雨のオーケストラ
浴槽に浸かると、ため息が零れる。
まだ肌寒い春の季節。寒い空気で凝り固まった柔肌が、徐々に溶かされていくのを感じる。お風呂は心の洗濯とはよく言ったものだ。
湯を掬い、肩にかける。パシャパシャと単調な水音に交じり、ふと、サーサーと雨の音が混じっていることに気が付いた。
曇りガラスのむこうに、ぼやけたライトの灯りが浮かぶ。夕暮れの雨をともなう憂鬱の青色が、浴槽を悲しく、美しく彩っていた。
古賀宮 凛は雨が好きだ。
雨の音が好きで、雨の冷たさが好きだ。
梅雨の暮れにあるジメっとした暑さは嫌いだが、清廉とした冷感が火照る身体を冷ます瞬間、雰囲気に浸れる時が好きだった。
この特別な時間を深く楽しむため、お風呂場の灯りを消し、再びお湯に沈む。曇りガラスの向こうにあるライトは、水泡でほのかに滲み輝いた。
スピーカーの電源を入れて、曲を流し始める。クラシックだ。
雨によるピアノの伴奏こそ、至上。特にクラシックが良い。
古賀宮は曲の指運びを頭の中で描きながら、お風呂の水面を指先で叩いた。
ピアノの純音は、静かで、冷たく、儚い――。
それでいて強か。さすがプロ――と、賞賛の念を抱く。
クラシックの音楽が好きだ。
ピアノの綺麗な音色に惚れて、幼いころから趣味として練習を続けていた。もちろん、弾ける曲が幾つかあるし、その技量は褒められるほどだ。
しかし、ある点で、そのピアノは弱かった。
一つ一つの音色が、小さいのである。きめ細かでありつつ、儚いほど弱いのである。プロの音色を例えるなら、砂金のようにきめ細かで強い輝きを放つというのに、古賀宮の音色は曇天の雨のようだった。
脆い勇気を振り絞り、出場したコンサート。審査員の酷評である。
自然と瞼裏に当時の光景が溢れる。
古賀宮は苦い思い出を振り払うように、お風呂から上がった。
スキンケアやヘアケアをしてもらいつつ、自室に戻る。
さて、何をして過ごそうかとベットに腰掛けると、パソコンが開きっぱなしであることに気が付いた。動画投稿サイトを開いていたことを、お風呂に入って忘れていたのだ。
そう、古賀宮は自身が弾いたピアノの曲を、SNSに投稿したいと思っていた。
しかし、勇気が出ず、とりあえずとお茶を濁すようにお風呂に入ったのである。
パソコンの前で座り込み、マウスを持つ。
後はボタンをクリックして、投稿するだけなのだ。
クリックするだけ、クリックするだけ…。
古賀宮は結局、その日の内に動画を投稿することはなかった。
どちらかといえば内向的で、臆病。
人の目があると緊張してしまうし、笑顔だって苦手。
コソコソとお喋りをしている声がすると、まるで噂を立てられているような気がする。
これは高校生活が始まり、一週間も経たない内に、古賀宮のおさらいした自認だ。
友達は未だできず、心細い日々を送っている。
クラスメイトの名前だって、一度聞いただけで覚えられていない。自己紹介のときはもう緊張ばかりで、覚えられる方が可笑しいとすら思うほどだった。名前を憶えていないということが、誰かと話す辛さに拍車をかけている。今日もワイワイと騒がしい、孤高の休み時間が過ぎた。
先生が授業を進める声を聞き流しながら、窓の外を眺める。晴れ晴れとしているが、予報では夜から曇りであったはず。暖かくなってきて、だんだん眠たくなってくる。
「ここ、桜野。読んでくれ」
「はい!」
春の陽気のような、素朴に元気な声が教室で響く。
隣の席、前髪が長い男子だ。目が隠れている。彼はこのクラスでも有数のコミュニケーション能力を持っている。休み時間によく喋っているところをみかける。
堂々と読み上げていく様は、古賀宮とは別種であるようだと、勝手な疎外感を覚えた。
「次、古賀宮」
「にゃっ、は…ぃ」
噛んでしまった。
くすくすとクラスメイトが笑う。
