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かわいい子羊

重たい扉を静かに閉め、薄暗い路地へと足を踏み出した。大粒の雨が降りしきる中、その長く伸ばした赤い髪は湿気を帯び、夜の光に照らされてわずかに揺らめいている。かすかに残る腕のしびれは苦しそうに鳴く扉のせいだろうかと、腕をさすりながら傘を開いた。濡れた路地はじめじめとした空気を纏い、雨の音だけがむなしく反響する。歩みを進めるにつれて、徐々にけたたましいサイレンが耳に届く。光や音が彼の五感を刺激し、ゆらゆらとなびく長い髪はより一層赤みを増す。その髪は靄のかかった店内で見るよりも鮮明な赤で、街ゆく人々は路地から出てきた彼を怪訝な面持ちで見つめ過ぎ去っていく。彼もまた、何かを探しているかのようにあたりを見渡して、ネオンきらめく大通りへと消えていった。

空からは相変わらず大粒の雨が降っている。いつもに増して大粒の雨が。こんな日に星は見えないが、少し傘を傾けて空を見上げるとこの街の喧騒から照らされる明かりで、雨粒が夜空を流れる星のように見えた。彼は静かに笑った。

「いい天気だ。」

 それは本当なのだろうか。街は多くの若者であふれかえっている。風こそないが、大雨というには申し分ない天気だ。そんな天気にもかかわらず、傘に落ちる雨の音をかき消すほど、人々のざわめきがこの街を覆っている。そんな街を見渡せば、屋根のあるベンチはすべて占領され、帰る手段を探している若者でうまっている。楽し気な笑い声が聞こえてくる中で、傘もささずにひとり歩く者もいる。昼よりも昼らしいこの場所で、孤独な人間こそ目立って仕方ない。近年物価の高騰で生活が圧迫され、困窮する家庭が増えている。そのせいか、下を向いて項垂れている者が急増した。そんな彼らを吟味するように観察をしているのはそう、The Velvet veilのオーナー八月朔日琉河。集客のためにわざと雨の日を選んで出てきたという。雨の日に見つけた客のほうが、趣あっていいという彼の思想のせいだ。項垂れている人間の中で上物を探す彼の眼は、まるで宝探しゲームをする無邪気な子どものようだった。

街に出てしばらくたったころ、彼の無邪気な眼にひと際異質な光景が映りこんだ。ビルとビルに挟まれた狭い隙間、そこに置かれたごみ箱の陰に小さな影が見えた。それはピクリとも動かず、ただこの瞬間が過ぎ去るのを待っているだけの小さな少年だった。少年の服はボロボロで、膝を抱え静かに目を閉じていた。少年に雨を防ぐ手立てもない。八月朔日はそっと近くに歩み寄り傘を差しだした。ピクリとも動かなかった少年だったが近寄って見ると、その小さな身体は小刻みに震えていた。少年は静かに目を開き、目の前の大きな影を見上げた。

「やぁ、項垂れている少年、こんなところで何をしているんだい?」

八月朔日はずぶ濡れの少年の前で腰を下ろし、優しく声をかけた。少年は力なく上げた顔で八月朔日をにらみつけて言う。

「お前も俺を蹴り飛ばしに来たGiftedか。蹴りたきゃ好きにしろよ。」

その声は妙に落ち着いていて、その幼さにして世界のすべてをあきらめたかのような絶望感を持っていた。体中に見える痛々しい傷が少年の発言とリンクする。

能力のない者は皆決まって能力者、Giftedの標的になる。この少年もきっとそうなのだろう。大半は標的にされた時点で殺されてしまうが、辰の悪い能力者は殺さずおもちゃとして生かし続けるのだ。なんて哀れな少年なんだ。一度は顔を上げたものの、久方ぶりに声を発した後またすぐにうつむき、能力者にその後の行動を委ねるように絶望にあふれた瞳を閉じた。八月朔日は小さく微笑み、少年の隣に屈んで話をし始めた。少年のことについて言及することはなく、彼はただ自分のことや、過去の話、最近店に来る客の話などを独り言のように面白おかしく語り続けた。少年はあの一言以来口を開くことはなかった。心を閉ざし、彼の言葉に聞く耳も持っていない様子だったが、それでも八月朔日はただ昔を懐かしんでいた。

