消去される人生
モノローグ
偽造の世界に来てからもう3か月。
一時は責任から逃れたくて身を投げたけど、献身的なサポートのおかげでまた立ち上がることができている。
男女2人だけの生活っていうのは、嫌でも意識されるもの。
3か月前に女子寮で会った時にできた感情もあって、毎日モヤモヤしたもので頭がいっぱいになる。
それでもダメだから、きっと後悔するから、自分で自分をそう押さえつけて目を背ける。
でもその日は、抜けていたといえばいいのかな。
「今晩のご飯はどうしようか?」って相談しようとノックもせずにドアを開けてしまった。
どうやら着替え中だったらしく、両腕を上げてシャツを被る途中の彼。急いで頭を出した彼の表情は、怒りではなく謝罪だった。
見たくないものを見せてしまったと、申し訳なさそうな顔だった。
私にとってそれは……お目汚しになるとも知らずに。
頭の中が何かで覆われていく。それが何かはわからない。
反復し続けても私に答えは出ない。出ないけど。
何かが吹っ切れたことはよくわかった。
今まで悩んでいたこと、私の心の中にあった想いを、いろいろぶつけたくなった。
大丈夫、きっと大丈夫。
彼は、あの人なんかじゃない。
そう、言い聞かせる。
キョトンとする彼を見ながら後ろに手をまわし、ドアを静かに閉め鍵をかけた。
私の肌を、彼以外に見られないように。
生徒会との話し合いが終わったその日の夜のこと。
「たまには健康なんて無視して欲望の赴くままに食べてもいいよね」
自室で夜ご飯の準備をしながらそんな独り言をつぶやく。
今日はベーコン多めのホットサンド。
『野菜が少ない!』って頭の中で指摘されてるけど聞き流す。
「テレビ見よ」
最近、料理をしている間にテレビを点ける癖、というものが僕の中で生まれたことに気づいた。
料理中にテレビから聞こえる情報を脳に入れることに効率性を感じているからだろう。
『こちらにいる男性はなんと前世の記憶があるそうです。会ったこともない人の情報を知っていたり、知らない言語を話せたり、普通じゃありえない体験がいくつも起こっているそうです』
「へえー、前世か」
この人は間違いなく前世の記憶はないだろうけど、魔法使いの世界でも前世については研究がおこなわれている。まあ、何百年も続けて未だになーんも成果ないけど。
「スンスン、焦げ臭い?」
手元を見ると、ホットサンドメーカーから煙がモクモクと出ていた。
「……」
どんな結果なのか開ける必要もない。
「今日も苦いパンか……」
って納得できるならよかったんだけど、今日は何故か失敗を帳消しにしたくなり焦げたパンをパン粉にしてそのまま魚のフライを作ってやった。当然まずかった。
体が重い。
朝、鳥の鳴き声によって目が覚めて最初に気づいたことだった。
不調による重量感というわけではなく、筋肉そのものが衰えたことから来る重量感。
そして次にわかったことは、魔法を使ってもいないのに体内にある魔力が異常に少ないこと。
瞼が重いままベッドから出て博士へ連絡するためにノートパソコンのもとへ向かう。明らかに体に異常をきたしていて危険だ。
目が覚めたばかりで視界が霞んでいるが、感覚でノートパソコンのある机へ。
「椅子はどこ?」
いつもあるはずの場所に手を伸ばしても椅子に触れない。
昨日椅子移動させたっけ? でも僕いつも定位置に戻すはずだし……。
椅子に座るより前に視界を鮮明にすることにシフトし、指で目をこする。
「……どうなってるの?」
鮮明になった視界から見えたのは、1回だけ見たことのある部屋だった。
それはまだ僕がこの学校に来て1日目、つまり初めて学生寮の自分の部屋に入った時の最低限度の生活必需品しかないミニマリストの光景。
見当たらない、僕の私物が何1つ。
盗まれた? でもどうやって? というか何が目的で?
「博士にどうやって連絡しよう」
まずは体の異変だよね。
これほっといたら場合によっては周りの人にも迷惑かけるかもしれないし、私物が無くなったことよりもこっちを優先した方がいいはず。
今日は学校休んでバスと地下鉄で先生のところに行こう。職員室に行けば電話もあるはずだし。
そうと決まれば急いで準備……そういえば服もないのかな。
クローゼットを開けてみると不幸中の幸いか、いつもの学生服だけがハンガーに掛かっていた。
「うぅ、昨日の下着を履いたままって気持ち悪い」
しかも靴下と靴はないから裸足で学校まで行かなきゃいけない。
「裸足で外歩くなんて研究所から出た日以来だな」
誰の声もしない静かな通学路を歩き学校へ。
エントランスホールに着くと上靴はあったのでそれを履いて職員室へ。
「失礼します。験実先生、少々よろしいで――」
誰もいなかった。
時刻は午前6時30分。前はこの時間でも験実先生はいたからいるかと思ったんだけど。
まあこっちから行かなくてもホームルームの時間になれば験実先生の方から来るし、教室で待ってるか。
朝のホームルーム10分前になった。
なったけど……。
「なんで誰も来ないの?」
この時間になったらさすがに誰か来てるはずだよね。
今日が休校なんて連絡聞いてないし、そもそも休校でも教師1人ぐらい姿が見れてもいいはずなのに、廊下も窓の外にも人の影1つない。
あ、今竜胆先輩が裸足で来た。
「はだし⁉」
まさか竜胆先輩も私物を盗まれた?
「誰の仕業だ? 許されることじゃないぞ……」
博士の家に行ってる場合じゃない、急いで犯人を血まつ……って違う!
そんなことよりも僕がやるべきことは竜胆先輩が不安にならないよう支え……ってこれも違う‼
いろんな怒りや心配が次から次に出てきて何がしたいのかわからなくなってくる。
落ち着こう。竜胆先輩ももう高校生だ。自分のことは自分でできるはず。
いや、窃盗に高校生も何もないだろう。大人だって1人で対処できないんだから竜胆先輩ができるはずがない。
というか僕もやられた側だし。人の心配する前に自分のことをどうにかしなきゃ。
あ、そうだ。そういえば今体に異変があったんだった。博士の家に行かなきゃ。でも竜胆先輩のことは……。
「……職員室行こう」
大人の判断に従うことにしよう……ちゃんといればだけど。先生なら竜胆先輩の方も見てくれるだろうし、それがベストだ。
机に置いてた握り拳をゆっくりと引っ込める。
爪が手の平に食い込んでたみたいだ。とっても痛い。
「みんなどこ行ったのかな」
職員室へ向かうも、道中誰ともすれ違わない。
「失礼しま……まあやっぱりいないよね」
教室や廊下に誰もいないんだから、職員室だって同じじゃない方がおかしい。
明らかな異常事態。この学校にはもう僕と竜胆先輩以外いないのか?
「なんで僕の周りはいつも変なことが起こるのかな。漫画の主人公じゃあるまいし」
験実先生の机にある電話を手に取る。
勝手で申し訳ないけど、職員室の電話で博士に連絡しよう。繋がればだけど。
初めて見る固定電話の受話器を耳に当てて、博士の家の電話番号にかける。
15秒ほど待っても耳に入ってくるのは、一定間隔で鳴る機械音だけ
「……繋がんないか。この時間ならもう家政婦さんがいるはずなんだけどなあ」
博士の家に誰もいないんじゃなくて、学校の方に異常があって繋がらないのだろう。
一体この学校で何が起こってるんだ? というか、ここって本当に僕の知ってる魔法学校なのか? 物の配置は同じだけど、いつも先生たちの机に乗ってるプリントやファイルが見当たらない。大掃除をした後のように綺麗だ。なんか引っかかるな。
いろいろ考えていると廊下から足音が近づいてきて職員室の扉が開かれた。
「失礼しま――あ、青銅君! チグハロー!」
「ちぐはろー、です。竜胆先輩、今朝裸足で登校してましたよね。あなたも部屋の物が無くなったんですか?」
「あー、その様子だと青銅君も同じ感じ? ビックリよね。朝起きたら体はおかしいし、私物は全部なくなってるんだもん」
「それにしては動揺がありませんね?」
「部屋の中で散々考え込んだからね。そのあと友達の部屋に行っても誰も出てこないから、勇気を出して裸足で来たのよ。先生に話せば何とかしてくれるかもしれないし。でも職員室もこの様子じゃあ無駄足だったみたいね」
じゃあやっぱり先生だけでなく生徒もいないのか。
いや、いなくなると決めつけるのは早い。誰かの部屋に押し入って中を見たらいるって可能性も。
「ん?」
また廊下から足音が近づいてきた。
誰だ? さっきは竜胆先輩だってわかってたけど、ここに竜胆先輩がいる以上別の誰かになる。
今の状況を作り出した元凶か?