古賀宮は歯噛みする余裕もなく、恥ずかしいやら何やらだ。あわあわと慌てながら、どうにか文章を読み上げて、そそくさと座り直す。机につっぷしたのは言うまでもない。
「あ“―~~~」
学校は終わり、近所の公園に来ていた。
公園は数多くの親子が遊んでいる。
この広い公園内でも、苛立たし気な声を出しているのは、きっと古賀宮だけであろう。そう思えるほど、この空間は朗らかであった。
響く声は楽し気で、幸せな笑顔ばかりである。
古賀宮がつい公園に足を運んでしまう理由でもある。嫌なことがあった時は、こうして公園の幸せな雰囲気に包まれたいと思うのだ。そうすると、公園にある幸せが伝染してきて、自分まで幸せな気持ちになれる。
いつの間にか、自身の口元が弧を描いていることに気が付く。まるで心の底から、今日あった嫌なことを許せたような、そんな気分になれた。
さて、帰ろう。
立ち上がり、帰路に着こうと歩き出す。公園の出入り口に歩を向けていると、人々が吸い込まれるように集う場所をみつけた。わずかにピアノの音が響いているのが聞こえる。
ストリートピアノだ。
一曲と引き終えれば、忽ち万雷の拍手が辺りに満ちた。
たぶん、プロの人だ。群衆に紛れず、なんとか遠目で確認すると、動画も撮っている様子だ。きっと、動画投稿サイトに投稿するのだろう。注目を集める姿が、容易に想像できた。きっと何十万回と再生されるんだろうなと、ぼんやりとそう思った。
次の演奏を始める。
この人のピアノは聞く音楽じゃない。聞かせる音楽だ。
聞き手が欲しい音を最大限引き出している。躍動的に、ピアノを含めて全身を使ってパフォーマンスをしている。次の音がエネルギッシュなことは見れば分かるし、情熱的であることも分かりやすい。音が強くあるべきところで、強く、人の心を上手に鷲掴む。
私のピアノとは違う。
つい比べてしまい、勝手に自己欺瞞に陥る。
足早に、その曲が終わらない内に、公園から離れようとする。
どうやら曲が終わったようで、遠くで歓声が響くと、やけにその音が大きく聞こえた。
ポロン、と。
ピアノの残響が、部屋を響く。
指先に込められた力を抜き、残心を留め、浸る。
古賀宮の好きな音。しかし、酷評されるべき音。
しばらくして、撮っていた動画を止める。綺麗な手元だけみえるようにして、顔は映していない。こうなるよう調整するのは、比較的苦労した記憶がある。
カメラを見直し、曲を聞く。運指を注意深く確認しつつ、弾いていた最中に気になった部分を思い起こす。もっと好きな音になるよう、もう一度とピアノを弾いた。
それでも、お昼ごろに聞いたピアノの音が頭を離れなかった。こっちが聞く曲であり、あっちは聞かせる曲だ。
複数回と繰り返し、音を聞くたびに、再生回数が十とつかないビジョンが見える。何だか嫌になった古賀宮は、ついピアノから離れた。気分転換をしようと、散歩に出かける。
今日は曇りの予報だったが、ぽつりと雨が降り出したようだった。
傘を持って、陽が沈みだした街へと飛び出す。
普段は決してこんなことはしない。
夜に出歩くなと親からは散々躾されてきたし、実際、古賀宮も怖かったからしようと思わなかった。しかし、今や高校生なのだ。多少古めかしい趣味の数々を持ち合わせている古賀宮といえど、今時の女子高生を名乗れるのである。
だからこれは、勇気の散歩なのだ。
雨がぽつりぽつりと傘を叩く。
その音は心地よくて、つい古賀宮はステップで跳ねながら歩いた。
鼻歌だって歌ってしまう。昔みた昔話のムービーに出てくるカッパの少女のように。傘をクルリとすら回してしまう。興奮気味の頬を、春風がわずかに冷ましてくれた。
いつもなら夕焼けに染まる頃。しかし街並みは、依然として薄暗いばかりだ。
車たちが水たまりを踏みながら、ヘッドライトをつけて走り抜ける様が、異様に感じた。見たことのない街の一部分、その秘密を知った気持ちだった。
ほどなく、散歩道は順調に進み。
いつも通りの散歩道を歩き。
お昼に立ち寄った、公園前まで来ていた。
