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怪しげな店

街の中心部、若者の街、今日も色とりどりの人々が行き交っている。雨上がりの夜空、煌びやかなネオンの光が濡れた舗道に反射して揺らめいている。

飲食店やショップの看板が鮮やかな色彩を放ち、通り全体がまるで一つの舞台のようだ。店内から漏れる音楽、それに混じる人々の笑い声や会話が途切れることなく響いている。車が通りすぎる度に伝わる振動、エンジン音やサイレンの音が甲高く鳴り響く。

街路樹の葉が風に揺れる音が消されてしまうほど、光と音が絶え間なく交差し、この街が眠らない生き物のように脈打っていることを思い知らされる。


そんな喧噪が続く通りから、ふと傍らに目をやるとそこには薄暗く狭い路地があった。そこは先ほどまでの賑やかな景色が嘘のように、ひっそりとした静寂が広がっている。街灯は頼りなく光を放ち、せまい道をかすかに照らすだけだった。

この暗がりの抜け道にひと際怪しい店が一軒佇んでいる。装飾や看板もなく、ただ扉の上につけられた赤いランプがぼんやりと光を纏い、その店の存在を主張している。

暗闇の中で浮かび上がる赤いランプは、不思議なほどに目を引き、世界から切り離された異質の空間のようだ。そんな誰も寄り付かないような場所にありながら、どういうわけか店内は常連の客でにぎわっているという。

彼らはどこか疲れた足取りで扉をくぐり、奥へと吸い込まれていく。皆々視点は定まっておらず、妙な焦燥感が入り混じっているようにも見える。

扉の前に立つと、どこからともなく漂ってくる甘く鋭い香りが鼻をくすぐる。それは柔らかな誘惑のようでもあり、背筋をざわつかせる警告のようでもある。その香りに包まれた瞬間、まるで試されているかのような感覚、その先にあるのが救いなのか、破滅なのか、その判断を迫られているように感じられるのだ。

慎重な面持ちで扉を押すと、わずかにきしむ音を立てて開いた。少しばかりの空間とその先には下へと続く階段が現れる。壁は無機質で冷たく、照明もない、異様な薄暗さが視界を包む。

街の喧騒は完全に消え去り、耳に届くのは自分の鼓動とわずかに響く足音だけ。暗闇に吸い込まれるように階段を下る。鉄製の手すりに触れると冷たさが指先を刺し、空間全体に広がる静けさが薄汚れた肌にまとわりつくようだ。下に降りるにつれ、あの甘ったるい香りが一層強くなる。それはどこか人工的で、健常者ですら心をかき乱すような匂いだ。もう一つの扉を前にして、冷たく重い空気は喉元に微かな圧迫感を与える。

 しかしそんな不気味さを感じながらも、この店には毎日のように新規の客が入る。店外の異様な雰囲気とは裏腹に、今日もまた、この店は賑わっている。


──────────────────────


初めて足を踏み入れた緊張感を忘れさせるような居心地の良い安らぎを得る香りへと変わる。その事実がこの店に来る者を混乱させ、この店に来る者の心を奪っていく。この香りは、まるで扉を開ける者の心を見透かしているようであった。


「ここに来れば、すべてを忘れられる」


そう誰かに囁かれたように感じ、彼らは皆その言葉に誘われる。

 店内は赤と黒を基調とした空間で、鮮やかな赤いライトが店内を照らし、全体に広がる靄が淡く揺らめいている。この靄が光と影の境界を濁らせ、夢の中にいるような感覚にさせる。そんな頃にはすでに、ついさっきまで考えていたことなど、もう思い出せないほどこの店に呑まれていくのだ。

 店内を見渡すと、老若男女問わず皆が思い思いの時間を過ごしている。酔いつぶれてしまったのか、整然と並ぶ酒瓶の前にあるカウンターで突っ伏している青年、深紅に染まるソファーに低く腰を落とし、従業員と笑いながら談笑する老爺、静かに食事を楽しむ綺麗な女性、そのテーブルの上には琥珀色の液体がグラスの中で揺れている。そして赤黒いカーペットの上をあわただしく歩き回る従業員スタッフ。店内のかすんだ空気がそれぞれの存在をわずかにぼやかし、どこか現実感を失う。


店の奥から聞こえてくる低く掠れた笑い声は、隙間を埋めるようにグラスとグラスが触れ合う音と共鳴する。

 そんな中、カランコロン―――。ベルの音響き、重たい扉がゆっくりと開く音が店内に溶け込んだ。赤いランプに照らされる新たな影、それは歩くことがやっとなほど酷く衰弱し、歩くたびに体が揺れる様子はまるで糸の切れた操り人形のようだった。その男の口から漏れ出す言葉を聞き取れるほどこの店の賑わいは衰えず、誰も男のことなど見向きもしない。