竜胆先輩は動揺している。僕が守らないと。
竜胆先輩の前に出て扉を凝視する。
足音は扉の前で止まり、開いた。
「……やはりここにいたか」
知らない男の声。黒いコートで身を包み、顔は深く被ったフードのせいで口元までしか見えない。
完全にファンタジー系の漫画やゲームなんかで見る典型的な怪しいフードの男だ。
魔女狩りがおこなわれていた時代に魔法使いの間で流行してたって聞くけど、実際に見ると……まあ……うん。
「問題が起これば大人に頼る。それは人間のほぼ全てに共通する思考。そこには魔法など関係ない」
気取った喋り方。あまりのダサさに気が抜けそうになるけど、今の状況で人を見た目で判断するのはダメだ。
両手をフリーにして無理矢理臨戦態勢をとる。
不調な体だけど、竜胆先輩を守らないと。
「身構えなくてもいい。どうせ君たちは死ぬ。ワタシが手を下さずともいずれ」
手のひらを前に出し警戒する必要はないと語る男。
死ぬとか言ってるんだから必要に決まってるよ。
「今君たちが知りたいことを説明する。ここは記憶を参考にして現実とそっくりに作ったワタシの脳内の世界。簡単に言えばジオラマの中だ。よくできてるだろ。君たちにはここに300年いてもらう」
脳内の世界? ここは現実じゃないのか。それにしては精巧に作られてるな。
「ここが脳内の世界ってことは、じゃあもしかして僕達の体も……」
「察しがいいな。お前の想像通り君たちのその体は本物ではない。ワタシの脳内で作った体に君たちの精神を入れたもの。現実にある君たちの本体は今もベッドでぐっすり眠っている」
つまり僕たちの体と精神を別々にして、精神だけが目の前にいるフードの男の脳内に送られたってことか。そしてフードの男が予め脳内で用意してた体に僕達の精神を入れたと。
「それで体は重いし体内の魔力も少ないのね。この体はあなたが作ったもの、そっくりなのは見た目だけで中身は別物だから」
竜胆先輩も自分に起こったことを理解したようだ。
「その通りだ。途中で大暴れしてこの世界から抜け出されては困るからな。あえて弱い体を作った」
ウンディーネ君が掛けてきた夢を見せる魔法と似ているな。でもあれはみんなが望んだ夢を見られる世界を作り、そこで夢を見ていただけ。殺すつもりがなかったからだろうけど、僕達の体は特に変化はなかった。
「なぜこんなことを?」
素直に話してもらえるとは思っていないけど、一応聞いてみる。
「さっきも言ったが、この世界で300年過ごしてもらうためだ」
それがわからないから質問してるんだよなあ。
「聞きたいのは、どうして300年もあなたの脳内にいなければいけないのかってところです。それに仮に今僕達が不老不死になっていても、精神の寿命は150年程度しかないから300年も生きられませんし、そもそもどうやって300年という長い間僕達をここに軟禁するんですか? あなた300年も生きていられるんですか? あと現実で2日も音信不通になれば外部の人間から何かしらの接触があるでしょうし、そうなればすぐ僕達の精神は本体に戻されますよ?」
「……」
フードの男の口が塞がってしまう。
答えを待っていると、竜胆先輩が耳元で囁いてきた。
「青銅君、1個ずつ聞かないとダメなんじゃない? 多分質問が多すぎて困ってるわよあの人」
「え、この程度でですか?」
囁き返すと、聞こえていたフードの男がムッとしすぐに口を開いた。
「ここに閉じ込めた理由は、ワタシは君たちに恨みを持っているからだ。昨日君たちがしたことはワタシにとって不利益極まりないことなんだよ」
怒気が含まれた声。なんだか情けなく見えてきたな。
「昨日したことって……ステージ発表のルール変更のことですか?」
「そうだ。動画使用が禁止になれば間違いなくワタシのクラスは貼り絵、模擬店、ステージ発表の三種目全てで優勝できる。それを君たちが邪魔した」
男のその言葉に僕と竜胆先輩は……
「「そんなことで⁉」」
呆れて勢いのまま口にしてしまった。
いや、ホントにそんな理由で他人を脳内に閉じ込めるって理解ができない。
今まで関わってきた人の中で一番意味不明な動機と言ってもいいぐらいに。
「ふん、君たちのような上を目指さない者にはわかるまい。ワタシは今度の文化祭は絶対に優勝しなければならないんだ。優勝さえすればワタシは推薦へ一歩近づける……」
推薦?
なんのことか考えていると、竜胆先輩はわかったのか指パッチンして話し始めた。
「ああ、そういうこと! あなた今回の文化祭で自分のクラスのリーダーになったんでしょ。それで優勝すれば必然的に先生たちはリーダーであるあなたを評価するから大学の指定校推薦を貰える可能性が高まる。で、そのために今まで計画してたけどアタシたちが邪魔した。だから腹いせに脳内に閉じ込めて殺そうってことね」
そういえば魔法学校にも大学の指定校推薦があったっけ。
大学は行くつもりがなかったからほとんど調べてないし全然思いつかなかった。
推薦って学力とか部活の成績でしか評価されないと思ってたけど、文化祭も関わってるんだね。
「小さい男。そんなことで人を殺すの?」
同感。将来的なことを考えれば大学は重要だが、それでも人を殺すほどではない。
あまりにも視野の狭い判断だ。
「でもそうだとしたら、300年という時間は意味がないのでは? 今ここで僕達を殺せば精神は死ぬので、それだけでもう現実の体は目覚めることはありません。ちょうど弱い体にされてますし、この方が確実ですよ」
何故わざわざ300年という長い時間を僕達に与えているんだ?
「確かにここで君たちを殺すのは簡単だ。だがワタシはズルく慈悲深いのだよ。君たち程度のためにこの手を血で汚すなど御免だ。ならば君たちが勝手に死ぬようにすればいい。300年もすれば必ず精神の寿命が来て死ぬ。そうなれば邪魔者はいなくなり役立たずな高田を上手く動かしてまたルール変更させればいいんだからな」
……僕達を脳内に閉じ込めた時点でもう手は汚れてると思うけど、話が進まなさそうだからツッコまないでおこう。
「じゃあ次の説明をしよう。確か君はさっき300年間この世界に拘束する方法を聞いたね。答えは簡単だ。ここはワタシの脳内の世界なのだから時間操作など造作もない。君達も『場面転換』というのを知ってるだろう。演劇などで使われる、観客に物語の進行をスムーズに伝えるためにキャラクター達との時間の流れを変える技術。それを使えば観客であるワタシにとっては瞬きにも満たない時間でも、君たちにとっては300年という途方もない時間にできる」
なるほど。確かにそれなら可能だ。
ドラマやアニメではカットを挟んで次の場面が1年後とかざらにあるけど、僕達が知ることができないだけで、その1年間にもキャラクター達の人生がある。
ここが脳内の世界なら、好き勝手にそういうことができて当然だろう。
実際僕も脳内で勝手に未来の自分を想像したりしてるし。
浦島太郎の逆バージョンみたいだな。竜宮城でおじいちゃんになるまで過ごしたあと亀に乗って地上に戻ったけど、地上では1秒しか経っていなくて玉手箱を開けたら若返りましたってところか。
でもそうなると現実の時間はほとんど進んでいないから、精神の寿命の件は意味がなくなるのでは……?
「さて、これで君からの質問は全て答えれたかな。他に何か聞きたいことはあるか?」
……気づいていないのかな? でも指摘したらなんらかの対策をしてきそうだし、このまま黙っておこう。
「あ、じゃあアタシから聞くわ。今目の前にいるあなたを倒せば、アタシ達はこの世界から出られるのかしら?」
お、良い質問だ。
確かにこうして犯人が近くにいるのだから、試さない道理はない。2対1で人数はこちらが有利だし。
「ふ、それを予知できないほどワタシがバカだと思うか? さっきも言ったが君たちの体は弱く作っているのだよ。当然2人がかりでもワタシを倒せないぐらいにね。無駄なことをすれば取り返しがつかなくなるぞ」
「あちゃー、そう簡単にはいかないか。ごめんね青銅君」
合掌しながらこちらにウインクする竜胆先輩。
なんで僕に謝るんだろう?
「他に聞きたいことはないか?」
そしてフードの男は結構律儀なのかな? 何度もそう聞いてくる。
無言でいると質問がないことに納得したのか、「そうか」と呟いた。
「ここで衣食住に困ることはない。それにワタシから1つ君たちにプレゼントを用意している。それは定期的に贈られるから覚悟しておくように。では、300年後に死体となった君たちを楽しみにしていよう」
そう言うと目の前が黒く染まり、明るくなった時にはもうフードの男がいた場所には影すらも残っていなかった。
残された僕達は……。
「プレゼントって何のことかしら?」
「さあ? 覚悟とか言ってたので碌なものではないのでしょうね」
「……この後のことを考えましょうか」
「そうですね」
冷静に頭を回転させることにした。
話し合った結果、本当にこの世界から出る方法はないのか? まずそれを確かめることにした。
では何を基準に出る出られないを決めるのか?
それは単純に、この世界の端を見つけることだ。
この世界が無限に広がっているなら出ることは不可能、逆に端があればそこから出られる可能性有りと判断できる。
問題は世界の端まで行けるような高速の移動手段があるのかどうかなんだけど、そこで1つ思い出したことがあった。
魔法学校の職員玄関には教師達が普段使っている箒が置かれている。
ここがフードの男の記憶から作られた世界なら、箒もあるだろうと思ってそこに行ったらやっぱり当たっていた。
「本当に大丈夫かしら、これ。私箒を操縦するの初めてなのよ」
「僕も初めてですけど、やるしかありません。僕達にはこれぐらいしか移動手段がありませんから」
誰のかわからない箒を2本拝借し、またがる。
本当は18歳以上かつ免許がないとダメだけど、この際仕方がない。
「とりあえずひたすら上へ飛んでみましょう。それが世界の端へ行く一番の近道です」
自分の理想の世界を想像するとき、人は縦ではなく横から作っていきがちだ。なぜなら宇宙は謎とロマンが多すぎるから。それなら身近である地上メインで考えた方が面白いしやりがいがある。
なら、想像が疎かになる空なら壁があってもおかしくはない。宇宙なんてスケールの大きすぎるものは、どれだけ考えても人1人では限度があるのだから。
「じゃあちょっと試しに飛んでみましょうか」
「そうね。確かママはこうやって――うわッ⁉」
「大丈夫ですか⁉」
箒が一瞬浮いたと思ったら、またがっていた竜胆先輩は回転して地面に落ちてしまった。
「いたた……意外とバランスをとるのが難しいのね、これ」
僕も試しに浮いてみる。すると箒は上にではなく前に進み、そのまま学校の壁に激突してしまった。
幸いだったのは、速度が全然だったことくらいか。
「ちょっ、大丈夫⁉ 大の字でぶつかってわよ」
「だ、大丈夫です」
何かが上唇の上らへんを移動している。
「あ、鼻血」
「え? あ、ホントだ」
違和感があるところを人差し指で触ると、血がついていた。
鼻血ってこんな感じなんだ。もっと痛いと思ってたけど、鼻水とそんなに変わらないんだね。
出血量は切り傷よりも明らかに多いのに、痛みはそれ以下。不思議だ。
「すぐに拭かなきゃ制服に付いちゃうわ」
そう言って竜胆先輩はポケットティッシュを数枚取り出し僕の鼻に当ててきた。
「用意が良いですね」
「ティッシュとハンカチは常備するものでしょ。職員室の落とし物コーナーから持ってきたのよ」
至近距離なため、必然的に目が合ってしまった。
真剣な眼差しで僕の鼻を見ている。
「もう大丈夫です。あとは自分でやりますから」
少し強引に鼻に当てられたティッシュから竜胆先輩の手を離す。近くで見られることに抵抗が湧いてしまったからだ。
「あ、うん……」
竜胆先輩は僕から離れると、無言で箒を持って空を飛ぶ練習を再開した。
落ちて、落ちて、何度箒から落ちてもまた立ち上がる。
真面目に、真剣に、できないことをできるようになろうとしている。
その姿に僕は何故か心底安心している。このまま成長してほしいと願っている。