どれほど経っただろうか、こころなしか街ゆく人間の数も少なくなってきたように感じた。雨の音が大きくなったように感じたのは、ただ周りの音が少なくなっただけだった。

「思い出したくないことを思い出してしまったなぁ…。」

八月朔日はそう小さくつぶやき、あたりがわずかに静かになったことに気が付いた。ふと気になり時間を確認する。

「ああ、もうこんな時間か。長話をして悪かったよ。」

八月朔日は静かに立ち上がり、重たくなった傘の水滴を振り落として少年へ差出した。少年はようやく顔を上げた。濡れた前髪の奥から覗く目には、戸惑いの色が浮かんでいる。差し出された傘を見つめるも、その意味を測りかねているようだった。目の前の男が何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、心を閉ざした少年には理解できなかったのだろう。八月朔日は一瞬困ったように目を細め、差出した傘を軽く揺らしてみるも、少年は何の反応も示さない。仕方ないとでもいうように彼はそっと少年の手を取る。驚いたように少年の体が引いたが、彼は気に留めず、その手に傘を握らせた。

「使い方くらいは知っているだろう?」

軽く笑いながらそうつぶやき、つづいてポケットから小さなカードと飴を取り出した。カードには「The Velvet veil」という文字と八月朔日の名前が書かれていた。それらを少年の手に握らせ、優しく微笑んだ。

「僕はここにいる、とだけ伝えておくよ。」

そう言って八月朔日は立ち上がり、小さく手を振ってきらびやかな街並みの中へと消えていった。少年は手の中のカードと飴玉を見つめ、去り行く彼の背中を見送った。

 冷たい雨が容赦なく降り降り注ぐ中、八月朔日はいつもに増してゆっくりと歩いていた。傘を少年に渡したことで、長い髪はすっかり濡れ、雨滴が端からぽたぽたと滴り落ちる。肩に張り付いた髪は重たく感じるが、それを気にする様子はなく、前髪をさっと掻き上げた。まぶしい通りを抜けながら、ふと指先に残る感触を思い出した。少年の手に渡したカード、名前入りのカードを渡したのは、一体いつぶりだろうか。

 「うーん、なんでかなぁ…。」

雨音にかき消されるような小さな独り言。特に理由があったわけではない。ただなんとなく、不思議な気持ちにかられたのだ。それがどういう意味を持つのか、自分でもよくわからなかった。

 濡れた髪を揺すりながら路地裏へと戻る。狭い道の奥に見慣れたドアが姿を現すと、彼は手を伸ばしてそのドアノブを回した。あまりにも軽く開いたその扉に、また少し笑みが漏れる。

「やっぱりこっちのドアは軽いな…。表の扉は修理したほうがいいのかもな。」

そんなことを考えながら濡れた髪を指で払いつつ店のバックヤードへと足を踏み入れた。背後で雨音が遠くなると、代わりに店内の空気がいつも通りの甘い香りを伴って彼を迎え入れた。ここは店の備品を置く倉庫として使われているが、従業員の住居としての役割も担っている。室内はきれいに整頓されており、この場所を管理する従業員の性格を映し出している。

「おかえり琉河、今日の客はいなかったのか…って、なんでそんなに濡れているんだ!傘はもっていかなかったのか!?」

驚いた声で出迎えたのは氷沼 刹、この店の従業員兼裏方の雑用係だ。彼は手に持っていた雑巾を投げ置き、ずぶ濡れの八月朔日のもとへ駆け寄る。八月朔日は濡れたシャツの袖を軽くはたきながら、いやぁ~と苦笑いを浮かべた。

