10-8 街路樹が風で揺れているだけ
「また彼女を蟹江國子として復帰させるのですか」
「彼女ではなく、今現在はアレです。まだ人間じゃありません。自我も記憶も無いただの素体ですよ。
でもそうですね。同じ姓名で再起動した方が手間は掛からないかも知れませんね。初代蟹江國子を造った時のレシピと材料はまだストックが在りますし」
「材料が同じでも・・・・再生者としての経験や記憶はもう完全に?」
「あまり期待しない方が良いと思いますよ。物理的に排除、焼却しましたから。残滓くらいは残って居るかも知れませんが」
「残滓ですか」
「ただ運動野に関する箇所は手を付けていません。なので身体記憶は保持してます。幾ばくかの性能低下は在るでしょうが、昨日までの彼女と遜色無いモノが仕上がる予定です」
「・・・・そいつは何より」
「どうしました、元気が無いですね。お腹でも空きましたか」
「辟易を呑み込みすぎて腹がいっぱいですよ」
「我々は阿漕ですか。それとも外道ですか。
人が人の道を説けるのも生きていればこそです。死んでしまえばそれでお終い。淵に呑まれて霧散します。生きてゆけるのは現世のみ。我々はこの残酷な世界の中で生き延びねばなりません。生存することが全てに優先します」
あのボケ老人みたいな物言いしやがって。全く以て学者なんていう人外生物は。
「あたしに淵の講釈を?」
「これは失敬」
「あたしはこれで失礼させていただきます」
「ああ、待って下さいよ。あなたはこれまで幾匹ものナリ替わりを見逃して来てますよね。生き延びられるように温情をかけた個体すら居る」
「・・・・何処で知りました」
「蛇の道は蛇というヤツです。あなたはヒト喰らいでなければ特に何の害意も抱かない。シビアであると同時にフェアでもある。『蟹江國子』をあなたになら任せられると思って居るのです。どうか、二代目の起動に立ち会って頂けませんか」
「・・・・」
実に勝手な物言いだ。このあたしをいったい何だと思って居るのか。
腹立たしい事この上ないというのに。直ぐさま踵を返して、この膨れ上がったいけ好かない医者を自分の視界から消してしまいたいというに。何故だかどういう訳だがどうしても、あたしはこのムカつく場所から立ち去ることが出来ずに居た。
「どうかよろしくお願いします」
実にしゃちほこばった物腰で、その新規調達品は定規で測ったかのような折り目正しい礼をした。
「あ、うん、まぁ、コチラこそ宜しく」
本庁舎のロビーで香坂医に二代目の蟹江國子を紹介され、軽く会釈を返した。
ニットの帽子を被っていたものの、髪をバッサリと刈り落とされたその頭には執拗なまでの包帯が巻かれていた。だが傷口はもう塞がりかけているのだという。だから心配は無用ですと彼女は言った。
「すいません。再生者として復活したばかりで、自分のこともよく分らなくて。香坂先生にも手伝ってもらって、抜け落ちている記憶を必死に埋めている最中なんです」
でも身体の方は逆に調子が良いんですよ、などと、小さくガッツポーズなどしてみせるのだ。
「なる程」
他愛の無い雑談を交していると、何処から入って来たのかデコピンが足元まで寄ってきた。にい、と鳴いて腹が減ったなどと無作法な事を宣っている。
「勝手に入ってくるなと云っただろう。外で待て」
「ひょっとしてこの猫、邑﨑さんの?」
「ええ。デコピンと言うのですけどね」
「そうか、よろしくねデコピンくん」
蟹江はしゃがんでそっと手を伸ばすと、ヤツは素直に頭を撫でられていた。珍しい、いつもなら素っ気なく逃げる癖に。
「彼女の白猫さんは残念だったね」
「・・・・蟹江、さん。なぜ白猫と?」
「あ、ごめんなさい。何故だろう・・・・すいません。なんかパッと思い浮かんじゃって。勘違いですよね。初対面なんだし」
チラリと香坂医師と横目に眺めれば、ほうと少し感心したような顔していて、そのままツイっと視線が動き、あたしと目が合った。そのまま薄く口角を上げる。面白がっているような眼差しに腹が立った。
