酒でも飲んで散歩しよう
「くそっ」
そう吐き捨てて真田智也は缶ビールを卓袱台に叩き付けた。
卓袱台と缶ビールが接触する乾いた音。テレビ画面からは歓声が響く。真田はリモコンに手を伸ばしてテレビの電源を切った。
ワンルームの部屋が静寂に落ち込んだ。
真田智也は苛立っていた。仕事終わりにつまみと缶ビールを買い、それに舌鼓を打ちつつテレビでプロ野球を観戦していた。今日は真田が贔屓にするチームー中央ヘビゴンズーの、好きな投手が登板する試合だった。4回表まで無失点の投球を続けており、またチームもコツコツ安打を重ねて1点リードしていたのだが、5回表の先頭打者にフォアボールで出塁を許すと、ヒットで繋がれスリーランホームランを打たれてしまった。スコアは1-3。2点差ならまだまだ勝敗は不明だが、中央ヘビゴンズは貧打で有名であり、2点ビハインドで後半戦に入ると敗色濃厚に思えた。
真田はワンルームの白い天井を見上げて、ふうと息を吐いた。苛立つ心を落ち着けると、夕食の片付けを始める。座椅子から立ち、ベランダの窓を開ける。飲み干した缶ビールをベランダのゴミ袋に入れて窓を閉める。机に広がった皿をシンクへ運ぶ。洗い物は明日に回すか、と考えたが、洗い物を溜めるとワンルームの部屋はすぐに匂いが溜まる。仕方ない、と考え直し、スポンジに洗剤を落として洗い物を始めた。面倒くさいと思いながらも、一人分の洗い物は存外すぐに終わってしまう。
観戦を再開するか、と真田は机に置かれたリモコンを手に取ったが、気は進まなかった。
負け試合を見てもストレスが貯まるだけだ。ヘビゴンズが逆転できるとは思えない。世の中にはどうしようもない事があるものだ、と妙に達観した気分に陥った真田は、手に取ったリモコンを机に置きなおした。
そのまま玄関へ向かう。散歩でもしたい気分だった。
真田が玄関の扉を開けると、夜風が頬を撫でた。アルコールに火照った体がすっと冷えて、気分がいい。そのまま階段を下りてアパートを出た。
真田の住むワンルームアパートは住宅街の中にある。従って目的地は特になかった。真田は歩きながら、夜の公園やコンビニに行こうかと考えたが、近くにないから諦めた。とはいえ目的地がないと散歩に張り合いがない。真田はしばし立ち止まり肩を回して逡巡し、またすぐに歩き始めた。
自販機で飲み物を買ってこよう。
目的地が決定し、真田は夜の街を歩き始めた。
外灯に照らされた歩道を進む。時折車道を通る車のヘッドライトが真田の体をさっと照らし、すぐに通り過ぎていく。ある一軒家の前を通ると香ばしい匂いが真田の鼻をくすぐった。時刻は20時、家庭によっては夕飯時であった。またあるアパートを通ると、今度は生臭い匂いが鼻をついた。真田が顔をしかめてそちらを見ると、アパート脇の側溝にゴミが詰まっていた。誰か掃除しないのかな、と疑問に思いつつ真田は歩みを止めなかった。
真田の住む町は都会ではない。かといって田舎でもなく、歩いていても田畑は見られず、塗装された歩道と道路が続き、それに沿って一軒家やアパート、マンション等の住宅が並ぶ。外灯も数メートルごとにあり、夜でも歩くのに苦労はしなかった。もっとも、真田自身が酔っていたためその足取りは少々覚束なかった。
体を動かすと、アルコールが体全体に回るものだ。真田は玄関を出た時こそそれほど酔ってはいなかったが、足を動かす内にアルコールがほどよく体に満ちていった。心地よい酔いとたまに吹く夜風の冷たさに真田は気分が良くなった。いい気分だ、と自覚した途端、不意に先程の光景が頭を過ぎり、また気分が落ち込む。贔屓の投手が打たれたシーン。勝っていたはずなのに、という後悔。その後悔は呼び水となり、今日の仕事の記憶を思い出させる。真田は仕事で小さなミスをした。取り返せないミスではなかったが、ミスをした自分を責める気持ちは抑えられなかった。
人生は思い通りにならないことばかりだ。と真田は思った。
暗い気持ちを引きずりつつ自販機の前までたどり着いた。真田は何を飲もうかと選んでいる内に、自らの決定的なミスに気付いた。
財布を持ってきていなかった。
真田は度重なるミスに深い溜め息をついた。
溜め息をつきつつ、ふと自販機の釣銭の返却口に手を忍ばせた。誰かが釣銭を忘れている可能性がある。
まあないだろうがと思いつつ手で弄ると、手の平に硬貨の感触があった。それを握り、返却口から手を引いて目の前で手の平を広げる。
100円硬貨が3枚に10円硬貨が4枚。340円。
真田の頬が綻ぶ。まさか本当に釣銭が残されているとは予想していなかったのだ。これは僥倖だ、と悦びつつ。
真田は硬貨を返却口に戻した。
それを使う気になれなかった。
真田は特に清廉潔白な人間ではない。前科こそないが道端で拾った硬貨をくすねた経験もあったし、万引きを犯した友人を傍観したこともあったし、信号無視や駐車違反の経験もあった。
しかし真田は今さっき手に取った硬貨を返却口へと戻した。それを今使うのは、不誠実に思えたからだ。
何に対して不誠実なのかは真田にも分からなかった。
「きみ、偉いじゃないか」
背後から声をかけられ、真田は振り向いた。
「コーヒーを買ったんだが釣銭を取るのを忘れてしまってね。参ったよ」
真田に声をかけたのは中年の男だった。彼は真田が自販機に残された釣銭を手に取りながらそれを戻した一部始終を見ていたらしかった。
「どうかな。飲み物を奢ってあげよう」
中年は微笑みながら真田に話しかけたが、真田はそれを断った。
「大丈夫です」
「なぜかな。奢ると言っているのに」
不満げに眉を顰める中年に、内心で申し訳ないと思いながらも真田は言った。
「それは、筋が通っていないと思うのです」
中年は要領を得ない様子で固まっていた。真田は何となくいたたまれなくなり、その場を立ち去った。
自分でもなぜ断ったのか判然としなかった。
真田は家に帰ると、半ば無意識にテレビの電源を付けた。しかし、贔屓のチームが負けていたことを思い出して再び電源を消そうとしたところでアナウンサーの声がワンルームに響いた。
「ゲームセット!4対3で中央ヘビゴンズ逆転勝利です!」