「可哀らしい子羊ちゃんにあげたのさ。」

「こ、子羊?」

八月朔日の軽い口調に氷沼はひっそり眉をひそめて繰り返した。

「ああ、十二、三くらいのね。」

そう言いながら、八月朔日は濡れた眼鏡を外し、頬に張り付いた前髪を掻き上げる。赤い瞳がかすかな光を帯び、雨の滴る姿と相まってどこか妖しげな雰囲気を放っている。氷沼はため息をつきつつ、手近なタオルを投げ渡した。少し雑な行動の中にもわずかに心配している様子を見せる氷沼に、八月朔日は微笑みタオルを受け取った。

「さて、風呂にでも入ろうかな。」

ある程度顔や髪を拭き取りそう言った。自由すぎる八月朔日の行動に何か言いたげな氷沼だったが、肩をすくめて軽くうなずいた。

「準備はできているぞ。」

流石だねというように八月朔日は笑い、タオルを肩にかけたまま彼に背を向ける。湿った靴音を響かせながら、浴室へと向かっていった。


_______________________


少年に声をかけてから数日が経った。今日もまた激しい雨が降っているのが、地下にあるこの店にも伝わってくる。八月朔日はカウンターに座り、冷めた紅茶のカップを見つめていた。時折雷鳴が遠くから響き、わずかな振動が床や壁を伝ってくる。雨音と雷の響きが、空気全体を湿らせているかのような錯覚を引き起こす。窓ガラスもないこの場所で、これほど雨の存在を感じるのは珍しいことだった。

「さすがに今日はやめておくか。」

雷の音に耳を澄ましながら小さく息をつき、奥の部屋へと向かう足を進めた。

八月朔日がいなくなった店内にはいつものような空気が漂っていた。甘く鋭い香りの中、従業員たちは各々の仕事に徹していた。しばらくすると、入口の方からかすかな騒がしさが聞こえてきた。それに気づいた従業員の一人が顔を上げ、入口の方へと視線を向けた。店の外に続く重たい扉の向こう側には、訪れた客を迎え入れる受付がある。その受付で何やら声が交差し、小さなざわめきが徐々に大きくなっていくのを感じる。その様子をうかがうように入口の方を見つめていると、重厚な扉が勢いよく開いた。カランコロンという音と共に受付担当の無月久遠が店内に駆け込んできた。彼はそのままあわただしい足取りで八月朔日のいる奥の部屋へと向かった。従業員たちは互いに視線をかわし、何事かといぶかしむものの、特に詮索することなく再び自分の仕事へと戻った。

 無月は狭い廊下を駆け抜け、奥の部屋の扉をたたく。

「八月朔日さん!いますか?」

その声に応じてゆっくりと扉が開くと、八月朔日はちょうど風呂上がりで濡れた髪をタオルで拭きながら現れた。

「久遠、どうしたんだい?そんなに慌てて。」

「う、受付に子どもが…、八月朔日さんを呼べと…。」

いつものように余裕を感じさせる八月朔日とは対照的に、無月は息を切らしながら告げた。八月朔日はタオルを部屋の中に投げ飛ばして、ふっと笑みを深めた。

「あの少年かな。」

八月朔日は小さくつぶやきながら、無月に先導されながらその後ろをゆっくりと歩いた。慌てる彼を差し置いて八月朔日は余裕を見せている。客が待っているというのに急がなくていいのだろうかと、彼はゆっくりと歩く八月朔日の方を振り返りながら店の外へと出て行った。重たい扉を開け、雨の音が一層大きくなり湿気がまとわりつくような空気の中、一人佇んでいたのは案の定あの時の少年だった。ずぶ濡れの服が体に張り付いて、小さな肩が震えていた。少年の手にはあの時渡したカードだけが力強く握られていた。

「やぁ少年、また会ったね。今日はどうしたんだい?寂しくなってしまったのかな?」

八月朔日は軽く手を上げて微笑んだ。少年をからかうような口調ながら、どこか優しさが滲んでいた。少年はじっと八月朔日を見つめた。その視線にはどこか迷いを含んでいた。小さな声で口を開くと、その言葉は雨音にかき消されそうなほど弱弱しいものだった。

