ビニールのベッド
千歳がある時、部屋から姿を消した。このころになると千歳は鍵をかけるという習慣もいつも間にか失われていて、部屋の扉は半ば開いていたままのことが多くなっていた。ボタンを押して彼を呼ぶこともなく、いつのころからか食事を届けに現れるのが当たり前になっていた。口数こそ少ないが、初めて出会ったころに比べると、はるかに警戒心はなくなっているようだった。
彼はいつものように朝食の有無を尋ねるため千歳のいる部屋に向かった。しかし、いつもと何かが違うと感じさせるのは、大きく開かれた部屋の扉。中を覗くとそこには誰もいなかった。静まり返った部屋のソファーには、八月朔日が貸していた服がへたくそに畳まれて置いてあった。
「このタイミングで出ていくとはな。」
心の中でそうつぶやいた。彼は手を顔に当て、にやける口元を隠した。
「まぁいいだろう。」
彼は誰もいない部屋に入り、テーブルの上に置かれた昨晩の食器を片す。彼の表情はまるで、千歳の行動が予想の範囲内だったのかのような余裕を見せていた。千歳がいなくなったこの部屋を名残惜しむ姿もなく、部屋を後にした。彼が外の世界で生き延びられる可能性は低い。戻ってくるか、野垂れ死ぬか、それ以外の道はないだろう。もし彼が戻ってきたとしてもきっと、「商材」としかなり得ない。そんなことを考えながら薄暗い廊下に立ち尽くし、再び声を出して笑った。
千歳がいなくなってから約一か月がた経った。部屋が空になったあの日から、八月朔日は特に気にすることもなく日常を過ごしていた。千歳の存在が空気に馴染んでいた日々も、いざいなくなったところで彼には何の影響も与えなかった。特別な存在だと思っているようにも見えたが、きっとその程度だったのだろう。八月朔日は何事もなかったように溜まったごみを車に積み込んでいた。
「もう他にないだろうか。」
「この一つで最後だ。」
大きなごみ袋を外まで運ぶのを手伝っていた氷沼が、車にそれを乗せて答えた。
八月朔日は彼に感謝すると運転席に乗り込み、ゆったりと走り出した。ごみであふれかえったリアガラスが遠くなるのを眺めていた氷沼の表情には、どこか心配を含んでいるようだった。
都市環境廃棄施設、第七焼却場。一般のごみ処理場では対応できない廃棄物を処理してくれる契約型施設で、この第七焼却場が一番規模も大きく、治安が悪い。契約はかなり高価だが、八月朔日はこの施設を利用している。遠くに見える第七焼却場の煙突からは、絶えず煙が上がっている。広大な敷地のほとんどがごみの山で埋め尽くされている。施設を囲う柵越しに見える山を眺めながら、監視カメラが並ぶ門の前で立っている警備員のところへ向かう。車の窓を開けて身分証を提示すると、警備員が契約者であることを確認し、施設の中へと誘導した。施設内は一方通行で、両サイドに広がるごみの山に皆持ち込んだものを次々と投げ入れていく。彼も車を止め、手慣れたようにごみ袋を投げ入れていく。ごみの山の一番下には巨大なベルトコンベアーが敷かれていて、少しずつ奥の方へ流れていく。施設の奥にはマグマのような焼却炉があり、すべてのごみはそこへ流れ落ちていく。すべてのごみを捨て終え、焼却炉へと向かっていく様子を何気なく眺めていると、視界の端っこで何かが引っ掛かった。彼は眉をひそめ、動くごみの中から見覚えのある靴を見つけた。
「……焼却炉まではまだ百メートルはあるな。」
焼却炉の方を確認し、八月朔日はごみの山をよじ登りごみに埋もれるそれを掻きだした。
「おやおや、こんなところで再会するとは。ここはベッドよりも寝心地がいいのかな?」
そこにいたのは息も絶え絶えで横たわる千歳だった。八月朔日は相変わらず反応のない千歳の頬を軽く叩き、再度声をかけた。
「まだ生きてるかい?」