「この邑﨑さんは駆除者の中でも屈指の使い手です。どうですか、リハビリテーションが明けた後などに一手指南をお願いしてみては」
「先生、また勝手に」
「おや、可愛い新人に経験を積ませるというのも、先輩の役目ではありませんか」
「・・・・」
「オッケーだそうですよ、蟹江さん」
「勝手に承諾したことにしないで下さい」
「イヤなんですか?」
「まぁ・・・・そうですね。いま手がけている仕事が片付いた後なら」
蟹江は恐縮した様子だった。
「宜しいのですか。ご迷惑では」
「いえ、これも先輩の務めというヤツでしょう。構いませんよ」
「そうですか。ありがとうございます。これでもわたしは剣道経験者なんです。久方ぶりの手合わせです。楽しみにしてます」
「手加減はしませんからね」
望むところですと彼女は表情を引き締め、香坂医師は何が面白いのか満面の笑みで何度も頷いていた。そして相も変わらぬ滑らかな舌は、軽妙な口調で語り始めるのだ。
「場所は以前と同じ武道場で宜しいですよね。手合わせの日時が決まったら教えて下さい。SNSで皆に知らせましょう。以前よりも沸くこと請け合いです。カメラなども用意して撮影後は公式で動画をアップロードするのも悪くはありません。あなたのファンもきっと増えますよ」
勝手に話を進めるな。
何なのだろう。肚の底から湧いてくるこの言い様の無い感情は。
「・・・・香坂先生。少々ダイエットした方がよろしくないですか。成人病対策の為にも。僭越ながら、あたしが先生の健康促進の為の協力を致しましょう。いえいえ、お礼なんて無用です。日頃からお世話になっている先生の為ですから」
「あ、いやぁ、わたしはいいよ。急な運動は逆効果になりかねな、あ、ちょっと待ちなさい。痛いですよ、ひっぱらないで。何処に行くつもりです」
「勿論、武道場ですよ。大丈夫です、充分に手加減しますから。
ええ、素人を痛めつける趣味なんて微塵もありませんから。汗だくになりながら転がってゴムまりみたいに跳ねる姿を見たいだなんて、そんな下品なこと微塵も思ってませんから。安心して大船に乗ったつもりでいて下さい」
「え、いまから?いや、ちょっと待って、ホントに。わたしは武道どころか、スポーツの経験なんて微塵も・・・・」
引きつった顔で慌てて逃れようとするのだが、掴まれた腕が緩むことは無く歩みが止まる様子も無い。
おろおろした様子で蟹江國子が後を追って来ると、「そうだ」とキコカは立ち止まり、スカートのポケットから一冊の文庫本を取り出して、彼女に向け差し出した。
「出会ったのも何かの縁でしょう。この本を進呈します」
古びたゲーテの「ファウスト」だった。
「あの、コレは?」
「先日逝ってしまった友人の遺品です。あなたに持って置いて欲しくて」
「そんな、大事なモノではありませんか。受け取れませんよ」
「いえ、是非あなたに持って置いて欲しい。その方がきっと、友人もこの本も喜ぶ」
でもしかし、と蟹江は戸惑っていた。なのでジロリと香坂医師を睨み付ければ、少しだけ顔を引きつらせた後に「邑﨑さんもこう言ってるんだし、受け取ったら」とぎこちない笑顔でそう告げた。
「そう、ですか。でしたらありがたく頂戴します。でも、何故わたしに」
「新人へのエールだとでも思って下さい」
一瞬ぽかんとした彼女だったが、次の瞬間にはっとした表情になって、「大事にします」と深々と頭を下げた。
「さて、じゃあ行きましょうか香坂先生」
「あ、いや、だから駄目だって、ちょっと、邑﨑さん。暴力はいけませんよ、暴力は」
タダの手合わせです動画撮影もしましょうかと返す言葉と、ズルズル引きずられる恰幅の良い医師の悲鳴が失せ、慌ててまた後を追う蟹江國子の姿も遠くなって消えた。
ロビーに居た何人かが何事かと三人の行方を目で追っていたが、止める者は誰一人居なかった。
居残っていた黒猫は、小さく欠伸をすると再びロビーから出て行った。
窓の外には、葉を落とした街路樹が風で揺れているだけだった。