「雨が、降っていた。あんたが来たときみたいな大粒の雨が…。」

八月朔日は首を傾げて促すように言う。

「ふむふむ、それで?」

「ここ数年、まともに人間が接してきたことなどなかった…。でもあの時あんたは話しかけてきた。」

少年は雨に濡れた顔をほんの少しだけ上げてそう言った。少年の表情に浮かぶのは怒りとも悲しみとも取れない曖昧なものだった。少年は小さく息を吸い込むと八月朔日をにらみつけて続けた。

「でも、今日はいなかった。傘は奪われた…、寒くて、うるさくて怖くて、……今までこんなこと、あたりまえだったのに…」

少年の声が震えている。それは恐怖からなのか、雨に打たれて冷えてしまったからなのか、あるいはその両方なのかはわからない。鋭い目つきで見上げるその瞳には、助けを求めるような光と、八月朔日への怒りが混在しているようだった。そして少年はさらに続けた。

「あたりまえ、だったのに…、あんたがそれを狂わせた!あんたのせいで…また孤独が怖くなったんだ!」

少年の声がひと際大きく響き渡り、その思いに共鳴するように雷がこの空間に鳴り響いた。

八月朔日は少し目を細めたが、雷鳴にも少年の叫びにも動じることはなく、穏やかな視線を少年に向けていた。雨はより一層強くなる。小さな肩がさらに震えるのを見つめ、ふっと息をついた。頭を掻きながら苦笑いを浮かべ、八月朔日が口を開いた。

「そうかそうか、それは悪かった。ごめんよ。」

少し戸惑っているようなしぐさを見せる八月朔日の背後で二人を見守っていた無月は、その会話の内容に驚きを隠せない様子だった。この少年が八月朔日さんの知り合いだったなんて、無月は彼の背中を見ながらそう思っていた。その後八月朔日がどんな言葉を発するのか、この少年をどうするつもりなのか、無月は気になって仕方がなかった。そんな無月の様子に気が付いたのか、八月朔日は彼の眼を見て小さく微笑み、ずぶ濡れの少年へと視線を戻した。

「まずは風呂にでも入ったらどうだ?風邪をひいてしまうよ。」

柔らかな八月朔日の声が雨音を和らげるように響き、彼は自分の上着を少年の肩にかけた。その動作に迷いはなく、後ろで見ていた無月も、八月朔日の行動に何か特別な思いがあるのではないかと感じた。八月朔日は受付の裏側を通り、奥の部屋へと少年を案内した。狭い廊下を渡って風呂場まで少年を連れて行き、八月朔日は脱衣所の外で腰を下ろしてドア越しに声をかけた。

「好きなだけ使うといい。久方ぶりのシャワーだろう。タオルや着替えも置いてあるから、適当に使ってくれ。まあ、僕の服だから合わないと思うけど。」

そう八月朔日が言うとドアの向こうで浴室の扉が閉まる音が聞こえた。シャワーの音が静まり返ったこの空間に響き渡る。彼は今何を思ってこの音を響かせているのだろうか。そう考えるだけで八月朔日はにやけて止まなかった。十数年という短い人生の中で壮絶な道を歩んできたのだろう。そうでもなければあの暗がりの路地に一人でうずくまっているはずがない。考えれば考えるほど彼の心臓は高鳴り、つい声を出して笑った。椅子に腰かけ、組まれた足が小刻みに揺れる。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。眼鏡を外し、片手でにやけた顔を覆う。その指の隙間から覗くキレ長い赤い目が不気味な光を放ち、どこか危険な輝きを宿している。自分でも理由のわからない愉快さに肩を震わせながら笑っていたが、シャワーの音がふと止むのに気づくと、その笑みを静かに引っ込めた。八月朔日は上を見上げ一つ大きく呼吸をした。

