傲慢王子に『子豚になぁれ』をかけたら足元にひれ伏すペットになった
私の名前はキルケ・シュヴァルツヴァルト。
由緒正しき侯爵家の長女であり、王立魔法アカデミーを主席で卒業。
周囲は私のことを『百年の一度の才能』だとか、何かと褒めそやす。
自分でも、魔法に関する才能が人より抜きんでている自覚はあった。
教科書に載っている魔法は一度見れば再現できた。
そんな私の優秀さが、どうやら王家のお歴々の目に留まったらしい。
第一王子のエドワード・エルムガルド殿下との婚約が決まってしまった。
アカデミーを卒業すると同時のことだ。
私の魔法の才能を王家に取り込むという、分かりやすい政略結婚だった。
私に否やはない。
家のための結婚は当然の義務だと理解していた。
それに、婚約者であるエドワード殿下は、絵画のような美丈夫。
陽の光を浴びて輝く金色の髪に、空の色を映したような青い瞳。
素敵な人であれば、穏やかで幸せな結婚生活が送れるだろう。
……そう、思っていた時期が、私にもありました。
初めての顔合わせの日、殿下は私を一瞥し、氷のように冷たい声で言い放つ。
「お前がキルケか。なるほど、いかにも魔女といった陰気な顔をしている」
……は?
魔女? 陰気?
あまりの言い草に、私は言葉を失った。
たしかに、殿下のようにキラキラと輝くオーラは私にはないかもしれない。
けれど、社交界でも私の容姿を貶す人間など、これまで一人もいなかった。
彼の私に対する敵意は、それだけでは終わらなかった。
「こんな魔法だけの女と結婚するつもりはなかった。父上の命令でなければ、お前のような女、未来永劫関わることすらなかっただろう」
「政略上、結婚はしてやる。だが、勘違いするなよ。私がお前を愛するつもりは、一切ない」
次から次へと繰り出される暴言の数々。
その瞳には、私に対する明確な嫉妬と侮蔑の色が浮かんでいた。
――なるほど、理解した。
彼は、自分より優秀だと謳われる女が気に入らないのだ。
王家の人間として、常に自分が一番でなければ気が済まない。
ちっぽけなプライドの塊。
私の淡い期待は、木っ端みじんに砕け散った。
それからというもの、殿下との関係は最悪の一言に尽きた。
義務的なお茶会では、私が話しかけても無視。
夜会でダンスに誘えば、「お前と踊るなど時間の無駄だ」と吐き捨てる。
彼の態度は、王宮中の知るところとなる。
私はいつしか『王子に疎まれる可哀そうな婚約者』として、同情と嘲笑の的になる。
(……腹立たしい)
そんな日々が続いていたある日のこと。
王宮の廊下で、ばったりとエドワード殿下と出くわした。
私が淑女として礼をすると、彼は鼻で笑い、決定的な一言を私に告げた。
「ああ、そうだ、キルケ。お前に言っておくことがある」
「……何でございましょうか、殿下」
「結婚したら、早々に美しい側室を娶るつもりだ。もちろん、子もそちらに産ませる。お前は飾り物の妃として、離宮で基本的に放置することになるだろう。せいぜい、得意の魔法研究でもして過ごすがいい」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、ぷつり、と何かが切れる音がした。
(……放置? 側室?)
今まで抑えに抑えてきた怒りが、マグマのように沸点を超える。
顔に貼り付けた笑顔が、ひび割れていくのが自分でも分かった。
目の前の男は、私をどこまで愚弄すれば気が済むのだろうか。
(……もう、いいわよね?)
