。彼女の耳には、今、マリンスワローの機体全体から、そして潜水艇の外の広大な海中から、これまでにないほどの強烈な「音」が押し寄せていたのだ。それは、単なる水の流れる音や、潜水艇の稼働音ではない。
「悲鳴……!助けて……!苦しい……!痛い……!」
それは、ルミナス・ホエールたちの、声なき声だった。しかしミリアムには、彼らの肉体が、神経が、魂が、汚染物質によって蝕まれ、もがき苦しんでいる「音」が、明確な、そして具体的な「悲鳴」として聞こえてくるのだ。その「音」は、彼女自身の神経を直接刺激するかのように、激しい頭痛と吐き気を催させた。
「ホエールたちの……悲鳴が聞こえるの……!たくさん、たくさん……!この海の全部が、苦しいって言ってる……!」
ミリアムは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて叫んだ。彼女の言葉は、まるで精神に異常をきたしたかのように聞こえるかもしれない。しかし、彼女にはそれが紛れもない真実だった。
ノアは、モニターを凝視していた。
「ミリアムの生体反応が異常な数値を示している!脳波が極めて高い共鳴状態に入っている!何らかの、精神的なストレスか……」
彼は、理論的な解析を試みるが、ミリアムが感じているであろう「音」の正体までは理解できない。
カケルは、ミリアムの肩を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ミリアム、落ち着け!どんな『音』だ?何が見える?」
ミリアムは、涙を流しながらも必死に伝えようとする。
「見えない……!でも、聞こえるの!水の……水の『音』が……苦しいって……ホエールたちが、痛いって……!もっと奥に、もっと奥に、もっとたくさんの『苦しい音』がするの……!きっと、そこに……きっとそこに、もっと大きな悪い音がする……!」
彼女が言う「悪い音」とは何なのか、ミリアム自身にも明確な形としては理解できていない。だが、その「音」が、ホエールたちの苦しみの根源であり、海を蝕む元凶であることだけは、本能的に理解できた。それは、おそらく不法投棄された廃棄物や、それを排出したシステムが発する、生命とは相容れない「死の音」のようなものだったのかもしれない。
ミリアムの言葉は、他のメンバーには理解し難いものだった。しかし、彼女の必死な様子と、ただならぬ雰囲気に、皆は言葉を失った。ミリアム自身も、自分が聞いている「音」の正体が何なのか、どうして自分だけに聞こえるのか、明確に説明できないもどかしさを抱えていた。それは、まるで自分だけが別の次元の現実を見ているような、孤独な感覚だった。
カケルは、冷静さを保ちながらも、ミリアムの言葉に耳を傾ける。彼の脳裏には、ミリアムには何らかの特別な素質があるのではないか、というかすかな予感がよぎった。
「ノア、ミリアムの脳波を継続的に監視しろ。エミリー、イヴァン、ミリアムを援護しながら、彼女が指し示す方向へ潜水艇を進める。ミリアム、お前が感じた『悪い音』の場所へ向かうぞ」
カケルは、直感的にミリアムの感覚を信じることを決断した。
ミリアムは、カケルの言葉に、ハッと顔を上げた。彼女の「音」を信じてくれる仲間がいる。その事実が、彼女の心をわずかに落ち着かせた。
マリンスワローは、ミリアムの示す方向へと静かに、しかし確かな意思を持って潜航を続けた。深海へと深く潜るにつれ、周囲の光は失われ、外部ライトが照らす範囲だけが、かろうじて視界を確保している。
ミリアムの耳には、ルミナス・ホエールたちの「悲鳴」が、ますます大きく、そして切実に響き渡る。それは、この海全体が苦しんでいる「悲しい歌」。そして、その歌の奥底には、より深く、より暗い「悪い音」が、彼らを飲み込もうと待ち構えているのが感じられた。彼女は、その「音」の正体を突き止め、ルミナス・ホエールたちを救うために、その感覚に身を委ねるしかなかった。