わざわざ一日に二度も、公園に入らない。いつもなら。
薄暗く雨は降っているし、いつもなら人で溢れる公園は誰もいない。
つい、足を進めてしまう。
昼間、子どもたちがはしゃいでいた芝生の上。
今は水気がつのり、誰もいない。
都会で、初めてかもしれない、誰もいない閑散とした広い空間だった。
遠く雨の向こう、ビル群がみえる。自動車の走る音が遠くに聞こえる。
何より、雨の音が印象的だった。雨の音しかしないような気がした。
つい、空を見上げると、傘で隠れた曇天の空があった。
しばらく、その空間に浸った。
誰にも見られていない気がしたから。
満足して、帰路に着こうとする。
やはり取る道筋は昼間と同じで、そうすると必然、ストリートピアノをしていた場所に辿り着いた。野外とはいえ、雨が差さない場所に置かれたグランドピアノ。
賑やかな雰囲気を覚えているだけに、誰もいないその広場が、やけに寂しげにみえた。
傘を閉じて、入場する。
ドーム状に覆われたその場所は、演奏するように造られているようだった。楕円状の立体球形をしている。いつもならピアノの音を十分に届けるために役立てられるだろうドームは、今は雨音ばかりを反響させていた。
つい、つい。
目を閉じて、浸る。
途方もない雨が、雨音が、酷く降りかかる。
目を開けると、グランドピアノがあった。
歩みを進め、触れてみる。すると、そのピアノはとても冷たかった。
ただ流れのままに身を任せて、鍵盤を覆う蓋を開ける。
椅子に浅く座り、姿勢を正し、指を整える。
弾く曲は決まっていた。
ドピュッシー。月の光。
「えっ、古賀宮さん?」
「ッ!」
あっけらかんと。春の陽射しのようにのほほんとした声が、響く。
心臓が止まるかと思う程、びっくりした。咄嗟にピアノの演奏を止めてしまう。
彼がいた。クラスメイトの…そう、堂々と読み上げていた彼である。
「あっ、やっぱり古賀宮さんだ!違う人だったらどうしようと思ったよ。ごめんね、声かけちゃって。邪魔しちゃったみた――」
と、彼がお話をしようとする隙。
「えっ、あれ!ちょっと待って!?」
古賀宮はすでに逃げ出していた。
今までの人生では覚えがないほどの全力疾走っぷりだ。古賀宮至上、最も速いことに違いはない。本人は途方もない速さで駆けている気でいるが、その実、そんなに速くなかった。七転八倒とあったが、古賀宮は逃げ切ったのであった。
家に辿り着くと、親にはコッテリ絞られた。
「昨日、公園にいたのって、古賀宮さんだよね?」
もちろん、同じクラスメイトであり、しかも隣の席に座っているのだから、話しかけてくるのも必須だった。彼はコミュニケーション能力が高いのだ。コミュ障である古賀宮とは違うのだ。
「え、ええっと、その」
「桜野~、昨日はありがとうな~」
「あっ、桜野、くん」
古賀宮は彼、桜野の名前を憶えていなかった。偶然通りがかった、感謝する男子生徒の言を借りて、名前を呼ぶとようやく彼の目を見た。
髪の向こうに隠れているが、優しい目があった。
「えっと、ごめん。もしかして、あそこでピアノ弾いたの秘密にしたい感じ?だったら、うん、忘れることにするよ。ごめんね、つい。古賀宮さんが音楽をやってる人って知れて、何だか友達を見つけたみたいで嬉しくてさ」
「えっと、桜野、くんも。音楽やってるの?」
咄嗟に何か会話を続けようとひねり出した話題だった。
しかし、言葉が返って来ただけで、桜野はすでに嬉しかったよう。
眩しい笑顔で、会話を続けた。
「うん!僕はヴァイオリンをちょっとね。古賀宮さんはピアノだよね?昨日はピアノを弾いてたし。すっごく上手だったけど、習い始めて長いの?」
「えっと、そう、です。十年は、続けてます」
「えっ!?すごい、すっごい。すごいよ古賀宮さん。あっ、古賀宮さんって呼んでもいい?それとも何か、中学生の頃呼ばれてたニックネームとかある?」