「あ、できた! 青銅君見て見て! できたよー!」
8回目の挑戦で箒から落ちずにその場で浮くことができた竜胆先輩は、僕の方を見て嬉しそうに手を振ってくる。
「よかった……」
小さな声で自分に向けて呟く。
「次、青銅君の番だよ」
「……ええ、そうですね」
鼻血が止まったあと、僕も飛べる練習を再開する。
飛べるようになるまでに13回も落ちてしまった。
「一定距離で魔法を放ちましょう。雲以外に当たれば、それが世界の端です」
並列で飛びながら、お互い交代交代で遠距離に飛ばせる魔法を放つ。
魔法を放つ理由は、安全のためでもある。箒は車と違って何かに守られていない上に、移動場所ははるか上空。何かにぶつかって落ちれば、確実に死ぬ。
「あ、消えた!」
1000メートル付近まで来た頃、竜胆先輩の放った炎弾が何もない場所で飛び散った。
「青銅君の言う通り、やっぱり端はあったのね」
「問題はこれを壊せるのか。そして壊せたとしてもこの世界から出られるのか」
触ってみると、透明なガラスのようなものが空に張り付けられている。
ガラスの向こう側にも景色はあるから、ドーム型の植物園に閉じ込められたような感じかな。
「はあッ! ……痛い」
いろいろ思考している間に、竜胆先輩はパンチで壁を壊そうとしたようだ。
魔法で作ったものなので当然壊れるわけもなく、右手が赤くなっている。
「なるほどね。なら今度は魔法で体を強化して……」
さっきよりも大きな音が響くけど。壁はびくともしない。
「何をやっても無理だと思いますよ。フードの人も言ってましたが、僕達の今の体はこの世界で作られたものです。当然壁を壊せない程度に弱くされてるでしょうから。そもそも壊せないという概念がある可能性もありますし」
「でも壁があったら壊すものでしょ。1人の人間で作られたものなんだから、私に壊せない道理はないと思うわ」
確かにその理屈はあるにはある。
でもその理屈を通さなくしたのがこの脳内の世界。
僕はさっきから気になっていることがあった。この世界に来てからおよそ4時間。朝食も食べていないのに、いまだ空腹を感じない。それだけじゃなく、臓器の動きを感じ取れない。
それにフードの人の弱くしているという発言。
これは僕の予想にすぎないけど、この体に成長という機能はないのかもしれない。
人の形をしているのは外側だけで、中身は綿だけの人形のようなもの。
だから体だけは成長はしないし、逆に衰えることもない。
「まずいなあ」
今僕達が助かる方法が全く思いつかない。
ウンディーネ君の時に験実先生が使ってた『夢から出られる魔法』みたいなものがあればいいけど、それを使えたとしても今の赤子並みの魔力量じゃ到底使えない。
竜胆先輩が殴った箇所には傷がついているわけではないので、物理的にこの壁を壊せるとも思えない。
「八方塞がりか……」
この世界から出るだけならあるにはあるけど……。
「竜胆先輩。僕の提案なんですけど――」
僕はほぼ確実に助かるであろう方法を伝えた。
しかし竜胆先輩は喜ぶどころか難しい顔をしている。
「もしその話が本当なら確かに私たちは助かるわね。でもそれって最後の一手じゃない? あまりにもリスキーだし諦めみたいなものよ。早計過ぎないかしら、それ」
「わかっています。僕だってできればこんな方法は取りたくありません。僕達に対する負担があまりにも大きすぎる。もしこれ以外の方法があれば、僕でも間違いなくそっちを選択します」
「つまり、あくまで私たちは詰んでいないってことだけを教えたかったってこと?」
僕は頷く。
今危ないのは、完全に希望を失うことだ。
何もかも諦めて、自殺でもすれば取り返しがつかなくなる。
「なら、意地でもほかの方法を探さなくちゃね」
「はい。とりあえず周囲を見て回りましょうか」
現状わからないことが多すぎる。
壁を見つけただけで、いろいろなところを見ていけば他に出られる方法が見つけられるかもしれない。いや、そうだと信じるしかない。
1時間ほど箒で飛び回ってみて、日本海に出た時のこと。
「竜胆先輩、あれ……」
僕はそこにあるはずのないものを見て驚愕した。
「わあ……」
僕はてっきりユーラシア大陸にでも着いたのかと思った。でもそこには……。
「エッフェル塔?」
フランスの首都パリがあったのだ。
「私達、いつの間にヨーロッパまで来たのかしら……」
箒で飛んでいるとはいえ、ありえないことだ。他の国を飛ばしていきなりフランスに着くなんて……。
「そうか! ここはフードの人の記憶で作られた世界です。逆にいえば記憶にないものは作っていない。それで日本の近くに無理矢理フランスを置いたんですよ」
「まさに脳内だからこそできる芸当ね。フランスか……中学と高校の修学旅行で行ったわ。日本海で見ることになるとは思わなかったけど」
「やっぱり日本の魔法学校は修学旅行でヨーロッパの方に行くんですね」
「日本では魔法は忍術として受け継がれてきたからね。あっちとは魔法の系統が違うのよ」
僕達は日本海のフランスに降りてみることにした。
「来たのは1年前だからそんなに覚えてないけど、かなり細かく作られてるわね」
「僕は来たことがないのでよくわかりません」
よくテレビで見る光景そっくりという感想しかない。
「ちょっと他のところも行ってみましょう。もしかしたら他の国も見れるかも」
そのあと箒であちこち飛び回り、ドイツ、イギリスとヨーロッパの国が海を隔てて置いてあった。
しかしアフリカやアメリカ、ロシアや中国などの国はなく、少し進んだら日本に戻ってしまった。
箒の最高速度が音速より少し上だと考えて、日本とヨーロッパだけの地球だとすると、僕達を閉じ込めてる世界はそこまで大きい球体ではなさそうだ。
竜胆先輩が修学旅行で行った場所とほとんど同じことから考えて、フードの人は修学旅行以外で外国に行ったことはないのだろう。さらに竜胆先輩と同学年の可能性が高い。
少しだけ、犯人の目星がついてきた。
あとはフードの人が言ってたプレゼントの意味はなんなのか……。
謎がほとんど晴れないまま、僕達は魔法学校に戻った。
どうやら太陽は動いているらしく、日が落ちかけている。雲が赤くなってて綺麗だ。
「んー疲れたー。箒の操縦って意外と体に負担掛かるのね」
いつもと体が違うという理由もあるのだろうけど、確かに僕も疲れた。
箒も車と同じで、神経に来るものなんだね。
「さてと、もう暗くなるし、今日はここまでにしてどこかで横になって休みたいわね」
「じゃあ魔法学校の保健室しかありませんね。今のところベッドがあるのはあそこだけでしょうし」
僕達の私物は全て消えてるし、見える住宅街は全てガワだけで、家具1つない。
ホテルなども同じだろう。つまりフードの人が記憶にある建物にしか使えそうなものは置いていない。
「ベッドは2つあったはずですけど、男女2人で保健室にいるのは気が引けますので竜胆先輩が使ってください」
「私だけなんてそんな不公平なこと嫌よ。それに青銅君もちゃんと休まないと」
「じゃあ保健室からベッドだけ移動して……」
「そんな面倒なことしなくていいわよ。魔力も箒でほとんど使っちゃったから魔法で動かすこともできないでしょ」
「じゃあどうすれば……」
まさか一緒の部屋で横になろうって言うんじゃないでしょうね。
「フッフッフッ、そんなの簡単よ。あれを見てみなさい」
自信満々に竜胆先輩が指さした先には、僕がいつも行っているショッピングモールがあった。
「……あ、そっか!」
「そういうこと。ショッピングモールならある程度のものは揃っているわ。ベッドも当然売り物として置いてある。あのフードが同じ学校の生徒なら、ショッピングモール内の記憶がないわけがないわ」
確かに。あの中ならなんでもある。
そして北海道魔法学校の生徒ならこんな近場にある便利なショッピングモールに訪れないわけがない。
「ワクワクするわ。私一度でいいからあそこに泊まってみたかったのよ!」
僕も同意見だ。
ああいうところで泊まるのは憧れてた。まさかこんな形で実現するとは思ってなかったけど。
箒でショッピングモールへ一直線に飛ぶ。
中は竜胆先輩の言う通り商品がびっしりだ。
「空腹にならないとは言っても、何も食べないっていうのも寂しいわね。青銅君、私ゼリーでも買おうと思うんだけど、一緒に来る?」
「はい。ついでに僕も何か作ろうかな……」
「青銅君料理できるの?」
「まあ、人並み程度には」
まだまだ経験不足だけど……。
「……ねえ、私も食べて、いい?」
「いいですよ。人に食べてもらうのも料理をする楽しみの1つですから」
どうしよう、ちょっと見栄を張っちゃった。本当は自信ないのに。
「あ、いいんだ……」
ん?
断られると思ってたのかな。
「じゃあ、量も多くなりそうなのでカート取ってきますね」
現実と同じように買い物かごを乗せたカートを押して野菜コーナーから回っていくことに。
早々に「これ食べられるのかしら?」とミニトマトを1つ口に入れて、「おいしい!」と喜ぶ竜胆先輩が微笑ましい。
ある程度の食材とカセットコンロを買い物かごに入れて、駐車場に出る。
なにせ今のところこのショッピングモールが唯一の寝床だから、できるだけ屋内は汚したくない。かといって魔法学校の家庭科室まで行くのは面倒くさい。
ということで僕が提案したらあっさり通ったので、今日の夜ご飯はショッピングモールの駐車場で食べることに。
「なんだかコンビニ前でカップラーメン食べる光景が浮かんでくるわね」
それは僕も思った。
偏見だけど、ガラの悪い人がヤンキー座りで食べてそう。
「じゃあ、鍋作りますね」
何故鍋なのか? 単純にカセットコンロを見て思いついたから。
それと自分でカセットコンロを使うのは初めてなので火力がイメージしづらく、焦げて失敗する可能性も考慮したからでもある。
鍋なら失敗することもなさそうだし、2人で何故か余裕こいているけど今大変な状況だし、美味しいものを食べさせてあげたい。
内容はいたってシンプルと思われる、白菜やもやしなどの野菜、豆腐、キノコ、それとタラ。
それらをまな板の上で切り、鍋に入れる。
ほんと鍋って簡単でいいね。
「先輩、できましたよ」
「お、ありがとう!」
お玉ですくった具材を取り皿に移し、汁も入れて竜胆先輩に手渡そうとする。
「……え?」
竜胆先輩が器に触れる直前、視界が突然真っ黒になった。
さっきまでいた駐車場はなくなり、竜胆先輩の気配もない。
代わりに伝わるのは水の中にいるような冷たさと浮遊感、裸で指一本動かせず目も開かない不快感。
思い出したくない記憶がよみがえる。
この感覚、僕が研究所のカプセルにいる時のものだ。視覚以外の五感が発達し、僕が完成する寸前の時の……。
「今日も反応なしか……」
もう二度と耳に入れたくなかった人間の声がする。
僕を作った研究者の1人。
「もう少し濃度を上げてみよう。痛みで反応があるかもしれない」
2人。
そうだ、この頃の僕は相手に意思を伝えられなかったから、研究者達は僕を失敗作だと一時期勘違いしてて、それでよくわからない薬品を大量にカプセルへ……。
「注入」
何万という毒虫が足から駆け上がり、全身が毒牙に嚙まれるような激痛。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
こんなに訴えかけてるのに誰も助けてくれない。
そうだ、あの時は毎日がこの繰り返しだった。
痛くて、嫌で、もう死にたくて、でも何もできなくて、それで心底腹が立って。
カプセルから出れた瞬間、僕は視界に入ったあの男を……。
視界がまた変わる。
夜空にコンクリートの地面。そしてカセットコンロの上に置いてある鍋。
僕が落としたと思われる、割れた取り皿。具材もこぼれている。
「今のは……」
完全に僕の昔の記憶。
いや、記憶なんてレベルのものではない。ほとんど昔にタイムスリップしたような感覚だった。
痛みの余韻がまだ全身に残っていて、上手く体が動かせない。
「これが、プレゼント?」
フードの人が言っていたプレゼントって、まさかこれのこと?