「アメを…、アメをくれ…。」

 その言葉に反応するように、一人の従業員が男のもとに歩み寄る。この男はここ最近毎日のように店に訪れている。その都度、同じ担当の従業員が対応している。従業員は慣れた手つきで男を座席へと案内する。その間も男は、掠れた空気のような声でアメを求め続けていた。

 清掃用の布巾を片手に、そんな一部始終を見ていた一人の従業員。黒いズボンに黒のシャツとオレンジ色のベスト、胸元にはオレンジと黒の縞模様のネクタイを下げている。接客業にふさわしい正装とは裏腹に、長く伸びた黒い前髪から覗く脱力しきった瞳は、歩くこともおぼつかない男をじっと眺めていた。従業員は小さくため息をつき、カウンターの奥で椅子に座り、優雅に店内を眺めている男の元へ向かった。酔いつぶれている青年を横目で眺めながら、店内を照らす赤いランプよりも赤い髪をなびかせている男に声をかける。


「八月朔日さん、あのアメ本当に麻薬じゃないんですか?あの男、もう六日連続で来てますし、日に日におかしくなってますけど。」

 八月朔日は片眉を上げて笑みを深めると、机の上に置かれたアメを一つ取り出し、口に放り込んだ。

「これはちゃんと合法だよ。正しく使えば何の害もないのさ。正しく使えば、ね。」

 店内の暗さとは不釣り合いなほど柔らかい声を持つ八月朔日だが、妙に安堵感のあるその音がこの店とマッチし、その奥底にはこの店内に広がる靄のように深くかすんでいる不透明さが潜んでいる。まるで深い井戸の底から響いてくる音のように、その声は底知れない魅力を放ちながらも、その全てをつかませてくれない。

 八月朔日は飴玉が入った籠を手に取り数回振り交ぜた。言葉もなくその籠を従業員の方へと向けた。その仕草は問いかけのような柔らかさがありながらも、挑発的な含みを持っているようにも見えた。従業員は八月朔日を見つめた後、躊躇うことなくそのアメを口に運んだ。

「ただ、特定の層がこのアメの快楽に沼り、求めれば求めるほどそれは毒になる。徐々にその身を滅ぼしていくのさ。」

 あの男のようにね。まるでそう続くかのように靄にかすんだ赤い瞳が静かに語る。従業員もその視線につられるように男の方を見る。未だにアメをくれと力なくうなり続けている男を、落ち着かせるように担当者が男の手を握って微笑んでいる。

「怪しすぎる…、本当によく捕まらないですよね。」

 呆れた顔で従業員は言う。八月朔日は小さく笑い、アメの包み紙を小さく丸めてゴミ箱へ投げ入れた。彼の切れ長く細い眼はどこか自信に満ちていて、不敵な笑みを浮かべたまま告げる。

「僕を誰だと思っているんだい?死んだら商材、使い終わったら捨てるのさ。」

従業員は軽く鼻を鳴らし、興味を失ったような仕草で店内をぐるりと見渡す。酔いつぶれた青年、談笑する老爺、一人で食事をする女性、そしてあの男。無関心そうなその目は、一つ一つの景色を確かめるようでもあった。ふと何かを思い出したのか、視線を八月朔日へと戻した。

「…じゃあ、なんであの時俺を見殺しにしなかったんですか。」

「あの時?うーん、そうだなぁ」

八月朔日は首を傾げながら、あごに手を当てて考え込むそぶりを見せる。彼の言葉は続かず、アメをくれとうなる男の声が響いている。いつかの記憶を探るように再び籠へ手を伸ばし、何か思い出せるかなぁと、また一つアメを口に運ぶ。従業員は再び店内を見渡した。相変わらず賑やかで騒がしいほどなのに、八月朔日と従業員の間は、時が止まっているかのように静かだった。

店内の赤いライトが揺れる靄を染め、各々の境界を曖昧にしている。見えている景色が夢なのか現実なのか、そう思わせる空間がこの店の魅力であり、恐ろしさでもあった。また一人、また一人と見慣れない客が重い扉を開けて入ってくる。かつての自分もあの扉を開けて一人で入ってきたのだろうか。そんな思いで店内を見渡す従業員。そんな昔のことなど、意識の片隅にすら影を留めていなかった。

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