聞かなくてもわかっているくせにと言いたげな表情を浮かべる千歳だが、八月朔日の声に応答できるほどもう力も残っていないようだった。そんな様子の千歳を笑顔で見つめる八月朔日はすっと立ち上がり遠くを指さした。
「見えるかい?あの焼却炉。このままいくと僕らはあと数分で灰すら残らなくなってしまうね。」
動くこともできない千歳はわずかに視線をその指の向く方へ移動させた。その視線には「それでいい」というあきらめの色を瞳に宿し、千歳は再び瞳を閉じた。八月朔日はそんな千歳を見つめ、静かに微笑むと小さく息をついて言う。
「僕は、このまま一緒に焼かれたってかまわないけどね。」
その言葉に千歳は大きく目を開き、言葉にならないかすかな音を漏らした。衝撃的な八月朔日の言葉に驚いた様子だったが、声を出すほどの体力はもう残っていなかった。そんな千歳の反応を嗤うように目を細め、
「…なんてね。僕はまだ死ぬわけにはいかないんだ。君がまたあのお茶が飲みたければ…」
そう言ってその手を差し伸べた。焼却炉の熱が肌を刺すように伝わってくる。この山の先にある巨大な炎が、刻一刻と二人の元へ迫っていた。その余裕になさを表情に出さない八月朔日と対比して、千歳は葛藤しているように見えた。足元に広がるごみ袋がひとつ、またひとつと焼却炉へ落ちて燃えていく。そんな同士たちの音が、数秒先にある二人の未来を映していた。
恐怖でも後悔でもない、ただ静かに迫る終わりの音。その音に追い立てられるように、千歳の手がわずかに動いた。彼の中でうごめいた生への執着を感じ取った八月朔日は、その小さな身体を担ぎ上げる。足場の不安定なごみ袋の斜面を颯爽と駆けていく様は、とても常人には真似できない身体能力だった。先ほどまで感じていた熱の余韻を消し去るほど涼しい風が体をまとい、瞬く間に山の端にたどり着くとそのまま一気に滑り降りる。ようやく安定した地に足をつけ、千歳を車に乗せようと前に抱えた時、遠くから一部始終を見ていた警備員がのんびりした口調で声をかけた。
「危ないから、あんまりごみみの山にはのぼらないでねー。死にたいならいいんだけど」
八月朔日は千歳を抱えたまま振り返り、にこりと笑って軽く手を振った。そのまま足早に車へと向かい、ゆるく倒した助手席に千歳を預けた。力なく座席にもたれかかる千歳の顔は青白く、生気を失っているように見えた。車のエンジンをかけると八月朔日はダッシュボードから棒のついた飴を取り出した。
「特別だよ。君が好んでいたあのお茶よりも気に入るかもしれない。」
千歳は微かに瞼を上げると、それを口に運んだ。口の中に広がる甘さと八月朔日から漂う不思議な香りが、少しだけ千歳の表情を緩ませた。車の窓に映る景色がゆっくりと流れ、エンジン音とボーカルのいない音楽だけが流れる社内は安堵感に包まれていた。
死んだら商材。死というのは、自己や理性を失った僕の操り人形。あるいは人身売買、あるいは僕の糧。僕もこの世界に住まう能力者だ。能力者同士の殺し合いなんてそこら中で起きている。君の恨む相手がたとえ強力な能力の持ち主だったとしても、決して僕が負けることはないと誓おう。
千歳を乗せた車が店の裏口についた。助手席で穏やかに眠っている千歳を抱えて八月朔日は店へと戻った。
商材か、僕の糧か、選ぶのは君だよ―――。
「はて、なんでだったかなぁ。」
「そんなに考えてもわからないなら、もう一生わからないとおもいます。」
ややなげやりに言葉を吐いた。長く伸びたまえがみから覗くその瞳は、のんきな彼をあきれた様子で眺めていた。
「そうだね。でもまぁ、蓮がここまで立派になってくれて、…あの時の選択が間違いではなかったと思うよ。」
そういうと八月朔日は千歳の頭をポンっと撫でて、奥の部屋へと戻っていった。