過去のトラウマ……それをもう一度体験させること。
確か定期的に贈るって言ってたはず。ふざけないでほしい。こんなもの何回も耐えられるようなものじゃない。
なんとも悪趣味極まりない。
「私のせいだ……」
横では竜胆先輩が体を小鳥のように縮こませて震えていた。
きっと僕と同じようになんらかのトラウマを見せられていたのだろう。
「私のせいだ……パパが死んだのは」
涙目で頭を抱える竜胆先輩に近づく。
「私が憧れなければ、パパは頑張ることもなかったのに……」
「先輩、大丈夫ですか?」
心配になり震える肩にそっと手を置く。
「いやッ、触らないで!」
しかし帰ってきたのは拒絶だった。
「ッ、すみません!」
怖がる竜胆先輩のことを気遣い僕の方からも距離を置く。
「心配だからって許可もなく触れるなんて失礼すぎました。本当にごめんなさい」
「……やめてよ……そうやって優しくしないでよ……本当は私のこと嫌いなくせにッ‼」
そう言うと、ショッピングモールの壁に立てかけてた箒を手に取り、逃げるように暗い空へ飛んで行ってしまった。
「すみません……」
もう見えない彼女に謝り続ける。
「だって、あなたの目を見てはいけないと思ったから……」
そんなふざけた言い訳をしてしまった。
あれから4日が経った。
この世界に出る方法を考えながら魔法学校で待っていたけど、竜胆先輩は帰ってこない。
まだよくわからないこの脳内世界で1人になるのは危険だし、探した方がいいのはわかってるけどできなかった。
僕の方から近づいてはいけない、1人にしてあげた方がいい、そんな遠くから見守るような思考が頭から溢れて仕方ないのだ。
4日間、何度も箒に手を伸ばそうとはした。しかし指が触れる寸前で止まる。
竜胆先輩と会うことに恐怖してる。会ったとして何を話せばいいのかわからない。
でも……。
「このままじゃダメだ……」
決心なんてついていない。最適な答えなど導き出せてない。
それでも話さなければ後悔してしまう。
箒を手に取って空へと飛んでいく。
この世界は広く見えて狭い。地球と比べればだけど。
だから考える、竜胆先輩が行きそうなところを。
あの人が今の状況で行きそうな場所は……。
「空だね」
僕は上空の壁に沿って飛んでいく。
北海道を出て、日本海のフランス上空へ。
すると、何かを強く叩く轟音が耳に入ってきた。
予想通り、竜胆先輩が壁を殴っている。
乗っているのは箒ではなく絨毯だった。きっとどこかで拾ったものなのだろう。
箒と違って絨毯の方がバランスは良いし、魔法も使いやすい。壁を壊すには最適な乗り物。
「竜胆先輩……」
気づいているだろうけど後ろから話しかける。
返答はなく、ただ魔法で強化した拳で壁を殴っている。
おそらく他のことはやり尽くしたのだろう。もう殴ることしか道を開く手段が思いつかなくなった。
「竜胆先輩、何をやっても無駄ですよ。その壁は僕達では壊せません。壊せない概念がその壁には含まれているんです」
僕も竜胆先輩に会う前にここから出られる方法を画策した。だけど、思いつかなかった。
この世界は、完全に孤立しているのだ。
「……そうとも限らないでしょ。こうしてればいつか道が開けるかもしれない。絶対に壊れないなんて、あるわけない」
「どうしてそこまで……」
僕はあえてこの言葉を放った。
わかっている、何故そこまでするのか。どうして出たいのか。
竜胆先輩は渾身の一撃とばかりに強く殴ったあと、背中を向けたまま悲しい声で言った。
「……だって私のせいだもん。この世界に連れてこられたのも、青銅君が巻き込まれたのも。青銅君の言う通りなら300年待てば出れるわ。けどもう無理。最初は強がってたけどこんな責任とトラウマしかない世界で生きてられる気がしない。私が招いた種は、私が何とかしなくちゃ」
そう言ってまた拳を突き出す竜胆先輩。赤く腫れてとても痛々しい。
「それは竜胆先輩のせいじゃないですよ」
責任があるとすれば犯人だけで、僕達に責任はない。しかしおかしい話で、人間は被害者や周りの人間の方の落ち度に目が行きがちになる。
僕が巻き込まれたのは確かに竜胆先輩が相談してきたからかもしれない。けどそれは罪でもなければ僕をここから解放する責任にもならない。
しかし竜胆先輩には聞こえていなかった。
ただただ壁を壊すために尽力するその後ろ姿に見てるこっちも胸が締め付けられる。
「これ、もしよかったら食べてください。中はおかかとツナマヨですから。……また来ますね」
絨毯におにぎりを4つ置いて、その場を離れることに。
4時間後。おそらく昼食頃。
「まだやってる……」
念のためにハムサンドを持って様子を見に来たら、まだ壁を殴り続けていた。
僕の作ったおにぎりは手が付けられていない。
「具が気に入りませんでしたか? じゃあこれ、置いておきますね」
ハムサンドの乗った皿を置いて、おにぎりの皿を持って離れる。
「……また来ますね」
また4時間後。多分夕食頃。
今度は鮭とすじこのおにぎりを持っていく。
休憩中だったのか、息を切らして壁を見つめていた。
「これもダメでしたか……」
ハムサンドも気に入らなかったらしい。
「……また来ますね」
今度は食べてくれるかな。
またまた4時間後。きっと夜食頃。
今度はちょっと趣向を変えて定食を持ってきてみた。さんまの塩焼き2匹にご飯とみそ汁、それとサラダ。
「……また来ますね」
手つかずのおにぎりを持っていく。
4週間後。
「ごめんなさい……」
「……え?」
先輩のために魔法学校の家庭科室で料理を作っていたら、突然彼女が現れて謝ってきた。
もう何をしても壁を壊せないと諦め戻ってきたらしい。
正直驚いて顔に出そうだったけど、先輩のためにいつものように振る舞う。
「おかえりなさい先輩。手、大丈夫ですか? 今保健室から手当てに使えそうなものを持ってくるので少し待っててください」
家庭科室を出るために先輩の横を通り過ぎようとしたら、血まみれの手で肩を掴まれた。
「ごめんなさい……」
「先輩?」
力が抜けたように姿勢を低くし、最後には顔が床につきそうなところまで下げる。そしてすがるように僕の両足を掴む。
完全に土下座の形だ。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――‼」
「え、先輩、落ち着いてください!」
肩を掴んで顔を上げさせると、涙目でこちらを見てきた。
「僕のことはいいんですよ。それよりも手の治療をしましょう」
少し強引に保健室まで運び、できる限りのことをしたあと手に包帯を巻く。
治療されてる間、ずっと先輩の顔は絶望に苛まれていた。床を見ているようで見ていない。
「しばらく休んだ方がいいです。今温かい食べ物を持ってきますから」
ベッドに座らせる。先輩はそのまま倒れるように横になり、毛布を頭に被せた。
料理を持ってきても顔を出すことはせず、完全に塞ぎ込んでしまったらしい。
傍にいるのは逆効果と思い自分の教室に行く。
こういう時、親はどうしているのだろう。やっぱり見守ることしかできないのだろうか。
僕にはわからない。塞ぎ込むより次の行動に移す方が良いと思っているから。塞ぎ込んだことが無いから。
それから6時間ぐらい経って、また目の前の景色が変わった。
さっきまで教室にいたのに、いきなりイデアフルールの花畑に来ていた。
そして目の前にはウンディーネ君がいる。
また過去のトラウマか……。
しかもこれ、ウンディーネ君が僕達に夢を見せた時の出来事じゃないか。あの時にトラウマになるようなことなんてあったかな?
「ウンディーネ君?」
あれ、今度は自由に話せる? この前のトラウマは何もできなかったのに。
少し困惑していると、物凄く不快なものを見るような目をしながらウンディーネ君は言った。
「話しかけるな。君と俺は友達じゃない。金輪際関わるな」
「……何言ってるのウンディーネ君?」
突然の罵倒にさらに困惑させられる。
こんなこと彼から言われたことがない。
「君のような人殺しの人間もどきを見てると反吐が出る。もう消えてくれないか?」
「……本気で言ってるの?」
だけどすぐに冷静さを取り戻しつつあった。
なぜならこれは知らない記憶だから。
「俺と友達だとでも思った? そんなわけないだろ。君と俺とじゃそもそも生物としての価値が――」
「何もしてない相手にウンディーネ君はそんなことを言わない」
僕は何かを言い切る前に魔法で炎を出して偽物のウンディーネ君を燃やす。
「偽物ならもっと忠実に作りなよ。彼はいつも自分を卑下してる。他人を見下してまで自己肯定なんかしない」
完全に燃え尽きると、景色が教室に戻った。
「今のは、この前のものとは違う」
おそらく、あれは僕が意識的に考えてる『こうなってほしくない出来事』だ。
つまり定期的に見せられるトラウマは記憶だけじゃない。
お化けに会いたくないなと思えばお化けに会う光景を、交通事故に巻き込まれたくないと思えば交通事故に巻き込まれる光景を。そういう人がよく想定している嫌なことを鮮明に体験させてもくるのだ。
あのフードの男は本当に性格が悪い。
「先輩?」
体の内側から異様な寒気を感じる。
僕がウンディーネ君のことならば、先輩はどんなことを体験させられていたのだろう。そして僕のように自分で出てこれたのだろうか。
心配になり急いで保健室に向かう。
「先輩!」
が、もうそこに先輩の姿はない。
窓は開けられていない。ということはまだ中か。
なんとなく箒と絨毯の置いてある職員玄関の方に行ってみる。
「やっぱり……」
箒が1本無くなっている。もう飛んで行ってしまったか。
まずい。今の先輩の精神状態じゃ何をするかわからないぞ。
箒を手に取り僕も外へ。
飛んでる姿が見えれば追えると思ったけど、その望みは消えた。
どこへ行ったんだろう。この広大な世界、手当たり次第に探せばいいってものじゃないぞ。
今までの行動から推理するんだ、先輩が行きそうな場所を。
「……………………ダメだ」
北海道だけでもかなりの選択肢があるんだからわかるわけがない。
最悪のケースで考えろ。今最悪なことは先輩が自殺することだ。
なら箒で飛んで行ったのは死にに行くための場所と仮定して、箒で落ちに行きそうな場所または有名な自殺スポットは……。
「全然思いつかない」
そもそもどこに落ちたいとかどこが自殺スポットなのかなんて知らないし、知りたくても情報収集の手段が無いこの状況でどうやって行けるのかって話だ。
「せめてスマホやパソコンがあれば……」
……いや、情報収集の手段が無いのは先輩も同じじゃないか。
なら、先輩は自分が知ってるところに行くんじゃないか?