眼鏡を元に戻し、少年が着替えを済ませるのを待った。やがてドアがゆっくりと開き、濡れた髪を拭きながら少年は姿を現した。八月朔日の貸した服を身に着けているが、明らかにサイズが合っていないのは、予想通りだった。

「…でかすぎ。」

少年は長い袖をたれ下げてぼそっとつぶやいた。八月朔日の服をまとう少年はまるで、服に食われているような姿だった。それを見た八月朔日は笑いをこらえて言った。

「悪いね、この店には君に合うサイズの服を着ている奴がいないんだ。でも濡れた服を着るよりかはましだろう?」

少年は何も言わずちらりと八月朔日を見上げたが、その視線にはまだどこか警戒心が残っているようだった。八月朔日はその様子に気づいていたが、特に気にすることはなく立ち上がって言った。

「さて、ここは人の出入りも多い場所だ。僕の部屋にでも行くかい?」

少年からの反応はないが、八月朔日が歩き始めると少し距離を置いて後ろをついてくる。狭い廊下を抜ける途中、不意に二人の手が触れた。その瞬間少年はハッとしたように身体を引いた。

「おっと、悪い。道が狭くてね。離れても構わないから、ゆっくりついておいで。」

八月朔日は少しだけ振り返り笑顔を見せた。少年は微かに眉をひそめたが、言葉を返さず再び歩き始めた。八月朔日の揺れ動く赤い髪を見つめながら数歩距離をあけてついていく。迷路のように入り組んだ地下空間は、体の小さい少年にはとても長く感じた。

「ここだよ。」

八月朔日は立ち止まり少し離れた少年の方を振り返り、扉を開いて少年を中へと案内する。少年は警戒して様子で部屋の中へると、そこはいたって普通でどこにでもありそうな綺麗な部屋だった。怪しいものはないかと部屋を見渡す少年を、入口近くの壁に寄りかかりながら眺めていた。

「今お茶を入れてくるから、ゆっくりしていてくれ。」

八月朔日はそういうと微笑みを浮かべ、小さく手を上げて廊下へと消えた。その様子を黙って見つめていた少年は再びあたりを見渡して、物色しはじめた。

しばらくして、開いたままの扉をノックする音が聞こえる。

「入るよ。」

湯気の立つカップを手にした八月朔日が扉の前に立っていた。一瞬少年の姿を探すように部屋を見渡しながら歩き、ゆっくりとカップをテーブルの上に置いた。少年は部屋の奥の棚を眺めていたが、その音を聞き、テーブルのある方へ戻ってきた。少年はソファーの背もたれを上り、勢いよく腰を下ろした。少年はそのソファーの柔らかさを試すかのように数回体を弾ませる。

「随分と冷えただろう。お茶でも飲んでゆっくりしていなよ。君が飽きるまで、ここは君の家だ。」

八月朔日が部屋の説明をしているが、少年はこの声に耳も傾けず、ただお茶を静かに啜っていた。

「最後に、また外に出たくなったときは、部屋を出て左へ、少し歩いて右へ、ちょっと坂を下って突き当りを左へ曲がると階段がある。上がって右へ行き、二つ目の通路を左に曲がると裏口に出られるから。」

八月朔日は指をさしながら道順を説明し、それじゃあねと言い手を振って扉を閉めた。扉が静かに閉まる音が部屋に響く中、少年はお茶を置いて眉をひそめてつぶやいた。

「…複雑すぎてわかんねぇよ。」

部屋の中には八月朔日から漂うわずかに甘くどこか懐かしさを感じる匂いが残っていた。身体があったまったからなのか、その香りのせいか、あるいは安堵からか、少年は大きなあくびをし、全身を大きく伸ばした。少年は少しソファーで目を瞑ることにした。数年ぶりに温かい部屋で過ごしたせいか、完全に警戒を解いたわけでもないのに、柔らかいソファーの感触に少し感動した。少し眠った後ゆっくりと目を開き、ぼんやりと天井を見上げた後、扉の方に目を向けた。