「あっ、古賀宮で、お願いします。桜野、くん」
「えへへ、僕、古賀宮さんと話すのにちょっと憧れてたんだ」
人懐っこい笑みを浮かべ、桜野は自慢げにそういった。
古賀宮としては、どうして自分なんかと話すのに憧れるのかと、強く不思議に思う。
「だって、古賀宮さんってすごく、お嬢様っぽくてさ。今までそういう感じの人たちと話したことがなかったから、何だか新鮮でね。仲良くしてくれると嬉しいな」
「……は、はいっ」
途方もなく、唐突に。
古賀宮は初めてのお友達ができた。
会話はいつもとりとめがなく、学校行事の話からクラスメイトの話、そして二人の共通の趣味である音楽の話に辿り着くのが、もはや日常と化していた。
お昼ご飯は一人静かに屋上で食べていた古賀宮。そこには時々、桜野の姿も見られるようになる。
「そういえば」
「どうしました?桜野くん」
桜野が思い出したように零し、咀嚼で間が開くと、古賀宮が聞き返す。
飲み込むと、疑問の続きを聞く。
「古賀宮さんがあの日、公園で弾いてた曲って、なんて曲なの?」
「ドピュッシー作曲の月の光という作品です。あっ、月の光と呼ばれていますけど、昔は違っていまして。感傷的な散歩、もしくは憂鬱な散歩道と呼ばれていたそうですよ」
「へー、どうして変わったんだろう?」
「さあ。そこまではご存知ありませんが、ただ。たぶんですけれど。何も知らずに聞いた人が、露々と降り注ぐピアノの音色で、月の光が見えたからだと思うのです。私はあれ以上に、月を彷彿とされる曲を知りませんから」
「ああ、確かに」
どこか納得したように、桜野は呟いた。
そして思い出すように瞼を閉じる。
「レコードに収めておきたい。古賀宮さんの弾いてたのは、そんな曲だったね」
「ふふっ、過分なご評価です」
「本心だよ?」
「ええ、えぇ。ありがとうございます」
初めての友達とは、色々なことが初めて続きであり、古賀宮は当初困惑しっぱなしであった。しかし、週を過ぎるうち、だんだんと慣れてきた。
誉め言葉がただただ嬉しく、目を細めて。
さらに注意深く、目を細める。
いや、いや、と。反芻するように、満足感を否定し、自身の弱みを思い起こす。
決して、人様に聞かせられるような曲ではない。
誉め言葉は素直に嬉しい。
けれど、まだあの曲を自分のモノにできていないのだ。
「古賀宮さん?」
不思議そうな顔をした桜野が顔を覗き込んでくる。
意識の外から急に近づいて来たものだから驚いてのけぞってしまう。
しかし、それを含めて、桜野は朗らかに笑ってくれるのだから、何だか安心できる。
次から次へと、飽きない話題が出てきて、先ほどの状況がすぐに流れていく。
音楽の話から発展し、最近見ている動画の話へと代わる。SNSの画面を見せてくれて、この曲が良いとか、この動画が参考になるとか教えてくれる。
面白い動画から為になる動画まで、幅広いから見ていて飽きない。次々と動画が流れていくと、その中に気になるサムネをしている動画があることに気が付いた。
「すみません、桜野くん。その動画をみても良いですか?」
「ん?うん、もちろん」
すぐさまタップして、動画の再生を始める。
あの日、ストリートピアノをしていた人の動画だ。
私は確か、数十万と再生されるのだろうと予測していた。
投稿して一週間過ぎている様子だが、どうやら一万回と再生されているようだ。どうやら予想を裏切られたようである。あれほどの技量をもってして、埋もれてしまうのかと、戦々恐々とした。ネットの世界とは、空恐ろしい。
「んー、すっごい。上手だね」
「ええ、ですね」
古賀宮の戦慄も露知らず、桜野はやはりあっけらかんと言った。
「あれ、ここってもしかして。古賀宮さんがピアノ弾いてた場所?」
「…はい」
「その、さ。正直、聞こうかどうか、けっこう迷うんだけどさ。うん、まあ。すっごく気になっちゃってるし、聞きたいんだけど。どうして、あの雨の日、あんな夕暮れに弾いてたの?」