「――北竜町?」
なんとなくそれが頭に浮かび上がった。確かここから北北東にある町だったっけ。
「確かあの場所には……それに先輩なら……」
これは賭けだ。もし外れれば先輩とはもう会えないだろう。
箒にまたがり全速力であの場所に向かった。
「懐かしいなあ」
この世界にもあってよかった。最後が何もない土の上だったら悲しいもんね。
最後にこの『ひまわり畑』に来たのはいつだっけ?
私が大好きな北竜町のひまわり畑。もう指で数えきれないほど来てる。
花が好きな私にとって一面に広がる花畑はまさに天国だった。
汚い人間と違って花に汚れはない。ただ伸び続けてるだけの純粋な生き物。
私も花になりたかった。花だけの世界に生まれたかった。人間になんて、なりたくなかった。
「もういいよね……」
あの世で会ったらパパは怒るかもしれないけど、構わない。
私にしてはこれまでの人生よく頑張った。もう楽になりたい。何も考える必要のない無になりたい。
箒から手を離し、足の力を抜く。
すると私の体はあっという間に回転し、落ちた。
下からの風は凄い。1000メートルぐらいの高さだったのに、花までの距離がもうそこまで来てる。
痛いだろうなあ。すぐに死ねるのかなあ。
死ぬつもりなのに何を不安がってるんだろう。
ホント私ってどこまでいってもダメなんだね。
「――い‼」
ああ、もう花に落ちる。
最後の抵抗のように私は目を瞑った。
「せんぱぁい‼」
……来るはずの衝撃があまりにも弱かった。というより、来なかった。
「せんぱい‼ せんぱいっ‼」
体が揺れる。
私は恐いけど目を開けた。
「……ぁ」
「生きてる⁉ よかった‼ 地面スレスレだったけどなんとか間に合いました」
……ひまわり畑の上を箒が走る。
なんでだろう、私は今私のことをお姫様抱っこしている青銅君(この人)のことを……
「パパ……」
突然パパと呼ばれたと思ったら胸に顔をうずめられてしまった。
先輩ずっと黙ったまんまでどうすればいいかわからないよぉ。
ずっと助けようと必死だったから、先輩をお姫様抱っこして箒に乗ってるって今更気づいちゃったし。
とりあえずここから離れた方がいいのかな、それとも降りた方がいいのかな。
「おろして……」
顔をうずめたまま先輩が言ってきた。
「……」
言われた通り、ひまわり畑の中に降りる。
地面に足を着けた先輩の顔は酷く暗い。
「えっと……落ち着くまで離れておきますね」
後ろを振り向いて少し大股に右足を出す。
逃げる気はなさそうだし、1人で考える時間が必要だろうと気遣ったつもりだった。
「いかないで……」
しかし先輩は違うものを求めてたようで、僕の背中の服を引っ張ってくる。
「ここにいて……」
「……はい」
「すわって」と言われたので背中を見せたまま体育座りをする。
何がしたいのかわからなくて困惑してると、先輩も背中を見せる状態で体育座りをしてきた。
互いの背中が当たり、先輩の体温が伝わってくる。
「どうして私がここにいるってわかったの?」
小さい声で聞いてきた。
「北竜町で有名なひまわり畑。ひまわりには15本で『ごめんなさい』という意味があります。いつも挨拶に花をつけてるあなたなら当然ひまわりの花言葉も知っている。だから……」
理由にはなっていない。でも来るならここだろうという謎の自信があった。
「……わかってたんだ。私の挨拶のこと」
「あなたがいつもしてる独特の挨拶。あれは状況に合わせた花言葉を使ってますよね」
「花が好きだからね。それに私、自分の思ってることを話すのがあまり得意じゃないから、いつも花で伝えてた。あなた以外誰にも伝わったことがないけど」
確かに、あれを瞬時に読み取るのは難しいだろう。
「みっともないところを見せちゃったわね、ごめんなさい」
「こんな世界に閉じ込められて平気でいる方がおかしいんですよ。恥じることじゃありません」
「……やっぱり凄いよ青銅君は。それに比べて私は……」
震えながら大きく息を吸ったあと、鼻をすする音が聞こえた。
本当に恥じることじゃない。むしろ僕の方が化け物なのに……。
自分が嫌になってきた。
人は嫌でも他者と比較して生きる。外見が人間である以上、僕も比較対象になってしまうのだ。そのせいで先輩に酷な思いを……。
「最近わかったことがある。私ね、あなたの前だと自分になれるんだ。胸なんかこれっぽっちも張れなくて、つい弱音ばかり吐いちゃう私。ずっと自分を偽ってた。毎日毎日みんなの前に出れるように胸を張って、頑張って、不安なんかない人と思わせてた。私は他人に本当の自分が見られるのが怖い。人間はそういうところから追い詰めてくる生き物だから」
背中から伝わる震えが大きくなる。
「なのにあなたの前だと、自然と気が緩んじゃう。あなたの私を見る目がパパとそっくりすぎて、別人だってわかってるのにパパと重ねちゃって」
……人は内と外が異なることが多く、何かしらの条件を付けてスイッチの切り替えを意識、または無意識でおこなっている。
彼女のスイッチは一人称なのだろう。
着丈に振る舞い、誰よりも生きてる時間を無駄にしない外の『アタシ』。
弱くて傷つきやすく、すぐに丸まってしまう内の『私』。
辛いだろう、他人が怖くて信用できず、本当の自分を見せられないのは。
「先輩……」
彼女の手に自分の手を重ねる。
後ろを振り向くと、向こうも振り向いていたようで目が合った。
「もし、この世界で生きるのがもう嫌なのなら……」
至近距離で見つめあっているのに、お互いに離れようとしていない。
「希望ではなく、何か1つ拠り所を見つけ、それだけを信じましょう。現実にいる家族や友人そのすべてを忘れて、この世界にいる間だけの拠り所を」
なんだろう……。
「いや……」
この言い方は間違っている気がする。
信じる? 遠回しに言っていることが信じられるわけがない。
もっと直接、彼女を救えるようこれ以上ないほどストレートに。
無責任になれ。この世界では見守る立場ではなく……
「僕のことだけを見て、そして信じてくれませんか」
その意味がわかった先輩の目が少しだけ開く。
「僕はあなたのお父さんにはなれません。でもあなたの依り代となり、助けたいというこの気持ちに嘘はありません。証明に、これから僕はあなただけを見て、あなただけを信じることにします」
なんともまあキザで無責任な発言だろう。それなのに言ってやったという達成感が湧き上がっていく。
「嫌、ですか……?」
恥ずかしくて回答を焦らせてしまう。相手にだって考える時間は必要だろうに。
「……ありがとう、青銅君」
赤く優しい微笑みが僕の視界に映る。
たったそれだけの返事なのに、その真意がわかってしまった。
僕は、最低なホムンクルスだ。
先輩の箒はひまわり畑に落ちて壊れてしまったため、僕の箒で魔法学校へ戻ることに。
先輩の方が身長は高いため、メリーゴーランドで母親が子供の後ろに乗って遊ぶ姿が目に浮かんだ。
されたことも直接見たこともないのに、不思議と懐かしい気持ちで安心感が生まれる。
しかしそれとは逆に、先輩から背中に伝わる鼓動は特別な相手に対するあの感情を想起させた。僕のお腹に回されてる手にも、必要以上の力が入っている。
「ところで先輩、犯人の目星はつきましたか?」
妙な居心地の悪さに耐えられなくなったので、真面目な話で気を紛らわすことにする。
「助かることだけ考えてたからあんまりまとめれてないけど、大体4人までは絞れたかな。私達が文化祭のルール変更を邪魔したことを知ってるのは、他の生徒に伝えてないと仮定したら生徒会と高田先生だけでしょ。あのフードの言動から考えて達也君が犯人の可能性が一番高いけど、なにか引っかかるのよね」
「それはどうして?」
「あの真面目な副会長があそこまでバカなことをするのかって考えたら、やっぱりおかしいのよ。露骨だし、言動なんかまるで自分が犯人ですよって言ってるようなものだったもん。あの子あんなんだけど頭は2年生の中では良い方だから」
僕は達也副会長のことをよく知らないけど、先輩が言っているならそうなのだろう。
生徒会で唯一ルール変更に賛成の意思を示していたのは達也副会長だけだった。
あのフードの人は僕達がルール変更の邪魔をしたことに恨みを持っていた。だからこうして僕達を閉じ込めた。そしてそれを僕達に話した。
どうせ死ぬから最後に教えてやろうって思ってたのかもしれないけど、人を殺すというのにそんな警戒心のないことをするのだろうか。
達也副会長が犯人なんだと僕達に思わせるためという方が可能性は高い気がする。
「じゃあ、犯人は他の3人の可能性が高いということですか?」
「他に材料はないけど、今はそうね。青銅君はどう?」
「僕はもうわかりました。誰が犯人なのか」
この数週間、何もしていなかったわけじゃない。
この小さな世界で証拠につながるようなものを探していたのだ。
犯人の名前と証拠を話すと、先輩は驚きの顔をしながらも納得する。
「凄いわね青銅君。たったそれだけの情報で……」
「相手は善意でそうしたんでしょうけど、それが決定的証拠になりました」
あと問題があるとすれば、どうやってこの世界から出て犯人を問い詰めるかなんだけど……。
「もどかしいわね。犯人はわかってるのに捕まえることができないなんて」
先輩も同じことを思っていたらしい。
「ここから出る方法……ないのかしらね」
地平線を見つめる先輩。その悲しそうな目からは諦めの意思が伝わってくる。
「正式な方法でしか無理でしょうね。だからこんな世界が作られた」
裏道があるなら僕も当然そうする。だけどここにそんなものはない。許されていない。
「……そっか。魔法でもできないことがあることは知ってるけど、それを一個人の手で痛感させられるとは思わなかったな」
しょうがない、そう言うように先輩はため息を吐いた。
「……わかった。あなたを信じるわ」
先輩は目を閉じ力尽きたように体を預けてきた。
この世界に来て3か月。
定期的に流されるトラウマにまだ苦労する場面はあるけど、それでも2人で支えあって生きている。
