10.絶対絶命
マリンスワローの内部に重苦しい沈黙が満ちる中、カケルの脳裏には、ルミナス・ホエールたちの弱々しい光と、ミリアムの切迫した表情が交互に浮かんでいた。法と生命、どちらを優先すべきか。
GRSIのエージェントとして、法を破ることは許されない。しかし、目の前で命が消えゆくのを黙って見過ごすこともまた、彼らの信条に反する。
その時、ノアのコンソールから新たなアラートが鳴り響いた。
「緊急警報!接近する高速艇を確認!数隻、すべてステルス機能搭載……識別コード不明だが、これは……!」
ノアの声に焦りが混じる。彼のモニターには、マリンスワローに猛烈な速度で接近する複数の光点が映し出されている。
「ステルス艇だと!?こんな深海で一体誰が……!」
イヴァンが叫ぶ。その声には、怒りよりも驚きが勝っていた。
エミリーは、素早く状況を分析する。
「ガスクロス産業の私兵よ。私たちがここまで深くまで潜ったことを察知したのね。証拠隠滅に来たんだわ」
彼女の表情は、一瞬にして冷徹なプロのそれに変わっていた。
「くそっ、見つかったか!」
カケルは操縦桿を強く握りしめた。彼らは、法的な許可を待つ間にも、すでに危険に晒されていたのだ。
ミリアムは、その高速艇から放たれる「音」を捉えていた。それは、金属が擦れ合うような不快な「音」と、無数の「殺意」が混じり合った、冷酷な「音」だった。彼女の耳には、その「殺意の音」が、ルミナス・ホエールたちの「苦痛の音」と重なって聞こえ、さらなる精神的な負担をかけていた。
「くる……!たくさんの、悪い音……!ホエールたちを……ホエールたちを、もっと傷つけようとしてる……!」
ミリアムは、再び顔を歪めて呻いた。
マリンスワローの外部ライトが、暗闇の中から突如現れた高速艇の影を捉えた。それは、最新鋭の小型潜航艇で、船体にはガスクロス産業のロゴが描かれている。武装されており、マリンスワローよりも機動性に優れているように見える。
「まさか、ここまで追ってくるとは……!」
カケルは、油断していた自分を責めた。
高速艇の一隻が、マリンスワローのすぐ横をすり抜け、その直後、強力なソナーパルスを放ってきた。マリンスワローのセンサーが一時的に麻痺し、通信が途絶する。
「ソナー妨害だ!通信もブロックされた!」
ノアが叫んだ。
「奴らは、俺たちを完全に孤立させるつもりだ!」
「ちくしょう、本当にやる気か、こいつら!」
イヴァンが怒りを露わにする。彼は、マリンスワローの防御シールドの状況を確認し始めた。
エミリーは、静かに自分のライフルを構えた。潜水艇の外部マニピュレーターに接続された特殊な水中銃だ。
「向こうは、私たちを始末する気満々よ。遠慮はいらないわね」
高速艇は、マリンスワローの周囲を取り囲むように展開し、攻撃態勢に入った。光の粒子が飛び交い、水中ミサイルの発射音のような、低く重い「音」がマリンスワローの船体まで響いてくる。
「ミサイル発射!直撃コースだ!」
ノアが警告する。
カケルは、冷静にマリンスワローを操作し、間一髪でミサイルを回避した。しかし、続くミサイルが潜水艇の側面をかすめ、衝撃が走る。
「船体に損傷!シールドが限界だ!」
ノアの声が切迫する。
ミリアムは、ホエールたちの「悲鳴」と、私兵たちの「殺意」の「音」の狭間で、もはや呼吸もままならない状態だった。彼女の能力が覚醒したことで、これらの「音」が以前にも増して鮮明に、そして直接的に彼女の神経を刺激するのだ。まるで、彼女の心が、この深海の全ての苦しみと悪意を吸収しているかのようだった。
「だめ……!ホエールたちが……ホエールたちが、また苦しみ始めてる……!」
ミリアムは、外部マイクを通して放っていたはずの歌声も途絶え、弱々しく訴えた。私兵たちの攻撃によって生じる衝撃波が、ホエールたちの神経を再び刺激し、彼らの体から放たれる光が、再び歪み始めているのが見えた。
「くそっ、このままじゃホエールたちまで巻き込まれる!」
イヴァンが歯ぎしりをする。
エミリーは、窓の外を冷静に観察していた。
「私兵たちの狙いは、私たちだけでなく、ホエールたちも排除すること。証拠隠滅と目撃者抹殺の両方よ」
カケルは、操縦桿を握る手に力を込めた。彼らは、単に自分たちの身を守るだけでなく、ルミナス・ホエールたちをも守らなければならない。しかも、相手は武装したプロの兵士だ。そして、時間がない。このままでは、ホエールたちは汚染と攻撃の板挟みになり、絶滅してしまうだろう。
ミリアムの感覚が、悲鳴を上げ続けている。ホエールたちの「絶望の音」と、私兵たちの「冷酷な破壊の音」が、彼女の精神を深く蝕んでいく。彼女は、せっかく鎮めたホエールたちが、再び苦しみに沈んでいくのを、その「音」を通して鮮明に感じていた。彼女の覚醒したばかりの能力は、まだ完全にコントロールできるものではなく、この状況では、彼女自身を最も脆弱な存在にしていた。
チームYは、まさに絶体絶命の危機に瀕していた。法的な介入もままならず、時間もない。そして、目の前には、私兵たちの攻撃と、再び狂い始めるルミナス・ホエールたちの猛威が迫っていた。




