知らず。選んでゆく、みち。⑥
知らず。選んでゆく、みち。⑥
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三人が紅茶を飲み干した頃。ベネットの後についてリズベットが居間に戻って来た。
「さぁ、ここに座って」
「うん」
弱い気持ちの弱々しい声。リズベットが一人掛け用のソファに座ると、マルクロが膝の上に乗った。ローテーブルの上には膨らまなかったマドレーヌがまだ残っている。
「このマドレーヌ、全然美味しくないわ。見た目も悪いし、固くてパサパサしてる」
ベネットの声は変わらず温かい。リズベットは言葉に歯噛みする。
「ねぇ、リズ。こんな風なマドレーヌを作りたかったの?」
後ろで結われた髪が左右に動く。もどかしい思いをして作ったマドレーヌ。リズベットは居間に来てから、ずっと下を向いている。
「前にジョゼが作ってるの見たことあったし、ひとりでも出来ると思ったの」
「そう。なら結果は受け止めなきゃね。そして自分がどうしたかったのか、その為には何が必要なのか。ちゃんと知る事が出来れば、目の前には何が広がるのかしら?」
リズベットが顔を上げる。そこには笑顔のベネットと一枚のメモ用紙があった。
「これでもう一度作ってごらん」
メモ用紙を見るリズベットの目が開かれる。
「でも材料が」
「ふふふっ。こんな事もあるかと思って取っておいた物があるから、それを使って」
イタズラな笑顔に、弱い気持ちがくすぐられる。ちょっと拗ねそうになるけど、今のままは嫌だからと立ち上がる。
「美味しいって言わせてみせるから」
強い気持ちの猛々しい声。キッチンに向かっていくリズベット。結われた髪とマルクロが跳ねる。
「ベネット」
ジャックの口が開く。ソファで静かにしていた三人は、邪魔しないようにリズベットとベネットのやり取りを見ていた。
「俺は、あの男に今のリズベットみたいに立ち上がって欲しかったんだ。だけど、俺はベネットのようには出来ねぇで、突き放す事しかしてねぇ」
吐露する声は歯がゆく、枯れていく。
「私はね。その男の人があなた達のように成れなくて、羨ましがって。そこから、あなた達の事を知っても。あなた達のように成れるとは思わないわ」
俯きかけるジャックの目の前に手を差し出し、視線を上げさせるベネット。
「大事なのは、どう成りたい。じゃなくて、どうしたい。かなのよ。人は憧れや理想があっても、したくない事しないし、したい事はするものよ。今のリズも、ひとりでマドレーヌを作りたいだけなら、そのままだった。でもリズは美味しいと言って貰えるマドレーヌを作りたかった。だから、助けられても立ち上がったの」
「俺のした事は無駄だったのか?」
絞り出すような声のジャック。ベネットは差し出した手を上に持っていき、ジャックの頭を撫でる。
「わからないわ。私達は全てを知っている訳ではないもの。あなたはあなたで、思いっきり生きれば良い。その先にわかることもある筈よ」
「今日も一日良い後悔を」
クイントが、ベネットの言葉を受けて言った。
「あら、素敵な台詞ね。とても強い言葉」
「はい。キャシーお母さん、私達のお母さんの言葉」
クイントが嬉しそうに顔を綻ばせる。
「私達?」
「私とジャックとレビンのです」
「うわっ。え?何?」
いつの間にか、居間に戻ってきていたマルクロ。レビンの頭の上に乗っかり、前足でペシペシしてキッチンを指す。
「わかったよ、行くからペシペシ止めて」
「そ、そうだ止めるんだベネット。頭撫でんのを」
「あら?恥ずかしいの?あなたの髪って柔らかいのね。もう少し撫でさせて」
ベネットがまたイタズラな笑顔を浮かべる。
「恥ずかしいに決まってんだろ!」
ジャックが立ち上がるとベネットの手が離れてしまう。残念そうに微笑むベネット。クイントが目を輝かせてジャックの横に立つ。
「本当、柔らかい」
「あーいいなぁ。僕の分も残しといてよね」
レビンはそう言って、キッチンに向かう。
「俺の頭は減らねぇよ!」
「ふふっ」「ししっ」
声が湧いていく。
キッチンではリズベットが生地を気泡が出来ないようにゆっくりと混ぜていた。
「これで、生地を冷やせばいいのね」
メモ用紙を見て、作り上げていくリズベット。人は憧れや理想を実現する為に、知識を得て道を選んでゆく。だが、すべての道を先に知ってから、選んでゆく事は出来ない。
知らないまま選ばなければいけない事も、知らずに選んでいる事もある。人の歩む道には、未知と無知が前に立ち塞がる。
「これだけだと、言われたまんまだから...そうだ!」
「やぁ、リズベットちゃん。楽しそうだね」
「レビンさん!はい。これは私にとっての冒険ですので」
「冒険?」
未知と無知を前にワクワクとドキドキを持って。
「知らない世界を知る事が冒険なんでしょ?」
時に挫けても、歩む者がいる。
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「ぶっはぁ」
ジャックがマドレーヌを噴き出した。
「おい!リズベット何入れやがった?」
「あっ、それ当りだよ。当り。辛いのも良いかと思って、塩味をひとつ作ったのです」
「余計なことすんじゃねぇ!」
「いーだ!ジャックさんに言われたくないです!」
美味しいマドレーヌが夕食のデザートに並び、皆の舌鼓を打つ中。騒ぎだした2人。
「しおらしくしていたのが嘘みたいだね」
「塩味好きなんじゃないの?」
「ハズレで良かったわ」
「クー」
ベネットの宿り木の一階では。同じテーブルを囲み、皆の顔が明るく輝いている。
その頃。ベイスン協同組合の受付嬢が暮らす宿舎では。
「う~体が怠くて、熱っぽいっす」
ミリリアーテがベッドで寝込んでいた。
「大丈夫ですか?先輩?」
「大丈夫っす。これはきっと恋の病っす。まぁ、ムリには、まだわかんないっすね」
おでこに冷やしたタオルを乗せられる。横になっているのに、有頂天な態度をとるミリリアーテ。
「ところであたしは一体、何処の誰に恋をしたんすかね~?」
「何言ってやがんだか」
呆れるムリリアースだが、ミリリアーテに当てられて目元はずっと緩んでいる。嬉しそうな顔で寝るミリリアーテ。
「うふふっふ」
自称恋多き女が、誕生した夜であった。
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翌日。
ベネットの宿り木。ベネットとリズベットが宿泊者用の部屋を掃除している。三人は朝早くに望みの塔に向かっており、部屋にはいない。
「これは」
ベネットが2階の部屋の窓ガラスを見て、一部が綺麗になっていること気付いた。
「あの子達が何も言わないのなら、私達は知らない方が良い事なのね」
部屋の中は綺麗に整頓されている。掃除を終えて窓を閉じようと前に立ち、外を見るベネット。
「知らないで生きていく事も必要。過去の事も未来の事も、全てを知って生きて行く事は出来ない。今も、知りたくても知れないことがある」
白い息がまじっていく。冬の空は澄んでいて遠くの山も鮮明に見せる。あの山の向こうには何があるのだろうか。
そこからでは確かめることは出来ない。
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