つい昨日、魔法学校とショッピングモールだけで生活することに飽きた先輩が引っ越しを提案してきた。
この世界には僕たち以外誰もいない。だからどこで誰の家に住もうと文句を言われない。ということで僕もその提案に賛成し、その利点を最大活用するために引っ越し先選びにちょっとした遊びを加えた。
木の棒を立てて、倒れた先100キロにある家に住むルールを設けたのだ。
そしたら最初の家がまさかの温泉宿になり、今僕は湯上りのフルーツ牛乳を片手に魔法学校から持ってきた本を読んでいる。
マッサージチェアでくつろぎたかったけど、マッサージが全然気持ちよくなかったのでやめた。
「へえ、ライオンってこういう生態なんだ……」
現実のものと寸分違わず書かれた動物の生態の本。
花のことは博士の家に来てから本能的に真っ先に学んだけど、動物に関しては詳しいわけではない。だから持ってきたけど、思った以上にこの本は面白い。
「なーに読んでるの?」
温泉から上がった先輩が後ろから僕の肩に手を置いてきた。顔を真横に置かれ、頬同士がくっつく。
「動物の生態をまとめた本です。面白いですよ」
「あ、これ私の家にもあったわ。ママがよく読んでたから覚えてる。気になった動物はいた?」
「今のところはライオンですね」
「へえ、どうして?」
「オスのライオンも、僕と同じ世界が見えてるのかなあって……」
温泉に入る前のやり取りを思い出し、少しだけ遠くを見つめる。
「……あの、ごめんね。調子乗りすぎちゃって。私のママの家系ってみんな負けず嫌いなのよ。だから多分私もそうだろうなあって思ったら……」
先輩が顔を赤くさせて言い訳をしてくる。
負けず嫌いって……あれに勝負なんてないだろうに。
僕は立ち上がり、置いてあった卓球台の前に立った。
「リベンジです。これで勝ちます」
種類は全く異なるけど、これはちゃんとした勝負だ。
「大丈夫? さっきまで相当へばってたけど」
「『実質15歳の1歳児』の体力を舐めないでください。楽勝ですよ」
置いてあるラケットを手に取り構える。
「ふふーん。そんな赤ちゃんがこの私に勝てるのかしらねえ」
浴衣姿の先輩もラケットとピンポン球を取ると、サーブの構えをした。
プロでもないのに気迫が凄い。
「家族と温泉に行くたびに100戦100勝してる私が、あなたに敗北を与えてあげるわ」
打ってきた球をテレビで見た選手の動きを見よう見まねで再現し返す。
「あれ?」
力加減を間違えたからだろうか。ピンポン球はあさっての方向へ飛び、壁に数度ぶつかったあと床に落ちた。
「はい、私の勝ち」
結果がわかっていた先輩は優しく笑う。
「たった一勝です。これからですよ」
その後、100連敗した僕は完全に心が折れた。
この世界に来てから約3年。
今日はちょっと特別な日。
何故なら、咲生さんが成人を迎えたからだ。
小説を参考にショッピングモールから持ってきたお酒でお祝いすることにしたんだけど……。
「うへぇ~。お酒ってこぉんな感じらのね。もうサイコー!」
自分の体ではないから悪影響はないということで、アルコール度数など考えずいろいろなお酒を試した結果、物凄い酔っ払いが完成してしまった。
どこか懐かしい気配を感じつつも、このテンションについていけない。
「あの、もうやめた方が……」
「ええ、なんでよぉ。夜はまだまだこれからなんだからぁ。ほらレンも飲みなさいって」
そう言ってオレンジジュースを汲んでくれるからまだ理性は残っているんだろうけど……。
咲生さんの後ろにある12本の赤いバラの花束が心配になり、僕の方へ静かに移動させる。僕からのプレゼントだけど、潰したら咲生さんが悲しみそうだ。
「あ、そうだ!」
移動させたせいで視界に入ってしまったからだろう。咲生さんはバラの花束から2本だけ取り出した。
何をするつもりだろう?
「見て見て、私かわいい?」
両耳にバラをかけた咲生さんがニコッとした。
「はいはい。かわいいですよ。でも棘に刺さったら危ないのでもうやめましょうね」
バラを花束に戻す。
「あーん。レンって優しいぃ。だからモテるんだよぉ」
モテる?
「どうして僕がモテるんですか?」
悪いけど全く自覚がない。
ふてくされながら咲生さんは言った。
「だってぇ、レンってクラスメイトの女の子の看病してたじゃん。男の子を部屋に入れるなんて好きでもない限りしないもん」
クラスメイトって明光さんのことか。
いやあれは好きというより、僕をおもちゃにして遊んでいるだけなんだよなあ。
「あの、別に僕は明光さんとは――」
「でもいいもーん。レンはもう私のだもんね」
勝ち誇ったように薬指にはめられた指輪を見せつけてくる。
さらには……。
「あの咲生さん、顔が近いです」
「えーなんでかなぁ? 近いねぇ?」
目が獲物を見つけた肉食動物だ。
少し怖くなり自分のグラスに入ったジュースを見つめる。
「あ、ダーメ」
顔を掴まれ、目線を無理矢理咲生さんへ向けられる。
「こっち見てなきゃダメ」
「えっと、いつまで?」
「一生」
それはちょっと無理があるような。
しかしそんなこと言ったら悪いことが起こる予感しかないので、喉までに留める。
咲生さんの母親も酔っぱらうと絡み酒になるって飲む前に聞いてもしかしたらって思ってたけど、まさか受け継がれていたとは。
血の力は恐ろしい。
「今変なこと考えてたでしょ?」
「いいえ、そんなことは」
「お仕置き。ブチュー」
「んんッ⁉」
息ができない!
ただ唇同士をくっつけてるだけの荒々しいキスのせいかいつものドキドキ感もない。
お酒の席ってこんなことばっかりなのかな。現実に戻ったあとの咲生さんが心配になってきた。
成人して最初のお酒で誰かに絡まなきゃいいけど。
それに僕も飲むようになったら一体どうなることやら。
「えへへ、すーき」
そう言うと、ガソリンが切れたように咲生さんは僕の膝で眠りについた。
「羽目を外しすぎだよ。まったく」
そう言いつつも、嫌なわけではない。
楽しんでくれればそれでいいとさえ思っている。
「今度からはお酒の量を調節しなきゃいけないね」
翌日、顔を真っ赤にした咲生さんが必死に謝ってきた。
1か月後。
タキシードってこういう風に着るものなのかな?
なにせタキシードを着るのは生まれて初めてのこと。しかも今は本でしか知識を得られないので着用方法は自分で知るしかない。
「こういうのは僕の性に合わないなあ」
鏡に映る自分の姿に笑いがこみ上げてくる。
まさか僕が結婚するなんて思いもしなかった。
どうせ好きな人もできず虚無の10年を過ごす、それが僕の人生だと決めつけて諦めてただけに驚きも大きい。
しかし同時に悲しさもあった。
この時間はどうせ現実に戻れば忘れてしまう。咲生さんも僕も、今はただ吹っ切れてるだけだ。
きっと現実に戻って記憶を消した後は、またただの先輩後輩の関係に戻っている。
「僕は……」
鏡に手を合わせる。目の前にいるのは自分なのに自分とは思えない。
表情が語っている。お前は絶対に咲生さんと結ばれるべき相手ではないと。この世界だから許されているだけなんだと。
それは正しい。僕は咲生さんを愛する権利はあっても、結ばれる権利は法の下に絶対にありはしない。
「それに僕は、こんな無責任になれる世界じゃないと誰かを心から愛することなんてできないよ。現実だとこの幸せは守る対象として責任が重すぎる」
入学前の僕からは考えられないほどの責任感とそれに対しての恐怖心。今の僕なら、会田さんや驚助君に対してやり返すなんて考えは生まれないのかもしれない。
行動の責任、無行動の責任、どちらからも迫られている。
感傷に浸っていると、ドアが開けられた。
「レン、一応頑張って着てみたんだけど、似合ってる?」
……許してほしい。あまりにも輝いて見えたのだ。さっきまで考えていたことが吹っ飛ぶぐらい輝きすぎていて、素直になりきれずに思わず出てしまったことなのだ。
「ちょっとブカブカなのが気になりますけど、とても綺麗なウエディング姿ですよ」
「そこは綺麗だけにしてよ。知識もないのに1人でドレスを着たのよ。むしろよくやった方でしょ」
頬を膨らませそっぽを向く姿にまた惚れ直してしまう。
しかし見惚れている場合ではない。
「あ、すみません。咲生さんの姿があまりにもその……輝きすぎていて」
訂正するも、最後の方は声が小さくなってしまった。
恥ずかしさで顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。
「そ、そうなんだ。それはその、ありがとうございます……」
お互いに俯いてしまう。
これって普通のことなのかな。他の人もこんなやり取りをしながら結婚式をしてたのかな。
「じゃあ、お願いね」
彼女の腕が僕の肘に回される。
目の前にあるのは式場への扉。
内装は僕達のイメージで作ったものだけど、それなりにできてる方だと思う。
僕が先に足を出して、ゆっくりとバージンロードを進む。
本によると新婦の隣は父親が定番らしいけど、決まったルールはないらしい。だから、僕が隣にいても問題はないのだ。
祭壇に上がり、2人で見つめ合う。
緊張からか変なことばかり思考が巡ってしまう。
講壇に置いた白いアザレアの花束、ちょっと多すぎたかな? もう少し遅く歩いた方が良かったかも。ちゃんとできるかな?
そういえば誓いの言葉を述べる神父がいないと、キスするタイミングがわからないな。どう切り出そう……。
「ふふ、誓うわ。レン、あなたは?」
……そっか。
「誓います」
そうだね。神父の言葉がなくても、わかってるよね。
誓いの口づけはとても短く感じた。
呆気なさというよりも、もっとこの感触に浸っていたい感覚に満たされていく。
人は時間とともに変わっていくもの。それは僕達も例外じゃない。
ショッピングモールで畑に蒔く種を見ていたら、咲生さんが物凄い速さで走ってきた。
ずっと魔法学校の技術室に籠ってたようだけど、何してたんだろう?
