10-2 淵からの生還おめでとう
手合わせを終えると、蟹江國子から「ありがとうございました」とまたぞろ大仰に頭を下げられた。
そしてそれじゃあ、と踵を返そうとしたら何故かギャラリーの幾人から握手やサインを求められた。
事務方の女性職員も居て、その中には何時ぞやの居酒屋で飲んだあの眼鏡の職員も居た。セルフレームがメタルに変わっていたし、シニヨンにまとめた髪が以前よりも小ぶりになっていた。
だが、淡々として感情の見えない眼差しは以前の通りで、しかもツーショットの写真まで撮られる始末。
「なんでアナタまで出て来るの」
「ついでよ、ついで。野暮用で本庁舎に来たらあなたが新人と遊んでいるのだもの。それに外見ダケなら、ちょっと個性的で可愛らしい女生徒ですからね。写真に撮りたくもなるわ。写真には内面なんて関係ないですからね。良かったわね」
「顔写真や実名は秘匿条件に抵触する」
「此処には本職の人間しか居ないわ。それに面割れなんて今更。あなたは今までどれだけの数の子供たちと接触してきたというの。そしてその中で一人でもあなたを憶えていた子が居た?」
「心構えのことを言っている」
真っ当至極な苦言も何処吹く風。眼鏡の女性職員は撮ったばかりの写真を見返してご満悦の様子であった。そしてその胸元の名札を見て、そうか籾山と言うのか、と、ようやく彼女の名前を知ることが出来たのである。
「ありがとう邑﨑さん。よいコレクションが増えたわ」
「見終わったらとっとと消して欲しいのだけど」
在り得ないわね、との言葉を残して彼女は去って行きキコカは再び溜息を付くのだ。
「大人気ですね邑﨑さん」
「勘弁して下さい、香坂先生。あたしは芸能人じゃないんです。ただの駆除者、犯罪のツケを肉体労働で支払っている受刑者に過ぎないんです」
「あのドラマのお陰であなたの知名度が一気に上がりましたからね。部局内では有名人ですよ。偶像はヒトを惹きつけるものです。そして群れるのはヒトの潜在的な欲求に基づいての事です。その中心となるモノ、象徴的な某かを皆求めているものなのですよ」
「専門家の口からそんなコトを吹聴されると、あたしは甚だやりにくいのですが」
「あなたの上司はもっとやれと囃し立てているようですよ。都市伝説レベル、フォークロア化してアレの情報を小出しにして行くのだと、そんな具合に説明を受けませんでしたか?」
「最初にその提案をしたのは先生ですね?」
「秘匿案件なので黙秘します」
「これだから学者連中は始末に負えない」
「聞こえてますよ。それにわたしは学者では無くて医者です、精神科医。御存知ですよね」
「脳外科や人間行動学も修めていらっしゃるではないですか。ついでに民俗学も」
「バックボーンの一環に過ぎません。この因果な仕事は一筋縄ではいきませんので」
「蟹江さんは放っておいて良いのですか?」
彼女は挨拶を済ませると、そのまま本庁舎の中へと消えて行った。ギャラリーも全て仕事に戻り、もう武道場に在るのはキコカと香坂の二人だけだ。
「わたしはタダの付き添いです。本日は彼女を此処に連れてきて手続きを済ませ、基本的なレクチャーを終えた後に連れて帰る、それだけですので」
「まだ不安定なんですね?」
「皆の例に漏れず、彼女も苦悶と安息から『戻って』来た個体ですからね。簡単ではないですよ」
「完調にはほど遠い、と」
「傷口が消えることは決して在りません。塞がったように見えても跡は残る。それは心も身体も変わりはありません。
小さな切り傷ですら、何らかの拍子に跡が浮かんで見えることがありますよね。完全に無くしてしまうのは不可能なのです。ですが崩れそうになるモノを裏打ちし、克己心を呼んで現実に引き戻すことは可能です」
「不完全な個体を現場に投入するのはどうかと思いますが」
「完全なモノなど此の世に在りません。自らを高め欠点を克服するのがヒトというものではありませんか。最終的に本人を助けられるのは本人だけですから。外部の者はそれを手助けする事しか出来ません」
「ものは言い様です」
「誰しもアナタのように強くはないのですよ。彼女の手応えはどうでしたか」
「心は判りませんが、肉体的にはまだまだですね。ヒトだった頃の感覚が邪魔をして本来の能力を出し切れていない、そんな具合に見えました」
「おっしゃる通り。彼女は一皮むける必要があります。脱皮、というよりもサナギから成虫になる位の変化が必要です。彼女、最近は安定してますが一度取り乱すともう手が着けられません。一トンを越える膂力に捕食昆虫をも上回る反射神経の持ち主ですからね」
「先生の『病院』には鎮圧役の再生者も詰めていた筈ですが」
「彼は少し前に彼女にねじ伏せられてしまいました。現在療養中です」
「ほう、それは凄い。しかしそんな爆弾を抱えた者を正規の駆除者に登録するのですか?無謀ではありませんか」
「再生者は大抵何らかの不具合を伴っているものです。現場を体験させて少しずつ調整していくしかありません」
「チューニングの間違いでしょう」