「本当に入ってこない。」

部屋中に彼の姿がないことを確認してそうつぶやいた。少年はそっと立ち上がり、テーブルの上に置かれたスイッチに手を伸ばした。そのスイッチを押すと、何やら遠くでかすかな音が響いたように聞こえた。それから数分後、扉をノックする音と声が聞こえた。

「ドアを開けてくれるかい?」

それは八月朔日の声だった。少年からの返答はなく、八月朔日は首をかしげて扉が開かれるのを待った。しばらくして部屋に入ってこない彼に少年は眉をひそめて口を開いた。

「…あいてる。」

その一言に少し驚いた様子で、八月朔日はドアを開けて部屋に入ってきた。ほんとだ、と小さくつぶやいてソファーに座る少年に笑顔を向けた。

「鍵は閉めなかったんだね。それで、何か用かい?」

八月朔日がそう問いかけるも少年は視線を逸らし、何も答えなかった。八月朔日がその様子を見て首をかしげる。静まり返った部屋で少年の表情から何か読み取れるものはないかと少年を見つめていると、ぐぅ~っという音が鳴り響いた。少年は顔を赤らめてとっさにお腹を押さえた。なるほど、とひらめいた仕草をして八月朔日が微笑みを浮かべて言う。

「ふふ、お腹が空いたんだね。」

八月朔日の言葉に少年はさらにうつむき、視線を逸らし続けた。

「待っていてくれ、何か作ってくるよ。また何かあったら呼んでくれ。」

そういって八月朔日は部屋を後にした。扉の閉まる音が響く。少年は振り返り、テーブルの上の端末を眺めていた。


しばらくして再びノックの音が響く。

「入ってもいいかい?」

扉越しに彼の声が聞こえる。少年はゆっくり立ち上がり、ドアのロックを外した。鍵を閉めたことには触れずに、八月朔日は料理をテーブルへ運んだ。

「僕の手作りだけど、口に合うかな。」

少年はフォークを手に取り八月朔日を一瞥すると、小さな声でつぶやいた。

「さっきの…」

「ん?」

「さっきのお茶…」

少年の細々とした声は確かな意思を持っていた。気に入ったのかと問うと少年は料理を口に運びながら小さく頷いた。

「それはよかった。今入れてくるよ。」

八月朔日は部屋を出て、キッチンにてお茶の用意をする。


このお茶には彼の能力エネルギー、魄がわずかに混入されている。魄はすべての能力者に流れるエネルギーの核となるもので、能力者にとっては生命維持に必要不可欠な物質だ。そして彼らはそれを受け渡したり、奪い取ったりすることができる。八月朔日の場合、一定数の魄が体内に留まると強烈な毒に変化し、摂取し続けて弱った者の生命力や魄を奪うというものである。それが彼の能力《魅毒の果実》。悩みを抱え心が弱くなり、何かに縋りたい者が摂取することで強大な依存性を発揮する。彼の魄によって体を蝕まれた者たちは皆、彼のエネルギーとなる。


「あの少年も、手遅れかもしれないな。」

お茶を入れながら八月朔日はひとり笑っていた。

八月朔日は再び部屋の扉をノックし「入るよ」と声をかけると、ゆっくりと扉を開けた。鍵がかかっていなかった扉の向こうで少年は食事を平らげ、口元を汚していた。

「随分早いね。余程飢えていたようね。」

少年は何も言わず、お茶を求めるようにその手を伸ばした。八月朔日は笑みを浮かべ、少年に手渡した。少年はそれをすぐに飲み干し、空になったコップを机に置いた。

「少しは落ち着いたかな?」

少年の隣に座り、八月朔日もお茶を飲みながらうと少年は小さくうなずいた。テーブルをはさんだ先にあるテレビをつけてリラックスしている八月朔日が持つコップからは、湯気が立ち込めていた。息を吹きかけながらゆっくりとお茶をすする八月朔日の眼鏡が曇る様子を少年は何か言いたげな顔で見ていた。暖かいお茶も美味しいんだと話をしながら彼はそれを飲み干した。ぼんやりとテレビを眺めてある程度時間が経った頃、八月朔日は細長く引き締まった足を解き、二つのコップを手に取った。