「見てよレン! これ図鑑見ながら作ったのよ! 凄くない?」
そう言って見せてきたのは、手のひらサイズのウサギの置物だった。
最近よく土について調べていると思っていたら、こんなものを作っていたのか。
「よくできてるね」
種類はわからないけど、ウサギの特徴である大きな耳やジャンプする瞬間の体勢が精巧に作られている。
「でしょでしょ! 今にもピョンピョン跳ねてきちゃうかも」
それはないでしょ、と思った瞬間だった。
本当にウサギの置物は動いてショッピングモールの棚の上へ飛び移ったのだ。
「……もしかして魔法使ったの?」
「えへへ、最近は生活用の魔法しか使ってなかったからリハビリにね。ドッキリにもなるし」
多分、驚かすことが主な目的だったね。
ただ今回は小さなウサギだし、跳んだ方向が僕の顔じゃなかったということもあって驚くほどのものじゃなかった。きっと顔に当たったらかわいそうという咲生さんの気遣いなんだろうけど、僕的にはホラー映画みたいに目の前に来た方がリアクションしてしまう。
「次はもうちょっと工夫するわね」
ウサギは咲生さんの手の平に戻ると、ただの置物に戻った。
「それどうするの?」
「うーん、とりあえず今住んでる家の寝室にでも置いておくわ」
そう言って背中を向けてショッピングモールの出口へと歩いていく。
新築の家だからいろいろなものを置きたいのだろう、その気持ちはよくわかる。
でも確かウサギって……それを寝室に置くのはちょっと……。
咲生さんは知ってるのだろうか。
「次はネズミにしようかしら」
去り際にそんなことを言ってきた。
確かネズミも……。
「レンはどう思う? 寝室ならやっぱりこういうものがいいわよね?」
振り返ってこちらを見る目がとても澄んでいる。
知っていて言っているのか、それとも知らないで言っているのか。
言動と見た目に一貫性がなくわかりづらい。
「そうだね……」
こういう時、どんな回答をするのが正解なのだろうか。
「僕なら、リビングかな」
これだろうか?
そのあと、いろいろ話し合って結局寝室に置かれることになった。
衰えないとは、幸せなことだろうか。
限界のない肉体に限界のある精神。
120年。その間にいろいろなことがあった。
楽しいこともあれば悲しいことも。時には喧嘩なんかもあったりした。
でもここまで生きてこられた。お互いに支えあうことができたから。
しかし最近、咲生さんの足取りがおぼつかなくなってきた。
安全のために横になる時間が増え、必然的に外に出ることは少なくなる。
「レン、私久しぶりに外に行きたいな」
「じゃあ車椅子用意するね」
すぐに近くに置いてある車椅子のところに行こうとするけど、袖を掴まれた。
「歩きたい、レンの隣で。だから肩貸して」
誰もいない公園を2人で歩く。
咲生さんの歩行に合わせるため、一歩一歩がとてもゆっくり。
僕の方が身長は低くて辛いだろうに、腕を絡め肩に頭を置く咲生さんは頬を赤らめていて、それを見るとまるで初心に帰った気持ちになる。
付き合った当初もこうして2人で公園を歩いてた。その時は咲生さんが僕を引っ張ってたけど
「疲れたよね。あのベンチで休もうか」
先に咲生さんを座らせて、僕も横に座る。
くっつき足りなかったのか、すぐにまた肩に頭を置いてきた。
「ありがとう、レン」
無意識にその晴天のように青い髪を撫でてしまう。
サラサラで、一本一本の輝きは宝石なんかよりも眩しい。
そんな髪を、僕はこの血塗られた手で触っている。
汚れているのに、離したいとは思わない。咲生さんが気持ちよさそうにしているから。
「ここの原っぱはいつも通りなのね。短いのになびいて、私達に風の存在を教えてくれてる」
「そうだね」
「……私だけなんだなあ、落ちぶれてるのは。体は元気なはずなのに、動かそうとしても自由に動いてくれない」
誰だっていずれ来る老化。
それだけでも内心辛いものだけど、自分だけがそうだと余計嫌になる。
「そんな咲生さんも綺麗だよ」
「やめてよ恥ずかしい。もう綺麗なんて言われる歳じゃないんだから」
そんなことはない。
鏡を見ればその美しさは自覚できる。ここに来た時から何も変わっていない。17歳の咲生さんだ。
「もっと長くいるつもりだったんだけどなあ……ごめんねレン。私って長生きできるタイプじゃないっぽい。辛い思いをさせて、ごめんね」
「120年も生きてるのに長生きじゃないは欲張り過ぎだよ。むしろ充分。この時間が僕を奮い立たせてくれるよ」
「それでもあと100年以上あるかもしれないのよ。そんな長い時間一人ぼっちにしてしまうのは、絶対にイヤよ」
悔しそうに僕の腕をギュッと握ってくる。離れたくない、そんな意思が伝わってきた。
「私、あなたに隠してることあるんだ」
突然そんなことを言ってきた。
「奇遇だね。僕も同じだよ」
「いっせーに喋ろっか」
「じゃあいくよ。せーの――」
「「僕は、君の父親です」」
静寂はない。すぐに咲生さんが口を開いた。
「気づいてたんだ」
「割と前からね。実は僕、咲生さんと初めて会ったあの時、何故か油断してしまったんだ」
だから、何故女子生徒はスカートなのかという初対面に対してする質問にしてはキツすぎることをしてしまった。
「それに、体つきばかり観察してた。健康そうな体だったんでホッと安心してたんだ。おかしいよね、初対面でそんなこと思うのは。他にも、僕は生まれてから最初に勉強したのが花だったんだよ。世情のことなんか何一つ知らないくせに何故か無性に気になって、憶えなくちゃって焦りだして。咲生さんと関わってその理由がよくわかった。あれは僕の中にある竜胆法芽さんの一部が訴えかけてたものなんだって。花が好きな君との繋がりを作るために」
結婚式の時の抵抗感も法芽さんのものだ。
そりゃあ、自分の娘と結婚なんて憚って当然だよね。
でも法芽さんは最終的に僕の意見を尊重した。だから今まで愛し続けることができた。
「私も、レンがホムンクルスだって聞いたときに気づいちゃった。ホムンクルスの作り方の1つに人間の一部を使うものがあるって聞いたことあるから」
察しの良さも受け継がれたことが、こうして親子の縁を気づかせてしまったということか。
気づくべきではなかったことだというのに。
「でもね、私はレンがパパの代わりだなんて思ったことはないよ。レンはレン、パパはパパ。その事実は絶対に否定させない。だって、私はパパに憧れはあっても恋愛感情まではなかったもん」
好きになれたからこそ、僕が父親の鏡ではないことを証明したのか。
僕にはできなかった。ホムンクルスだから、人間じゃないから。
「咲生さんは強い人ですね」
目を瞑って今までのことを思い出す。
もし早く咲生さんのようになっていれば、もっと幸せな生活が……。
「後悔しちゃダメだよ。昔より今を見なきゃ」
考えているうちに表情に出ていたらしい。
両頬に手をあてて、僕を優しく見つめてきた。
「幸せだったよ、ずっと。レンは違うの?」
「……いや、二度と来ない幸福だったよ」
そう言うと、彼女は子供のような無邪気な笑みをこちらに見せてきた。
150年ぐらい経っただろうか。
寝室に入ると、机に置かれた勿忘草が目に入り、すぐ横のベッドでは咲生さんが横になっている。
「待たせてごめんね。咲生さんの好きなゼリー持ってきたよ。いろんなフルーツの入ったやつ。昔よく食べてたよね」
咲生さんは、もう寝たきりの生活をしている。
上手く喋ることはできないし、手足を動かすのも一苦労になった。
「……パパ……」
ベッドからこちらを見る彼女の目は虚ろだ
「何言ってるんですか。僕はお父さんではありませんよ」
「パパ、みて……わたしね、まほうでおはないっぱいさかせたんだよ……」
「咲生さん?」
咲生さんが見せているのは、花の図鑑の表紙だった。
「ほら、すごいでしょ?」
「……」
「あれ、レン? どうしたの、そんなにないてると、わたしもかなしいよ……」
目をこすって作り笑顔で咲生さんを抱き上げる。
「ほら、口を開けてください」
「……あまいね……」
「でしょ?」
「……しょっぱい……」
「……」
「レンのなみだ、とってもしょっぱいね……」
「咲生さん……」
眠らないでください。
口から出したくても出せなかった。抱き締めることしか僕にはできなかった。
「またみたいな……あのひまわりばたけ」
「……」
無意識に体が動いていた。
咲生さんを抱っこしながら絨毯乗る。
行き先は決まっている。
負担を掛けないようゆっくりかつ間に合うように飛ぶ。
1時間半ほどでそこに着いた。
「着いたよ咲生さん。ほら、ひまわり畑」
咲生さんが大好きな北竜町のひまわり畑。
それを見て、咲生さんは微かに目を開いた。
「うわぁ」
か細くも確かな感喜の声。
よかった、間に合うことができて。
「すごいなぁ……」
それから数分、咲生さんはひまわり畑を見つめ続けた。
「レン、わたし……ねむくなっ、て……」
「いいですよ咲生さん。眠るまでこうして抱きしめてあげますから」
「……うん」
ゆっくりと瞼が閉じるとともに心地の良い寝息が聞こえる。
咲生さんは、そのまま目を覚まさなかった。
僕は、ちゃんとなれていただろうか。ちゃんと夫になれていただろうか。法芽さんの面影を出してはいなかっただろうか。
自問自答しても答えは出ない。知っているのはこの世で咲生さんだけなのだから。
あれから……。
光に包まれたと思った次の瞬間に懐かしい天井が見えた。
魔法学校男子寮の天井だ。周りを見渡すと、私物がちゃんと置かれている。
どうやら戻ってきたらしい。
300年ぶりの現実。
「やっと……」
起き上がるために手足を動かしてみると、特に支障はない。
現実では一瞬しか経っていないから当然か。
ベッドから出た後大きく伸びをしてみるが、これもあまり気持ちよくない。
精神の疲労と体の疲労が大きく異なっているからだろう。
「さて……」
僕の予想では、もうすぐ来る頃だろう。
部屋の外から足音が聞こえる。
魔法で鍵は開けられるから、僕はただ待っていればいい。
足音は僕の部屋の前で止まり、魔法が使われたあと扉が開く。
足音の主は部屋の奥まで行き、ベッドに座っている僕の姿を見た途端ギョッとした。
「なんで……」
そんな疑問を口にしてしまう。
驚くのも無理はない。相手は僕が眠っていると思い込んでいたのだから。
「300年ぶりですね、照代先輩」
笑顔で迎えたが、照代先輩は逆に恐ろしく見えているらしい。汗が凄い。
「……いや、いやいやおかしいだろ。だってお前――」
「ふふ、問いをぶつけてる場合ですか。ここは魔法使いの部屋ですよ? 魔法の原点は……相手を狩り――」
罠があることを察知した先輩はすぐに出口へ走っていく。
「喰らうこと」
逃がしませんよ。
「『地獄牢』」
魔法を唱えると、部屋全体が溶岩地帯に変化する。
「この魔法、あなたの脳内にいる間に作らせてもらいました」
立ち上がり、ゆっくりと近づく。
照代先輩も後ずさるが、僕の方が早い。