どうやら好奇心に駆られたようで、躊躇いがちに桜野は質問する。
「それほど特別なことではないですよ?ただの気分です。その日はどうにも、ピアノが上手に弾けなくて、すこし悩んでいて、ですね。気分を変えようと思って散歩をしていた傍ら、といったところです」
「あー、そうだったんだ。良かった良かった。実はご両親と喧嘩でもしたのかなって、けっこう気になってたんだよね。今時の女子高生が雨の中、あんな場所にいるって、そういうことなのかなッ、て思ってね」
「…ご心配を、おかけしたようですね?ごめんなさい」
「あっ、違う違う。勝手に僕が勘違いしただけだから、気にしないでよ」
「あー」と気まずそうに桜野は目線を反らした。
それでも、桜野はどうやら気になっていることを聞くことを選んだらしい。
「でもさ、古賀宮さんは悩むほど、ピアノの腕が悪いわけではないんじゃないの?正直、僕はピアノの曲をあんまり聞かないけど、古賀宮さんの曲はとても綺麗だったよ?」
「…ただ、綺麗なだけではダメなんですよ」
目を伏せて、古賀宮は言う。
そして、聞き返す。
「桜野くんは、このサイトに曲を投稿しようと思ったことがありますか?」
「…ははっ、真面目に答えるのは何だか恥ずかしいな。あるよ。というよりも、僕が音楽を始めたきっかけさ。SNSで音楽を聴いて、綺麗だと思って、僕も同じ感動を作りたくて」
桜野が同じ気持ちを持っていて、どこか古賀宮は嬉しく思った。
「私も、同じです。子どもの頃に、ピアノの動画で惹かれ、始めて。だから、私も投稿してみたいと、多くの人に見てもらいたいと、とても思うのです。浅ましくも」
「…だったら、僕も浅ましくなっちゃうな」
「あっ、そういうつもりじゃ」
「ッと、意地悪だったね。それで?」
続けて、と言わんばかりに。
いたずらな目線を向けて、桜野は促した。
「私は幼いころ、コンクールに出たことがあります。審査員の方がいて、評価と評論を下さるのですが。要約をすると、強弱をハッキリつけるよう言われました」
「なるほど」
「私の曲はどうしてもパッとしないのです」
そういって、録画した映像をみせる。
すると桜野は、どうにも微妙そうな顔をしつつ反応した。
「あー、なるほどね」
その反応だけで十分だった。
「んー、でも。あの日、聞いたピアノは、僕にとってはとてつもない感動があったんだけどなぁ。どうしてこうも違うんだろう?何が違うんだろう」
「うーん」と顎に手を当てて、桜野は考える。
「そもそも、という話なんですけどね」と古賀宮は続ける。「最近のトレンドは、曲調が激しめで複雑なものだと思うんですよね。クラシックは、文字通り、きっと時代遅れなんだと思うんです」
ストリートピアノの同じで。過去の天才が弾き続けた曲は、古賀宮が続いたとしても埋もれてしまうのだと、そう思わざるを得ないのだ。
「ピアノもそうです。刺激的で、創造的な弾き方というものが迎合される時代なんだと思います。私は静かで、冷たいくて、そして儚い曲が好きなんです。ですが、そんな私の曲は古臭くて、私はきっと、クラシックなんです」
思いの外。心に留めていた想いを零すと、次から次へと溢れてしまう。
ポロポロと、涙すらあふれ出してしまう。桜野はぎょっとするが、慌てた様子もなく、ただ落ち着いた様子で古賀宮の目を直視して、そして言う。
「僕はそうは思わない」
強い口調で言い切った。
真剣で、真面目な顔を向けて、桜野は古賀宮の手を掴む。
そして、やっぱり人好きのする笑顔を二かッと向ける。
「僕に任せて。次の雨の日、あの場所、あの時間。カメラを持って、集合ね」
彼がそういうと、意気揚々と歩き去っていった。
呆気に取られた古賀宮は涙を流していたことも忘れて、彼のその去り行く背中を見送った。あの場所、あの時間。明らかに公園で、夕暮れの事だと察しがついた。