私はすっと表情を消し、心の中で新しい魔法の術式を組み立てる。
それは、最近私が個人的な趣味で開発した、前代未聞の変身魔法。
術式は完璧。あとは、発動のきっかけだけ。
私はゆっくりと顔を上げ、エドワード殿下の青い瞳をまっすぐに見つめた。
そして、にっこりと、今までの人生で一番愛らしい笑みを浮かべてみせる。
言葉の代わりに、私はそっと指を鳴らした。
パチン、と乾いた音が廊下に響く。
殿下は一瞬きょとんとした顔をした。
まさか自分が魔法をかけられたとは思わない。
「……ふん、不気味な女だ。ではな」
彼は忌々しげに言い残し、さっさとその場を立ち去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は静かに微笑む。
(せいぜい、反省なさってくださいませ、王子様)
『子豚になぁれ』
私の小さな呟きは、誰の耳に届くこともなく、静寂に溶けていった。
◇◇◇◇
翌朝。
王宮は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「王子が……エドワード王子が、忽然と姿を消された!」
きっかけは、殿下の侍従が主を起こしに寝室へ入ったことだった。
そこに王子の姿はない。
代わりにベッドの真ん中で、一匹の子豚がすやすやと寝息を立てていたという。
「何かの冗談か!?」
「昨夜、不審な者の侵入はなかったはずだ!」
「まさか、誘拐……!?」
近衛騎士たちが城中を駆け回り、侍女たちは噂話に花を咲かせる。
しかし、いくら探しても殿下の姿は見つからず、謎は深まるばかりだった。
そして、問題はベッドの上に残された、その小さな子豚の処遇だった。
王子の失踪と、寝室に現れた子豚。
この二つの出来事を結びつけられる者は、王宮には一人もいなかった。
それもそのはずだ。
人を獣に変える魔法など、この国の歴史上、一度も確認されたことがない。
それは禁呪ですらなく、おとぎ話の中にしか存在しない、空想の産物。
若干十八歳の侯爵令嬢が、趣味の研究でそんな前代未聞の魔法を開発した……
などと、誰も想像できるはずがなかった。
したがって、私が疑われることは一切ない。
捜査は、王子の誘拐、あるいは自発的な失踪という線で進められることになった。
王宮の大会議室では、国王陛下と側近たちが、子豚の処遇について頭を悩ませていた。
「ええい、気味が悪い! さっさと城から追い出してしまえ!」
「お待ちください! もしや、この豚が王子の行方を知る唯一の手掛かりやもしれませんぞ!」
「馬鹿を申せ! ただの畜生が手掛かりとなるか!」
「しかし、あまりにもタイミングが良すぎます……」
議論は平行線を辿るばかり。
その様子を、私は婚約者として末席から静かに眺めていた。
すべて、私の計画通りだ。
ざわめきが最高潮に達したその時、私はすっと立ち上がり発言した。
「その子豚……もし、万が一にも、それが殿下ご本人だとしたら……」
私の言葉に、誰もが息を呑んだ。
――ありえない。
そう思いながらも、誰もその可能性を完全に否定できないでいた。
「もちろん、そのような奇跡、あるいは呪いがあるとは、私にも信じられません。ですが……」
私はそこで言葉を切り、そっと胸に手を当てる。
「婚約者として、殿下の身を誰よりも案じております。どのような可能性も、私は見過ごしたくはございません。ですから、どうか……その子を、私にお預けいただけないでしょうか」
私は続けた。
「これは、もしかしたら王子かもしれないのです。だとしたら、婚約者である私が責任を持って、身の回りのお世話をさせていただきたいのです。それが、殿下を待ち続ける私の、せめてもの務めでございますから」
私の健気で献身的な申し出に、会議室の空気は一変した。
あれほど私を疎み、公然と恥をかかせていた王子。
その彼が姿を消したというのに、どこまでも彼を信じ、愛そうとする婚約者の姿。
『婚約者が行方不明になった、あまりにも可哀そうな薄幸の令嬢』
周囲の目には、私がそう映ったらしかった。
「おお、キルケ嬢……なんと健気な……」
「殿下は、これほど素晴らしいご婚約者をお持ちだったというのに……」
「うむ……キルケ嬢のその忠誠心、見事である」
国王陛下までもが、私の言葉に深く頷いている。
こうして、私の芝居は見事に成功した。
誰もが私に同情し、その申し出を褒め称えた。
かくして、エドワード殿下だった子豚は、正式に私の元へと引き渡されるのだった。
◇◇◇◇
侯爵家の私の自室。
王宮から連れ帰った子豚を絨毯の上にそっと降ろす。
扉を閉め、侍女たちが完全に下がったことを確認する。
私は今まで貼り付けていた悲劇のヒロインの仮面をかなぐり捨てた。
すぅ、はぁ……と深呼吸を一つ。
私は勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「さて、王子様。こんなお姿になられて、今のお気持ちはいかがかしら?」
ぶひっ、と子豚が驚いたように鳴く。
その瞳には、間違いなく知性が宿っていた。
――ああ、やはり言葉は通じるようだ。
私は絨毯に膝をつき、子豚と視線を合わせるように屈み込む。