「毎日毎日考えてたんです。咲生さんを苦しめた犯人をどうやって反省させようか、どんな罰を与えるべきか」
3メートル。
「そしてたどり着いたのが、この魔法です」
2メートル。
「ここは、僕が想像で作った地獄です」
1メートル。
「内容はシンプル。常に地獄の罰を受けること」
30センチ。
「照代先輩も知ってますよね、地獄の罰がどんなものなのか」
15センチ。
「舌を抜かれたり、針山を登ったり、釜茹でにされたり」
10センチ。
「この魔法を作れたのは、あなたのおかげです」
5センチ。
「あなたの魔法を参考にさせてもらいました。まあ、あなたのような脳内で作った世界に閉じ込めるものではなく、脳内で作った世界を現実に具現化するものですけど。でも効果は同じです。地獄牢の中では僕の意のままに時間を進ませることができる」
優しく微笑むが、照代先輩は笑っていない。
「そうですねえ……とりあえず1年ぐらい閉じ込めてみましょうか。そのあとはあなたの反省具合で決めるとしましょう」
「い、いいのか、俺にそんな態度で。竜胆先輩を助けられるのは俺だけだぞ」
もう一歩出そうとした足が止まる。
それを見て、優位になったと悟った照代先輩がニヤッと笑みを浮かべる。
「そもそも、どうしてお前は起き上がれる。300年も経てば普通は……」
「僕はホムンクルスです。肉体の寿命は短くても、魂、精神の寿命はほぼ永遠と言ってもいい。300年程度なら何も問題ありません」
きっと僕を作った研究者たちの保険だったのだろう。
僕が死んだあと、新たにホムンクルスができなかった場合に備えて。
方法は知らないけど魂さえ残っていれば、別の体に移すことで僕は生き返れるから。
今回ばかりはあの人たちに感謝しなければいけないね。
「ならもう一つ質問だ。お前は俺が犯人だと気づいていたような口ぶりだったな。何故わかった?」
「記憶力ですよ」
「なに?」
気づいていなかったことに呆れつつも、あの世界で見つけたヒントを話す。
「あの世界にある本、その中にあった僕が読んだことあるものの内容が一字一句欠けてることなく書かれていました。それに建物、とくに魔法学校の中は本物と思えるほどのクオリティです。あの脳内の世界は記憶を参考にして作ったとフードの人は言った。なら、余程の記憶力を持った魔法使いにしかあの世界を作ることは不可能です。そして文化祭のルール変更の件を知っている人物となれば、僕の言葉を一字一句間違えることなく言えるほどの記憶力を持った照代先輩しか考えられません」
達也副会長だと思わせるためにあえて動機をステージ発表のことにしたんだろうけど、それが裏目に出た。
まあ、犯人の言うことを素直に受け取るほど、僕も咲生さんも純粋じゃないけど。
「それと、さっき咲生さんを助けられるのは自分だけと言いましたけど、僕でも治せます。いや、あなたよりもより正確に治すことができる。だって、ただあの世界にいた記憶を消せばいいだけですからね」
僕があの世界に来て咲生さんに最初に提案した助かる方法……それは300年過ごして照代先輩が僕達をあの世界から出した後、僕が咲生さんを蘇生させること。
照代先輩の言動で気になったのは、あの世界でどれだけ過ごしても現実では時間が経っていないというところだ。
仮に僕達があの世界で150年過ごし目覚めなくなっても、現実では一瞬しか経っていないから本当に寿命が来たわけではない。
照代先輩が死ぬと言ったのは、300年経ってあの世界から出た瞬間に過ごした300年分の記憶情報が、現実の脳に一気に入ってくるからだ。容量オーバーで脳がショートし脳死に似た状態になって2度と自力では目覚めなくなってしまう。それを照代先輩は精神の寿命と言い換えたのだろう。
電気の使いすぎでブレーカーが落ちるようなもの。
なら、ブレーカーの落ちた脳を回復させるには、あの世界で過ごした分の記憶を消せばいい。そうすれば目覚めることができる。
そして、その役目は僕だ。咲生さんが動かなくなった後も、300年経つまで僕はあの世界で生き続ける。生きてあの世界から出たあと咲生さんの部屋まで行って記憶消去の魔法を掛ける。それで終わりだ。
「僕からも質問させてもらいますね。動機は? それに僕達を選んだ理由も」
優位ではなかったことを悟らせたので、僕から聞く。
実はこれが一番気になっていた。
この人が僕や咲生さんに恨みを持っているとは思えない。記憶を消しに僕の部屋に来たのがその証拠だ。恨みを持っているのなら助けに来る必要はない。
「……小説の資料集めだ」
資料集め?
「俺が書いてるのは恋愛小説だってのは憶えてるだろ。ある日スランプに陥って筆が進まなくなった時に思いついたんだ。死ぬまで2人だけしかいない世界に異性同士を閉じ込めたらどうなるんだろうって。それで考えに考え抜いてこの方法に至った。あとは動画みたいに2人の時間から見たい部分だけを切り取ってそれを参考に筆を進めるだけ。こうするとインスピレーションが働くんだ。でもまさか、300年も生きたやつがいるとはな」
「……」
ふざけるなって耳を引きちぎりたくなった。
そんなことでこの人は僕や咲生さんをあんな目に。
「なあ、一応聞くが、許してくれたりは? お前だって竜胆先輩と2人だけで生きて満更でもなかっただろ?」
「……」
「世の中にはくっついてほしくてもくっつかないカップルリングがたくさん存在する。俺はそんな2人をくっつけただけなんだぜ」
よくわからない言い訳を宣う照代先輩。
許されたくて必死らしい。
悟られないようゆっくりと後ずさっている。
10センチ。
「何を怖がっているんです? 僕達に比べてあなたが閉じ込められる時間は300分の1。それに、気が狂うような苦しみを受けても記憶を消せばいいじゃないですか」
5センチ。
「いや、それは……」
10センチ。
「自分は嫌なんですよね。だって、あなたの記憶消去の魔法は不完全。幸生徒会長と達也副会長は、そのせいでおかしくなってしまったんですから」
5センチ。
「どうして知って――」
7センチ。
「真面目な幸生徒会長が変わってしまったのは生徒会長になった直後、達也副会長も同じ時期に変わったと咲生さんから聞きました。だとすれば、あの2人もあの世界に閉じ込められたことがあると容易に想像できます」
2人は自分の性格を構成するきっかけとなった記憶を照代先輩によって消されてしまったのだろう。
もちろん照代先輩はそんなつもりはなかった。あの世界にいる記憶だけを消すつもりだった。
でも不完全な記憶消去の魔法が、あやまって関係のない記憶まで消してしまった。
「それなのに、またこうして僕達を巻き込むなんて、許されることではありません」
照代先輩の足元に大穴を作り、奈落の底へと落とす。
「ッ⁉」
20メートル。
「安心してください。地獄牢で受けた傷は現実に戻れば元に戻ります。では1年後にまた会いましょう。僕にとっては瞬きの時間ですけど」
「悪趣味な野郎め!」
「お互い様ですよ」
100メートル。
穴を閉じる。
そのあと、廃人になった照代先輩から地獄牢の記憶を半年分消し、二度とあの世界に人を閉じ込めないと誓わせたあと部屋へ返した。
でもこれで終わりではない。
まだ最後の最も重要な仕事がある。
誰にも見られないよう、細心の注意を払いながら女子寮へ入る。
そして咲生さんの部屋の扉を開け、音を立てないよう扉を閉める。
初めて入る部屋だけど、ゆっくり見れるような状態じゃない。
いろんな花が飾られていること以外は特に目を向けることなく、咲生さんのいるベッドへ。
息はあるので死んではいない。むしろ、寝息が心地よさそうだ。
良い夢を見ている、そんな気持ちがこちらにも伝わってくるほどに。
「待っててください。今記憶を消しますから」
手をかざす。
大丈夫。僕の魔法は正確だ。照代先輩のようなミスはありえない。
「……」
わかっている。わかっているのに。
「魔法が、出ない……」
手が震える。
死ぬわけじゃない。ただ、あの世界での記憶が消えるだけ。
それは僕も同じ。300年分の記憶は綺麗さっぱり無くなる。
だって、この先僕だけあの世界の記憶を持ちながら咲生さんと関わったら、きっと齟齬が生じて多くの過ちを犯すことになる。
現実では親と子、いや、どこにでもある先輩と後輩でいいんだ。
「……」
息を大きく吸い込む。
涙が溢れて止まらない。
忘れたくないなあ……。
『辛い思いさせて、ごめんね』
辛くなんかない、君のためならなんだって堪えられた。孤独な150年過ごすくらい、君を救えると思えば何も苦しくはなかった。なのに、
「なんで幸せな時間まで消さないとダメなんだよ……」
こんなの理不尽だ。あまりにも酷すぎる。
『またみたいな……あのひまわりばたけ』
何回だって見せてあげたかった。これから君がうんざりするぐらい綺麗なものをたくさん作ってあげたかった。
君が幸せなだけで、僕の心は救われたのに。
「でも消さないと君を救えない。そうしないと、君は目覚めない」
訴えるように口に出す。
そうしないと体が言うことを聞かないから。
「……ありがとう、咲生さん。そして、ごめんなさい」
今まで築き上げてきた思い出が消していく。
あんなに記憶に刻み込んでいたものを自らの手で壊していく。
あれ、なんで僕泣いてるんだろう?
朝の登校中のこと。僕はやけに重い体に疑問を抱いていた。
昨日の生徒会の件が響いているのかな。一仕事終えた後のようなだるさが止まない。
女子寮との分かれ道に着くと、竜胆のような青い長髪がなびいていた。
「あ、レン! バラハロー!」
「咲生さん。バラハローです」
「「……ん?」」
なんで今、咲生さんって呼んだんだろう?
「すみません竜胆先輩。今僕失礼な呼び方しましたよね」
「いえ、私の方こそごめん。疲れてたからかな? 私も変な呼び方しちゃった、アハハ」
何故だろう、あのキラキラした目を見ても昨日みたいに義務的な拒絶が起きない。
認めてる? 何を? いつ?
……どうでもいいか。
今は先輩と接することができているこの喜びに従えばいい。
「でも凄く呼び慣れた感じなのよね……不思議」
それは僕も同じだった。
初めて呼んだのに抵抗が全くない。家族の名前ほどに。
「ねえ、もしあなたがいいなら、これからレンって呼んでもいい?」
「もちろんですよ」
願ってもないことだ。
「じゃあこれからは私のことも咲生って呼んでね。私だけ変えるのは不公平だし」
「それは後輩としてどうかと……」
「そう? なら咲生さんでいいわ」
「いやそういうわけじゃ……」
先輩はつけないと他の先輩方から厳しい目を向けられそうだし。
「じゃあ学校では咲生先輩で。2人だけの時は咲生さんってことで手を打ってあげるわ」
「まあ……それなら」
「決まりね。さあ、学校に行きましょうか」
そう行って走っていく咲生先輩の背中は大きかった。
「……ん? どうして2人だけの時は呼び方を変えなきゃいけないんだろう?」
そんな疑問を持った時には、先輩はすでに学校の中だった。