「見解の相違ですね。それに、どうしてもカウンセリングやトレーニングだけでは見極めるのが難しいですから」
「実力も出せぬまま、途中で破壊されるかも知れません。それでも良いと?」
「受刑者ですから」
「・・・・」
「それを思えば、あなたを造った野呂教授はやはり非凡な方だったのだなと思って居ます。再生してから現在まで、調整をせずに済んでいるのは『長老』と『簒奪者』、そしてあなた位のものです。実動内容も実に安定している。見事というほかありません」
「長老は既に焼却済みではありませんか。
それにあのボケ老人を持ち上げるのは止めて下さい。先生の言うそれは、きゃつが見事なのではありません。借り物の力が常の域を越えているだけです。淵から汲み上げたモノでゲタを履きソレを駆使している、それだけではありませんか」
「かの御仁が探求と実験の果てに、自らの肉体と魂を対価として、その手で掴み取ったものでしょう?それは研鑽を積んだ者の実力と何の違いがあるというのです。大事なのは途中経過ではなくて、実績と結果、それだけですよ」
「あの老人を随分とリスペクトしていらっしゃる」
「ええ。評価は公正かつ論理的、感情抜きで下さねばなりません。良い仕事は良い、それだけの話です。
夏岡さんですら起動してから二度目の現場で暴走してしまって、一度調整を施したと記録に残っています。わたしが部所担当医になる以前の話ですから、報告書でしか知りませんが」
「アレはただ本性が出たダケでしょう。シリアルキラーに期待する方が間違って居ます」
「我々は常に人出が足りて居りませんので」
「あたしたちはヒトではありません。タダの屍人形です」
「おや、これは失礼」
「そこで素直に謝られても腹が立ちます」
「そうですか。しかし今日はありがとうございました。蟹江さんにも良い刺激となった様で、予定外の収穫です」
「そんな大した事はして居ません」
「いえ、本当に感謝して居ますよ。彼女にも良い目標が出来たようで、事前想定以上に安定した運用を目指すことが出来そうです」
「どういう意味です?」
「おや、気付いていらっしゃらない?」
香坂医はいたずらっ子のように目を細めると、「それではこれで」と軽く会釈して横幅の大きい身体を揺らして去って行った。
キコカは何とも取り残されたような面持ちで、その丸い後ろ姿を見送るばかりであった。
暗がりの中で目が覚めた。
覚めたくて覚めた訳では無い。キリキリと全身を苛む痛みのせいで目覚めざるを得なかったからだ。そして体中は元より何より、この手酷い頭痛は到底我慢が為らなかった。
目を開けても真っ暗で、本当に自分は目覚めているのかどうかすら判らなかった。ひょっとして目を覚ましたという夢の中で、痛みに足掻き藻掻いているのではないかと不安になって、声にならない声で呻き声を上げるのだ。
不意に、目覚めたかね、と声が在って起きたと応えた。
頭が痛くて叶わない、と呻くと「なる程」と言われた。
「F剤を七ミリグラム追加。点滴のT液はそのままで静脈注射にて投与。心電図に注意」
何だかよく判らない言葉が聞こえて来たが、点滴だの薬だのという単語から、ひょっとして此処は病院ではないかと思った。
とすると、自分は怪我か何かで治療を受けている最中なのだろうか。真っ暗で周囲が見えないのは、目元を覆われているせいなのだろうか。そう言えば首を動かすとヤケに頭が動かしにくい。何かを被せられているような感覚があった。
わたしはどうなったの。
「どうなったと思う?」
冗談はやめて。
「冗談などではない。これはきみの意識がどれ程まで戻って来ているのか確認しているだけだよ。だから質問には答えて欲しい」
ここは病院ですか。
「その通り」
わたしは怪我をしているのですか。治療を受けているのですか。
「その通り。自分の名前を言えるかね」
勿論・・・・あ、あれ、おかしい。わたしは誰だ。おかしい、おかしい、思い出せない。
「きみは蟹江國子だよ」
誰よソレは。聞いた事もない。
「蟹江國子だ。きみの名前だ」
本当なの。
「本当だよ。きみは一旦眠りにつき、そして目覚めた。寝起きだからきっと最悪の気分だと思う。と同時に色々なことも忘れてしまってもいる。しかし安心なさい。我々が協力しよう。きみが必要なことを思い出せるように力を尽くすと約束する」
本当に?
「本当だ」
その後、周囲から様々な専門用語が聞こえて来て、心肺停止だの再起動成功だの危険域突入だの物騒な単語が入り交じっていた。手酷い頭痛は幾分和らいだが、何度も感電したようなショックが全身を走って悲鳴を上げた。
本当にコレは治療なのか?
ただの拷問ではないのか?
わたしは本当にどうしてしまったのか。
これからどうなってしまうのか。
どうしようもない不安にもみくちゃにされながら、痛みよりも猛烈な眠気が襲ってきた。そのまま抗う間も無く、否応なしに暗い闇の中にわたし自身が堕ちていった。
そしてその最中に「淵からの生還おめでとう」と労う声が聞こえたような気がした。