「さて、長居させてもらったね。まぁゆっくりしていくといい。留まるも出ていくも君の自由だ。」

少年は表情を変えず横目で八月朔日の方を見た。どこか優しさに包まれたような儚くも繊細で、時に見せる不敵な笑みが共存している彼の存在は、少年にとって何とも言えない違和感と、言葉にならない安心感を同時に与えるものだった。その彼の独特のオーラに触れる度、少年は自分の知らない世界に引き込まれるような感覚を覚えた。久しぶりに関わった相手がこれほどまでに異質な存在であることに少年は気付くこともできなかった。

「それじゃあ」

と、八月朔日が立ち上がり歩みを進めようとした時、服の裾が突っ張る感覚と同時に「まて」と少年の声が聞こえた。

「ここに、いろ。」

少年の予想外の発言に八月朔日はわずかに動揺した。少年の姿を見下ろすと、まだ何か言いたげな表情をしていたが、無理に心情を探るのはやめておくことにした。

「わかったよ。」

そういうと少年は手を放し、八月朔日は再ソファーに腰を下ろした。

「今日は僕も疲れたし、君が出て行けというまではここでゆっくりしていくよ。」

少年はこれ以降何も語ることはなく、ただひたすら四角い箱に映し出される動く絵を眺めていた。寒さから解放された暖かな部屋の中、睡魔がゆっくりと少年を襲った。いつしか少年はソファーの端に身を預け、体を丸めるようにして目を閉じていた。八月朔日もまた、疲労が肩に重くのしかかるのを感じながら、両手足を組み替えて、静かに目を閉じた。少年の言葉や仕草が頭の中を巡りながらも、次第にその思考も薄れていった。


結局二人は何を語ることもなく、そのまま夜を共に過ごした。つけたままのテレビの光が、薄暗い空間にささやかな明かりを与えていた。次に少年が目を開いたとき、意識が落ちる前に見た最後の景色とは異なるものが目に入ってきた。ぼんやりとした意識の中で身を動かすと、体が包み込まれるような柔らかさと暖かさを感じた。ついさっきまで感じていた柔らかさとは違い、今自分が横になっているのがソファーではないことに気づく。少年は少しだけ身体を起こすと、それはふかふかなベッドだった。柔らかい掛布団から漂う清潔な香りが鼻をくすぐる。あたりを見渡すと、それはこれまでに見たことのないほど立派なベッドで、天井から垂れ下がる軽やかな布は薄いヴェールのようにベッドを覆っていた。そんなベッドの真ん中にいる少年はまるで、ぬいぐるみがぽつんと置かれているほど小さく見えた。少年はゆっくりとベッドから抜け出し、ソファーの方を確認したが、そこに八月朔日の姿はなかった。

少年はテーブルに設置されたボタンで彼を呼び、朝食をとった。彼はまた、ボタンが押されるまで姿を見せることはなく、そんな単調な日々が数日間繰り返された。外出はおろか、少年は風呂などの用があるとき以外部屋から出ることすらしなかった。何かしたいことはないのかと尋ねられても、何もないと言うばかりだった。八月朔日は少年に何かしてやりたいと思い、ゲーム機器や少年が好みそうなおもちゃなどをいくつか持ち込んだ。しかし、いずれも少年が熱中するものはなかった。さらに、八月朔日が食事やお茶に混ぜ込んでいた依存成分についても、少年の反応は予想外だった。それについて執着が過激になることもなければ、在庫がないというと素直にあきらめ、気分が乗らないときは否定することすらあった。少年がこれほど冷静に制御できている姿は、八月朔日にとって大きな驚きだった。彼は慎重に様子を見ながら、この状態が続くようならいずれ少年を従業員として働かせることも視野に入れていた。

 この少年の名前は千歳 蓮という。彼がここにきて数か月たったころ、ようやく八月朔日に自分の名前を明かしたそうだ。


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