そして、彼は次の雨の日まで、学校に来ることはなかった。
約束の日である。
雨の音が遠くに聞こえる。
古賀宮の中では、ぐるぐると思考が回っていた。
それはどれも疑問であり、桜野が何をしようとしているのかという事だった。
公園の広場には、数日ぶりにみる桜野の姿があった。彼は真面目な服装をしており、まるでこれからコンクールに出るような装いであった。黒い燕尾服で身を包んでいる。長い前髪は上がっており、普段は隠れている目が露出している。綺麗な目だ。
「古賀宮さん!」
「桜野くん」
呼ばれ、応える。
笑顔で手を振る彼に、何だか古賀宮は呆れてしまった。
「ビックリしましたよ。とつぜん数日も休んでしまわれるんですから」
「へへっ、それもこれも、今日という日の為なんだよ。さて、古賀宮さん。カメラは持ってきた?あっ、それから言い忘れてたけど、マイクも」
「ええ。何となく、必要かなと思って、両方持ってきましたよ?」
目が見えている分、普段よりも男前で、桜野は自信満々に笑みを深める。
「セットするよ。察してると思うけど、今から曲を弾く。さあ!古賀宮さんも、一緒に。……いや、ちょっとかっこつけさせてもらおうかな?」
そういい、桜野は膝をついた。
咄嗟のことで驚いて手で口を覆てしまう。
意に介さず、桜野は続ける。
「古賀宮さん。私と一緒に、一曲お願いできませんか?」
「…デュエットを?」
「いいえ、オーケストラを」
その意味を掴み切れず、古賀宮は不思議そうな顔をする。
その顔に満足したように、またいたずらな笑顔をみせる。
つられて、古賀宮はめったに見せない笑みを浮かべる。
その内で、古賀宮は手を載せて、エスコートを受けた。
「よろこんで」
手を引かれ、ピアノの前まで歩く。
古賀宮が椅子に座る頃、ピアノの近くに用意していたのか、桜野はヴァイオリンを取り出していた。恰好はすでに初心者のようにみえず、様になっている。
弾きはじめは彼だった。
曲はドピュッシー、月の光。雨の音に紛れて、芯の在るヴァイオリンの音色が響く。
彼女もまた弾き始めた。合わせの練習はしていないというのに、その入りは完璧だった。非常に心地の良い音色が辺りに響く。観客はいない。
薄暗くなったホールは、太陽が沈むのに合わせ、徐々に暗くなっていく。雨の音が徐々に大きくなっていき、ピアノとヴァイオリンに合わさって、ひとつの音楽となっていった。いつの間にか、身体を震わせていた。否、魂が震えていた。
それはまさに、彼女の求めていた曲であった。
彼女が求めていた、オーケストラだった。
ピアノの残響は、雨の中で消えていく。
二人とも、その世界を壊し難くて、どちらも一歩も動かなかった。
やがて、桜野は誰もいない客席に向けて、礼をした。慌てて、古賀宮も立ち上がり、礼をする。立ち上がるとき、慌ただしい音がなったのが、酷く恥ずかしく思った。
それが皮切りだったのだろう。
桜野はようやく、古賀宮の方を向く。
その顔はとんでもなく満足げで、きっと自身もそんな顔をしているのだろうと、古賀宮は思った。そして、いつもよりも遥かにすがすがしい笑顔で桜野は言う。
「ほら、やっぱり!」
「……?」
「古賀宮さんのピアノは、雨のためのピアノなんだよ。雨の日を最高にする曲なんだよ。静かで、冷たくて、儚くて。だからこそ、雨と馴染むんだ!」
まず古賀宮は、その言葉の意味を理解して。そして、飲み込み。反芻した。
その言葉は、身体のなかをすっと抜けるようであり、ひどく浸透するようにも思えた。かつて形容したように、古賀宮のピアノは雨のような音色であった。だからこそ、雨と馴染むのだ、と。桜野の言葉が、どうにも嬉しくてたまらなかった。
「ええ、ええ。ありがとうございます」
「どういたしまして」
涙がぽつりぽつりと溢れて来る。
ぐいぐいと手で拭っていくけれど、とめどなく溢れる。
桜野は黙ってハンカチを渡し、そして静かに見守った。
