優しいミリアム
セントラル・オービタル、GRSI本部。広大なメインフロアの片隅に設けられたチームYの執務室は、常に最新鋭の機材がうなりを上げ、データが光の速さで飛び交う、緊張感に満ちた空間だ。
いくつもの大型モニターには、銀河の最新情勢、犯罪予測モデル、そして次なる任務のデータが絶えず更新され、サイバーセキュリティの天才ノア・ブラウンが指を休めることなくキーボードを叩き、情報の波を乗りこなしている。
その隣では、百発百中の狙撃手エミリー・ガルシアが、ホログラムディスプレイに映し出された標的の仮想訓練に集中し、完璧なフォームで銃を構えていた。
鍛え上げられた肉体を持つ格闘家イヴァン・ロストフは、壁際でシャドーボクシングを繰り返し、その度に空気を震わせる。
そして、チームのリーダー的存在であるカケル・カツラギは、部屋の中央で組まれたテーブルに広げられた複雑な星系図を前に、鋭い視線を巡らせていた。
そんな、いかにもGRSIのエージェントチームらしい、張り詰めた空気の中、ミリアム・ホロウェイの姿は、まるで異質な絵画のように浮かび上がっていた。
彼女は、部屋の隅に置かれた、ごくありふれた強化プラスチック製の水槽の前にしゃがみ込んでいた。水槽の中には、鮮やかな青と赤の体色を持つ、小さな熱帯魚が二匹、ゆらゆらと尾ひれを揺らして泳いでいる。任務とは全く関係のない、ごく個人的な癒やしの空間だ。
「うん、うん、大丈夫だよ。新しいお水、気持ちいい?」
ミリアムは、水槽に顔を近づけ、優しい声で語りかけた。まるで、魚が彼女の言葉を理解しているかのように。彼女の瞳は、熱帯魚のわずかなひれの動き、泡が水面で弾ける微細な音、水の流れが作り出すかすかな渦に、真剣なほどに集中していた。彼女の口元には、魚の気持ちが手に取るようにわかるかのような、柔らかい笑みが浮かんでいる。
カケルは、そんなミリアムの様子をちらりと見て、苦笑いを浮かべた。
「ミリアムはいつも動物と話してるみたいだな。魚の気持ちが分かるのか?」
彼の言葉は、半分冗談、半分は不思議そうに問いかける響きだった。
ミリアムは振り向かず、水槽の魚に語りかけ続けていた。
「うん、分かるよ。この子たちは、ちょっと退屈してるんだって。もっと広いお家があったらいいのに、って言ってる」
イヴァンがトレーニングの手を止め、大きな体を揺らしてミリアムの隣に立った。
「おいおい、冗談だろ、ミリアム。魚がそんなこと言うわけねえだろうが」
ミリアムは、イヴァンの言葉にも動じることなく、首を傾げた。
「え?だって、そう聞こえるもん。イヴァンには聞こえない?」
イヴァンの額に青筋が立った。
「聞こえるわけねえだろ!俺には腹の虫が鳴く音しか聞こえねえよ!」
エミリーが、冷静な声で口を挟んだ。
「ミリアムのそういうところは、私たちには理解できない感覚ね。でも、彼女の直感は侮れないわ」
彼女は、ミリアムの持つ、まだ明確には言語化されていない「素質」を、チームメイトとして経験的に理解していた。
ノアは、モニターから目を離さずに、データ的な視点から分析を試みる。
「理論的には、生物が発する超微細な振動や電磁波を、特定の周波数で捉えている可能性は否定できないが……」
彼の言葉は、無機質でどこか現実離れしている。
カケルは、星系図から顔を上げ、ミリアムに向き直った。
「ミリアムは本当に優しいな。でも、宇宙はそんな優しい場所じゃない。時には厳しい判断も必要だ。俺たちの仕事は特に」
ミリアムはゆっくりと立ち上がり、水槽の魚にもう一度視線を送ってから、カケルに振り返った。その顔は、いつもの明るさを保ちながらも、どこか真剣な響きを帯びていた。
「でも、命あるものはみんな、何かを伝えようとしてるんだよ、カケル。私たちには聞こえないだけで、きっと色々な『音』がそこにはあるんだ。そして、助けを求めている『音』もある。それを見過ごすのは、私にはできない」
彼女の言葉は、まるでどこか遠い未来の出来事を予見しているかのように聞こえた。
GRSIの執務室は、相変わらず最新鋭の機材のうなりと、データの飛び交う音が響き渡っていた。その喧騒の中で、ミリアムの耳には、熱帯魚たちの微細な「退屈の音」が、そしてまだ誰も知らない、遠い宇宙の片隅で苦しむ生命たちの「悲鳴の音」が、かすかに、しかし確実に響き始めていたのかもしれない。