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えげつない夜のために  作者: 九木十郎
第十話 新規調達
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10-1 よいガス抜きになった

 邑﨑(むらさき)キコカのスマホに連絡が入ったのは、アレの始末を終えて清掃作業に入っている最中の事であった。


 どろどろに為った教室にモップ掛けをしながらスマホを取れば、「直接の業務案件ではないが」などと妙な前置きをされた。らしくなかった。胡散うさん臭いと警戒するのはわずもなが。間を置かず聞こえて来たのは、平板で端的()つ直裁的ないつもの物言いだった。


 しかし・・・・


「は、蟹江が?」


 一瞬呆然とした。思わぬ内容だった。


 お陰で、危うく逆手に持ったモップから柄を伝ってきた茶褐色の汚水が垂れて、そのまま袖口に入るところだった。慌ててモップと壁に立てかけて、スマホを持ち直すと今しがた聞いたばかりの話を問いただした。聞き間違いの類いではないかと思ったからだ。


 だがやはり聞き間違いなどでは無い。上司(いわ)く、蟹江國子本人からの焼却依頼が受理されて、二日後に実行されるのだという。


 まさに寝耳に水の話であった。





 現時刻より*年前 八月某日


 庁舎に入った途端、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「おや、邑﨑さん久しぶりですね。あなたが此処ここを訪れるというのも珍しい。何かありましたか」


 声を掛けて来たのは、七三に分けた白髪混じりの髪に黒いセルフレームの眼鏡を掛けた、恰幅の良い中年男性だった。


「別に。補充品の受け取りに来たダケですよ、香坂先生。次の赴任地が近くなので移動ついでに」


「そうでしたか。てっきり新規品の顔でも見に来たのかと思いました」


「新規品?」


「ええ。つい先日仕上がったばかりで、数ヶ月の実地訓練の後に現場投入となります。もののついでとっては何ですがどうでしょう。会ってみますか?」


 特に断る理由も見つからなくて、促されるままに別棟の方へと案内された。素っ気ない番号だけで記された部屋に入ると一人の若い女性が椅子に座っていた。


 ドアが開けられた途端緊張した面持ちで顔を上げ、読みかけの本を慌てて閉じると手提げ鞄に押し込んでいた。ぱらりと何かが足元に落ちて、拾い上げてみたら栞だった。枯れ葉を封入した手作りのものだ。

 黙って手渡すと恐縮してペコペコと何度も頭を下げていた。


 そして彼女は香坂とキコカとを不安げに見比べていた。年の頃は二〇代中頃といった辺りだろうか。


 そして香坂医師は滑らかな物言いで口火を切るのだ。


「唐突で申し訳ありませんが、あなたの先輩をご紹介します。こちらは邑﨑キコカさん。駆除者の中でも屈指の使い手です。古株の一人でもあり代表格と言っても過言ではありません」


「過言ですよ」


「おやそうですか?こちらは蟹江國子さん。先日リハビリテーションを終えたばかりで、本日正規登録を行なう予定です」


「あ、あの、蟹江です。よろしくお願いします」


 彼女は慌てた様子で椅子から立ち上がると、しゃちほこばった深いお辞儀をした。挨拶をしながらも蟹江と名乗る女性は、戸惑うと同時に、キコカの着ている女学生の制服に怪訝な表情を見せた。


 だがそれはいつものこと。なのでキコカはいつものように気付かなかったふりをして、いつものように軽く返答をした。


「邑﨑です。こちらこそ宜しく」


 傍らに立つ香坂は何処か楽しげに見えた。


「此処でこうして会ったのも何かの縁です。どうでしょう、邑﨑さん。蟹江さんに一手指南していただけませんか」


「今からですか、唐突に過ぎます。あたしはそういうつもりで来た訳ではないのですよ」


「これから同じ現場におもむくもの同士、互いの力量を知るというのは大事だと思います。それに蟹江さんは全くの素人という訳でもなく、剣術にはいささか心得があります。経験を積むという意味でも彼女には有意義だと思いますが」


「先生はただデータが欲しいだけでしょう。それにこんないきなりでは彼女も迷惑です」


「あ、あのっ」


 成り行きを見守っていた蟹江が口を開いた。


「め、迷惑だなんて思ってません。む、邑﨑さんとおっしゃいましたね。新参者で右も左も分かりませんが、少しでも早く皆様の手助けをしたいと思っています。手練れの方ということなら尚更なおさらです。お手合わせ出来るというのであれば、むしろコチラからお願いしたいことで・・・・」