「ありがとうございます。桜野くん、ハンカチ洗って返します」
「うん。喜んでもらえたようで何よりだよ、古賀宮さん」
まだしばらく、涙を流す。
その無言は、雨の音で包まれており、とても心地よく思った。
ようやく泣き止んだ頃、桜野は取り付けていたカメラを持ってくる。
「カメラで撮った動画。一緒にみてみようよ」
「ええ、見てみましょう」
まるで現実でないような、そんな動画が再生される。
先ほどまで、全身で受け止めた感動が、思い起こされる。
目を閉じて、聞き入る。自分がこれほどの曲が作れたのかと、感慨に耽る。
「これだったらいいでしょ!」
「……?」
果たして、何に対して“良い”と言っているのか。
古賀宮は元々、桜野が何をしようとしていたのか聞かされていないため、疑問に思う。
「ほら、SNSに投稿してみようよ!」
「!……で、でも」
「ふふーん、古賀宮さん?再生数っていうのは、どうだっていいんだよ。そう、悲しき現代人は数字に惑わされるものだけどね、本質はそこじゃないの。動画っていうやつの本質は、どれだけの回数みてもらったかじゃない」
桜野は数日前、屋上で宣言したように断言する。
「僕たちの原点は何だった?思い出してみてよ」
原点。古賀宮はとっさに、数日前の屋上で話したことを思い出した。
「……私は、ピアノの音色に感動して」
「そう。僕なら、ヴァイオリンの音色に憧れて。そして、感動を共有したいと思った。だからこそ、動画を投稿してみたいと思った。これが僕たちの原点だ。……それにね、その感動を共有したいっていう対象は、別に赤の他人だけじゃないんだ。匿名の誰かさんだけじゃないんだ」
「え?」
「僕と君」
疑問のまま古賀宮が不思議そうな顔をしていた。知らない人でないなら、いったい誰にみてもらうのだと。そういった表情である。
そして、桜野は自身と古賀宮を指さして、応えた。
「動画っていうのは便利なものだよ。こうやって、感動したものを残しておけるんだからさ。いいじゃん、誰が見なくたって。僕たちは感動したんだよ?いつか未来の僕たちも、もしも動画を投稿しておけば、この感動を思い起こせるんだ。やろうよ」
「はい……。そうですよね。感動させたかったんですもの。何だか、忘れていた気がしました。ありがとうございます、桜野くん。帰ってから、さっそく投稿してみます!」
古賀宮はひとつ勘違いをしていたのだ。
どうして動画を投稿してみたいと思ったのか。それは間違いなく、感動を共有したかったからだ。自分の好きな音色を、聞いて欲しかったからだ。もちろん、多くの人に聞いて欲しいとは、やっぱり思う。それでも、感動させる数十万人も、始まりはたったの数人からで―—その中には、自分だって含めていいはずなのだ。
日はすでに落ちてしまった。
夜はもう危ないという事で、桜野が古賀宮を家まで送り届ける。
そして、古賀宮はその日の内に、演奏した曲を投稿したのだった。
結論から言おう。一週間と経つうちに、動画が再生された回数は五十二回であった。
その内、五回は古賀宮本人が再生したもので、つまり誰かが四十七回も再生したのだ。そして、高評価はすでに七とついており、たった一つのコメントもあった。
『好きです』
誰かが、この曲を好いてくれた。
ただそれだけで、古賀宮は心の底から救われたような気がした。
満月の夜。窓際で月の光を浴びながら、明日の学校を想像した。
さて、桜野にどうこの感動を共有したものか、と。
思いを馳せつつ。
六度目の曲を、聞き入る。
桜野翔太は夜が好きである。
静かな夜が好きである。冷たい夜が好きである。
満月が満ちた窓の際で片足を付き、壁にもたれかかる。
月明かりばかりの暗い部屋で、自身のスマホを見つめていた。
『好きです』と。書いた文字を眺めていた。
その夜は、満月の綺麗な夜であった。
「月が、綺麗だな」
なんて。想いを零してしまう程に。
もう一度、その曲を再生した。