「元に戻りたければ、私への無礼な扱いを、心の底から反省すべきでは?」
子豚――エドワード殿下は。
そんな私の言葉に、プライドの高い彼らしく、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
その態度は、人間の頃と変わりない。
「あら、まだその傲慢な態度が抜けないのね。結構です」
私は立ち上がり、子豚用の美味しそうな餌が入った皿を手に取る。
湯気の立つ温かな野菜のポタージュに、栄養満点の穀物を混ぜた特製品だ。
くんくん、と子豚の鼻が動く。
お腹が空いているのだろう。
「残念ですが王子様、ご飯は悪い子には、あげられないのです」
私はにっこりと微笑み、餌の皿を高く持ち上げた。
子豚が「ぶひぃ!?」と抗議の声を上げる。
「ちゃんと『いい子』であることを、私にアピールなさいませんと。そうでなければ、このご飯はわたくしが美味しくいただきますわ」
そう言って、私は一口すくい、わざとらしく「んー、おいしい」と口にした。
子豚は信じられないという顔で私を見上げ。
短い足でぴょんぴょんと跳ねるが、当然届くはずもない。
……それから、丸一日。
私は彼に一切の餌を与えなかった。
最初は気高く振る舞っていた王子も、二日目にもなると、空腹には勝てなかったらしい。
私が部屋に入ると、よろよろと駆け寄ってきて、足元にすり寄ってきた。
「あら、どうかなさいましたの? 王子様」
ぶひ、ぶひぃ……
彼は何かを訴えるように鳴きながら、私の足に頭をこすりつける。
その姿は、人間の頃の傲慢さが嘘のように、哀れで、そして……。
(……あら?)
なんだか、ちょっとだけ、可愛いかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
私はしゃがみ込み、彼の頭をそっと撫でてみる。
ぴくっ、と体を震わせた後、彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふ、やっと素直になる気になりましたのね」
私は餌の皿を彼の目の前に置く。
彼はがっつくように皿に顔を埋め、夢中でご飯を食べ始めた。
「待って。まだ許したわけではありませんわ」
私がそう言うと、彼はびくりと動きを止め、不安そうに私を見上げた。
その潤んだ瞳は、まるで黒い宝石のようだ。
「……そうね。何か、芸でも披露してくだされば、考えて差し上げなくもなくてよ?」
ぶひ!?
彼は心底驚いたように後ずさる。
この国の第一王子である自分が、芸などと、全身で訴えていた。
「あら、嫌ですの? では、このご飯はまたお預けですわね」
私が皿を引こうとした、その時だった。
彼は意を決したように、ちょこんとその場にお座りをしたのだ。
ぎこちないながらも、前足を揃え、背筋を伸ばして。
「…………」
私は思わず、息を呑んだ。
そして。
(わああああ、めっちゃ可愛い……!)
なんだこの生き物は。
プライドを捨てて必死にお座りする姿。
人間の時の百倍は愛らしい。
私はたまらず、彼の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「よろしい! よくできましたわ、王子様! さあ、どうぞ、たくさんお食べなさい!」
ぶひぶひと嬉しそうに鳴きながら、再び食事にありつく子豚。
無防備な姿を見つめる。
これは、面白いことになってきたかもしれない。
◇◇◇◇
それからの日々。
『エサが欲しければ芸をする子豚』と『それを愛でる私』
奇妙な主従関係が、私たちの間にすっかり定着したのだ。
朝、私が目覚めると、彼はとてとてと駆け寄ってくる。
そして、私の一日の始まりを祝うかのように、覚えたての芸を次々と披露するのだ。
「お手」と言えば、ちょこんと小さな前足を私の手のひらに乗せる。
「おかわり」と言えば、もう片方の足を。
そのたびに、私は「まあ、天才!」と、手放しで彼を褒める。
フルーツや温かいミルクといった餌を与えた。
エドワード殿下は、最初は不満げだった。
しかし、私の喜ぶ様子を見て、次第に芸をすることに喜びを見出し始めた。
私が少しでも機嫌を損ねたように見えると、慌てて駆け寄ってくる。
鼻先をすりつけたり、覚えた芸を自主的に披露して、私の気を引こうとする。
その姿に、もはや人間の頃の傲慢な王子の面影など残っていなかった。
「エド、今日のドレスは似合うかしら?」
いつしか私は、彼のことを「エド」と愛称で呼ぶようになっていた。
私がそう問いかけると、彼は力いっぱい「ぶひっ!」と鳴いて、ぶんぶんと尻尾を振る。
まるで「世界で一番お美しいです」と言ってくれているかのようだ。
(ああ、可愛いわね……)
私はすっかり彼に夢中だった。
彼のために子豚用のオーダーメイドの服も注文した。
レースのついたタキシード風のベストや、小さな王冠の飾りがついた帽子。
それらを着せて、きょとんとした姿をスケッチするのが新たな日課になった。
そんなある日、私は自室のテラスで膝の上のエドを撫でながら、ふと思った。
(あれ……? もしかして、エドはこのまま子豚の方が、ずっと可愛くて愛せるんじゃないかしら……?)
