ホープウィスパー号
セントラル・オービタルの地下深く、GRSI専用ターミナル。
停車しているのは、銀河鉄道が誇る最新鋭の事業用列車『ホープウィスパー号』だ。通常の旅客列車のような華やかさはないが、その重厚な車体は、いかにも特殊任務をこなすための堅牢さと機能性を兼ね備えていることを示している。
車内は、任務に応じて搭載する装備をカスタマイズすることができて、今回は最新の通信設備、精密な分析ラボ、そして惑星アクエリアの海洋調査に不可欠な小型潜水艇『マリンスワロー』が格納されている。
ホープウィスパー号は、静かに、しかし力強く発車を告げる低い警笛を鳴らし、宇宙へと続くレールの上を滑るように加速していった。
列車内は、簡素ながらも任務に必要なあらゆる設備が整っていた。巨大な窓からは、セントラル・オービタルの無数の光が瞬く夜景が流れ去り、やがて漆黒の宇宙空間へと変わっていく。
カケルは、中央の大型モニターに映し出された惑星アクエリアの海洋図を睨みつけていた。すでにノアが収集したデータが、リアルタイムで更新されていく。
「ノア、アクエリアの海洋汚染に関する最新データは?」
カケルは、モニターから目を離さずに尋ねた。
ノアは、自身のタブレット端末を操作しながら答える。
「現在の汚染レベルは、予測を上回る速度で進行している。特に、ルミナス・ホエールの生息域の中心部で濃度が高まっている。化学物質の特定は完了した。『ポリ・炭素酸トリウム』。非常に分解されにくく、生物の神経系に作用する可能性のある物質だ」
「神経系に作用……だからホエールたちは、あんなに苦しそうなのか」
ミリアムは、顔を曇らせてモニターのホエールの映像を見つめた。彼女の脳裏には、先ほどのニュース映像で見た、弱々しく光るホエールたちの姿が焼き付いている。そして、その映像から感じ取った「悲しい音」が、再び胸に去来する。
イヴァンが、車内備え付けのトレーニング器具で軽く体を動かしながら言った。
「ポリ・なんとかって奴か。そいつが原因なら、汚染源を突き止めてぶっ潰しゃあいいんだろ」
「それが単純じゃないわ、イヴァン」
エミリーが、精密な地図データを展開しながら説明する。
「ノアの初期分析では、汚染は複数の地点から広がっている可能性が高い。特に怪しいのは、北半球にある大規模な廃棄物処理施設跡地。そこが、今回の任務の主要な調査ポイントになるわ」
ノアが補足する。
「その施設は、現在閉鎖されているが、周辺で不法投棄の痕跡が確認されている。運営元は『ガスクロス産業』。廃棄物処理業界では最大手の一つだが、過去にも環境規制違反で複数の訴訟を起こされている悪名高い企業だ」
カケルはモニターのデータを指差した。
「つまり、ガスクロス産業がアクエリアに産業廃棄物を不法投棄し、それがルミナス・ホエールたちの絶滅危機に繋がっていると。だが、彼らがなぜこんな辺境の星に、しかも閉鎖された施設を使ってまで不法投棄を行うのか……」
「経費削減よ。通常の処理費用をケチって、人里離れた辺境の惑星に、目立たないように捨てていたと考えるのが自然ね」
エミリーが推測を述べた。
「しかし、これは単なる不法投棄事件で終わらないかもしれないな。銀河全体に影響を及ぼすような、もっと深い闇が隠されている可能性もある」
カケルの表情は険しい。
ノアが新たな情報を提示する。
「もう一つ気になる点がある。アクエリアは、銀河鉄道の無人駅が存在するものの、定期列車は運行されていない。時々観光列車や調査列車が停車する程度だ。なぜ、そんな人目のつかない場所に、これほど大規模な不法投棄が行えるのか。ガスクロス産業の背後に、より大きな組織が関与している可能性も排除できない」
その言葉に、車内の空気が再び張り詰めた。
ミリアムは、そんな議論の輪から少し離れ、窓の外を流れる星々を見つめていた。彼女の心は、ルミナス・ホエールたちの「悲しい音」で満たされている。彼らがどれほど苦しんでいるのか、彼女には手に取るように分かる。彼らの「声」が、まるでこの宇宙船の壁をすり抜けて、直接彼女の心に語りかけてくるかのようだ。他の誰にも聞こえない、彼女だけの「音」だ。
「ねえ、カケル」
ミリアムは、小さく声をかけた。
「ホエールたちは、どうやって助けられるの?私、彼らがすごく、すごく苦しんでるのが分かるの……」
彼女の声は、どこかもどかしげだった。自分にしか聞こえないこの感覚を、どう伝えればいいのか、戸惑っているようだった。
カケルはミリアムの言葉に、少しだけ考えるように眉を寄せた。
「まずは汚染源を特定して、これ以上の被害を食い止めることだ。それから、ノアがホエールたちの生存に適した環境を分析する。そして、エミリーが、汚染物質を無害化するための方法を検討する。できる限りのことはするさ」
「でも、時間が、ないんじゃないかな……」
ミリアムの声は、不安に震えていた。彼女には、ホエールたちの「音」が、刻一刻と弱まっていくように感じられたのだ。それを言葉で表現するのは難しいが、彼女の感覚はそう叫んでいた。
イヴァンがミリアムの肩をポンと叩いた。
「大丈夫だって、ミリアム。俺たちがついてんだ。どんなデカい業者だろうと、やることやってる奴らは許さねえ。ぶっ飛ばしてやるさ」
彼の言葉は乱暴だが、その中にはミリアムを安心させようとする優しさがにじんでいた。
エミリーが、そんなイヴァンを嗜めるように言った。
「イヴァン、私たちの任務はあくまで調査と保護よ。暴力は最終手段。まずは、確実に証拠を押さえることが重要だわ」
「わかってるっての!でも、どうにも我慢ならねえだろ、こんなこと」
イヴァンは、納得がいかないとばかりに腕を組んだ。
ノアは、冷静に現実を告げる。
「アクエリアの環境は非常に繊細だ。わずかな汚染でも甚大な被害をもたらす。このままでは、数日中にルミナス・ホエールは回復不能な状態に陥る可能性が高い」
チームYの誰もが、この任務の困難さを理解していた。相手は大手企業であり、環境破壊は進行中。そして、何よりも、言葉を発しない生物の苦しみを、ミリアムの「感覚」を通してしか理解できないという、ある種の無力感も感じていた。ミリアム自身も、自分が聞いている「音」の正体が何なのか、どうして自分だけに聞こえるのか、明確に説明できないもどかしさを抱えていた。それは、まるで自分だけが別の次元の現実を見ているような、孤独な感覚だった。
ミリアムは、再び窓の外へと視線を向けた。宇宙の暗闇の中に、遠く輝く星々。その一つ一つが、生命の営みを内包している。彼女の耳には、その星々から発せられる微細な「音」が聞こえてくるかのようだった。しかし、今は、アクエリアの海で苦しむホエールたちの「悲鳴」が、何よりも強く彼女の心を揺さぶっていた。