「・・・・」


「ご、ご迷惑で無ければ、どうかご指導(たまわ)りたく・・・・そ、その、お願いします」


 そう言って彼女は背中が見えるほどに頭を下げるのだ。


「ほら、蟹江さんもこう言ってます。わたしからも今一度お願いします。お手数ですが、少しお時間をいただけませんか」


「・・・・相変わらず強引ですね。まぁ良いでしょう。ですがほんの一、二手程度ですよ?」


 ありがとうございます、と再び頭を下げた蟹江は喜色の笑みすら浮かべていた。そしてキコカはやれやれと吐息をつくのだ。




 武道場に入り、互いに竹刀を持って相対した。


 蟹江の竹刀は三尺九寸で標準のものだが、キコカが手にするのは小刀だった。それ同士の組み手も在るには在るが、二刀流の一刀として使うことが一般的だ。

 なので「それ一本で良いのですか」と蟹江は意外な表情を見せた。が、「良い」と応えれば何かを納得したような顔になった。


 単純に長尺モノは手に馴染まないというダケなのだが、彼女は別の解釈をしたらしい。


「予め言って置くけれど、あたしがするのは剣道じゃないからね」


 緊張した面持ちの蟹江が小さく頷くのが見えた。


 互いに礼をして香坂が「始め」と合図をした。


 一回目の組み手は一瞬で終了。

 竹刀を弾き跳ばされ、それが床に落ちる前に蟹江の喉元に小刀が突き立てられていた。彼女は何が起きたのか分からないまま負けていた。瞬きする暇も許さぬ内に事が決して居たからだ。


「も、もう一手お願いします」


 反射的に蟹江は声を上げ、結局キコカは一、二手どころか数えるのも億劫な回数の「指南」を施すハメになった。


「剣道の残心姿勢を取るクセは捨ててしまいなさい。一歩下がる長刀なぎなたの方がまだマシだけど、相手はヒトじゃないのよ。一刀入った程度で事が決するはずないでしょう。先ず目を離さないこと。どちらにせよ試合と一緒にしていると不覚を取るわよ」


 蟹江は汗だくになって床の上にひっくり返っていた。


 ゼイゼイと息を荒げ、頭上から降ってくる忠告に返事をすることもままならなかった。


 そして見上げるその相手は息を乱すどころか汗一つかいていないのである。何をどうすれば此処ここまでの差が付くのかと、舌を巻くどころか、ただただ感服する以外になかった。


 現代の剣道は完全に競技のそれで剣術とは別物。江戸時代の頃のものは完全に実戦指向で、組み打ち足掛け何でもアリの格闘技だという事は聞いている。

 だが知っているというのと対処出来るというのは別の話だ。


 だがそれでも、竹刀を持てばいささかなりとも相手が出来ると思って居た。

 勝てはしないまでもソコソコ悪くない闘いが出来ると思って居た。これでも同じ段位の男性相手に幾人も勝ち抜いた事があったし、県内の道場では常に上位の常連だった。


 だが結果はどうだ、まるで刃が立たない。全ての手業てわざ足業あしわざが見透かされ、フェイントや駆け引きなど全く通用せず、軽くあしらわれて完全に子供扱いだった。


 握っていた竹刀が叩き折られたのも一本や二本ではなかった。

 弾き跳ばされた回数も数えきれず、一合も合せられずにねじ伏せられた数は更に多かった。あの動きは剣道じゃ在り得ない。いや、人間が出来る体裁きから完全に逸脱しているのだ。


「いや、お見事。流石は邑﨑さんです」


 恰幅のよい香坂がはしゃぐように手を叩いていた。


「いい加減、途中で止めて下さいよ。彼女はリハビリを終えたばかりなのでしょう?」


「あなたが止めと言えばよろしかったでしょうに。様子見なら最初の二、三手で充分だったのではありませんか。それに途中からは楽しんでいらしたではありませんか。よいガス抜きになったと、そんな具合にお見受けしました」


「データは充分に取れたご様子」


「ええ、ええ。満足至極ですよ」


 キコカの不愉快そうな物言いにも、眼鏡を掛けた眼前の男は大きな腹を揺すって楽しげに返すばかりだった。


 いつの間に集まったのか、武道場には結構な数のギャラリーがあった。見知った顔がチラホラと見えた。感心したような表情の者も居れば、香坂と同じく楽しそうに笑んでいる者も居た。コレでは大道芸の演武と変わりが無い。

 ひょっとすると蟹江のお披露目も兼ねて居たのではと思い、キコカは再びヤレヤレと吐息をついた。

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