海底で聞こえた音
マリンスワローは、深い海底の泥の中に、不時着していた。船体からは、きしみと水漏れの音が絶えず響き、内部の計器はほとんど沈黙している。緊急用の予備電源が、かろうじて最低限の生命維持装置と通信システムを動かしていた。
ミリアムは、窓に手を置いたまま、光を失ったホエールの姿を見つめていた。その瞳には、もはや悲しみだけではなく、深い決意の光が宿っていた。彼女の能力は、ホエールの最期の「希望の音」によって、新たな段階へと進化していた。
「私たち、ホエールたちの分も、絶対に諦めない……!」
ミリアムは、震える声で、しかし強い意志を込めて言った。
カケルは、ミリアムの言葉と、その変化に驚きつつも、静かに頷いた。
「ああ。その通りだ。まだ終わっていない」
彼は、自身の思考を切り替え、冷静に現状を分析し始めた。
「ノア、通信は回復したか?」
カケルが尋ねた。
ノアは、必死にコンソールを操作していたが、首を横に振った。
「だめだ、カケル。私兵たちの妨害電波が強すぎる。この深度では、外部との通信は完全にブロックされている。本部への連絡も、ホープウィスパー号との連携も、今は不可能だ」
「くそっ、孤立無援ってわけか」
イヴァンが、荒々しい声で呟いた。彼の顔には、疲労と、そして怒りが入り混じっていた。
エミリーは、静かに潜水艇の外部環境モニターをチェックしていた。
「私兵たちの艇は、まだ周囲にいるわ。私たちの動きを監視している。このままでは、脱出も難しい」
その言葉に、ミリアムの顔色が変わった。彼女の耳には、私兵たちの艇から発せられる「監視の音」が、より鮮明に聞こえていた。それは、獲物を追い詰める捕食者のような、冷酷で執拗な「音」だった。そして、その「監視の音」の奥から、別の「音」が聞こえてきた。
「何か……私兵たちの艇から、変な音がする……」
ミリアムは、眉をひそめた。
「なんか、地面を掘るような……ガリガリ、って……」
カケルは、ミリアムの言葉にすぐさま反応した。
「掘る音だと?何をしているんだ?」
ノアは、ミリアムの言葉を手がかりに、ソナーを広範囲に展開した。そして、彼のモニターに、驚くべき光景が映し出された。私兵たちの高速艇が、不法投棄施設とは別の地点で、海底に向かって何らかの作業を行っているのだ。その場所からは、ミリアムが感知した「掘削音」と、より大規模な「悪い音」が発せられていた。
「これは……私兵たちが、別の場所で、海底を掘削している!そして、その先には……!」
ノアの声が、興奮と困惑に染まる。
「新たな大規模廃棄物投棄場の痕跡が!しかも、ここから放出されているのは、先の『ポリ・炭素酸トリウム』とは異なる、さらに強力な汚染物質だ!」
カケルは、その情報に絶句した。
「二箇所目だと!?しかも、さらに危険な物質を投棄しているというのか!?」
ミリアムの耳には、その新たな廃棄物投棄場から放たれる「音」が、まるで生き物のように蠢く、おぞましい「腐敗の音」として聞こえていた。それは、海そのものを死滅させようとする、悪意に満ちた「音」だった。
「だめ……!あの『悪い音』を止めなきゃ……!このままだと、この海が全部……死んじゃう!」
ミリアムは、顔を歪めて叫んだ。彼女の「空間認識能力」は、その「音」から、アクエリアの海洋生態系が、秒単位で崩壊していく様を鮮明に感じ取っていた。
イヴァンは、怒りに燃える目をノアのモニターに向けた。
「まさか、隠し場所を複数用意してやがったのか!とことん悪質だぜ!」
エミリーは、冷静に状況を判断した。
「私兵たちは、私たちを始末した後、この新しい投棄場で証拠隠滅を行うつもりだったのでしょう。私たちが見つけた最初の施設は、 デコイだったのかもしれないわ」
「つまり、私兵たちは、俺たちを完全に沈黙させ、この新たな投棄場での作業を完遂するつもりだったということか……!」
カケルの目に、強い怒りが宿った。
「許さない……絶対に許さないぞ、ガスクロス産業……!」
彼らは、絶望の淵から、わずかな希望を見出したばかりだった。しかし、その希望を打ち砕くかのように、さらなる悪意が彼らの前に立ちはだかったのだ。
ルミナス・ホエールの犠牲は、決して無駄にしてはならない。ミリアムの覚醒した能力は、彼らに新たな敵の存在、そしてより深刻な状況を突きつけた。
「カケル、どうする!このままじゃ、本当に全てが終わる!」
ノアの声が、切迫する。
マリンスワローは動かない。外部との通信も途絶えている。私兵たちはすぐそこにいる。そして、新たな汚染源が、アクエリアの美しい海を、刻一刻と死へと追いやっていた。彼らは、絶体絶命の窮地に立たされていた。