人間の頃のエドワード殿下。
私を侮蔑し、傷つける言葉ばかりを投げつけてきた、あの冷たい瞳の男。
彼と結婚して、愛のない離宮で一生を過ごす未来。
それに比べて、今の生活はどうだろう。
私の言葉に一生懸命耳を傾け、私を喜ばせようと必死の小さな生き物。
何の計算も裏表もなく、ただ純粋な好意を全身で示してくれる。
(魔法、解かない方が幸せかも……)
私の指先が、ぴたりと止まる。
膝の上のエドが、不思議そうに「ぶ?」と鳴いて私を見上げた。
そのつぶらな瞳を見つめ返しながら、私はゆっくりと微笑んだ。
「大丈夫よ、エド。あなたは、ずっと私のそばにいればいいの」
私がそう囁くと、彼は安心したように、私の手にそっと頭をこすりつけた。
◇◇◇◇
結局、エドワード王子が元の姿に戻ることができたのか。
その答えは、イエスであり、ノーでもあった。
あの日、私が新しいポーションの調合中にくしゃみをした拍子。
調合中の魔力が暴発し、足元で丸まっていたエドの体に吸い込まれてしまった。
次の瞬間、ポンッという間の抜けた音と共に、裸の男が出現した。
「……え?」
金色の髪、青い瞳。
それは紛れもなく、元・婚約者のエドワード殿下だった。
彼は自分の手足を見つめ、それから呆然と私を見上げた。
――さあ、どう出るか。
私は冷静に彼の反応を待つ。
ここで彼が昔の傲慢さを少しでも見せるなら、今度はカエルにでも変えてやろう。
しかし、彼の口から出たのは、予想外の言葉だった。
「き、キルケ……! ご、ごめん、今すぐ服を着るから、嫌いにならないでくれ……!」
その瞳は恐怖と懇願に潤んでいた。
子豚だった頃、私が機嫌を損ねるたびに見せた、あの表情そのものだ。
(あらあら……)
どうやら、体は人間に戻っても、心はすっかり私の可愛い「エド」のまま。
私はゆっくりと彼に近づき、その頬にそっと手を添えた。
「殿下。いいえ、エド。あなたはどうすれば私に愛されるか、もうお分かりのはずですわよね?」
こくこくと、彼は子犬のように何度も頷く。
「よろしい。では、私たちの婚約は継続しましょう。その代わり……あなたは生涯、私だけの『いい子』でいることを誓いなさい」
「は、はい!喜んで!」
こうして、エドワード王子は王宮へと帰還した。
もちろん、以前の彼とはまるで別人だ。
私の言葉には絶対服従。
常に私の顔色をうかがい、どうすれば私が喜ぶかを考えて行動する。
「王子は失踪の間に改心され、キルケ様を深く愛するようになられたのだ」
周囲は感動しているが、真実は私と彼だけが知っている。
「ねえ、エド」
「はい、キルケ」
ある日の夜会で、私はそっと彼の耳元で囁いた。
「『お手』」
一瞬、彼の顔が赤く染まる。
しかし、彼はすぐに嬉しそうに微笑むと、恭しく私の手を取り、その甲にキスをした。
「……よくできました。ご褒美をあげますわ」
私は彼の唇にそっとキスを返す。
彼は子豚の頃のように、蕩けるような表情でそれを受け入れた。
どうやら私たちの倒錯した幸せな日々は、まだまだこれから長く続いていきそうだ。