7-8 ようやくこの町から立ち去ることが出来た
あの日、あたしと犬塚伊佐美とは合い対し、打ち負けて腹を裂かれた。身動きが取れずトドメを刺されるのを待つばかりだった。
それを制止したのは金川さんだが、暗がりの中から決して出て来ようとはせず、ボイスチェンジャーで変えた声だけで彼女を説得した。そして彼女が落ち着くと、さも今到着したかの様相を装ってあたしに歩み寄り、助け出してくれたのだ。
「あんな稚拙な猿芝居でよく彼女が納得してくれたものです」
「あの子は、恐らくですがわたしの一人二役を感づいているのだと思います」
無意識でしょうけれど、しかしハッキリと認めたくない。声が聞えても駆け寄って来ようともしない。決して確かめない。自分でも気付かない内に自分でブレーキをかけて、幻の兄を信じ、すがっている。
「家族がみなアレに食われてしまって既に此の世には居ないと、独りぼっちだと認めたくないのでしょう」
「最後の一人はあたしが打ち殺しましたしね」
「あなたが討ったのはアレではありませんか。義務を全うしただけでしょう」
金川さんは非道く疲れ切った声で、そして何処か淡々としていた。
「それよりも、コレは何なんです」
そう言って懐から取り出したビニール袋には、使用済みのパッケージ型使い捨て注射器が入っていた。
「上司から支給された身体強化剤です」
「嘘ですね。あなたの相棒からの映像を確認させていただきました。依頼主権限というやつです。あの暗がりの中でも鮮明な映像でよく事態を把握出来ましたよ」
問い詰める口調が正に警察官のそれだった。
「コレを使った途端、あなたの動きが極端に悪くなった。変だと思って残留していた薬品を調べてもらったところ、コレは筋肉弛緩剤ではありませんか。
こんなもの頸動脈に注射して真っ当に動ける筈ないでしょう。あなたの嗅覚と知識なら、パッケージを開けた途端中身の薬品が何なのか気付いた筈です。どういうつもりなんですか」
「あの場は負けてやった方が落ち着くと思ったので」
「なんて無茶を。カンベンして下さいよ。依頼した側がその相手を打ち殺しただなんて、そんな話が広まったらあの子は本当に居場所が無くなってしまいます」
「広まりはしませんよ。むしろ区議会の先生方が揉み消してくれます」
「どういう意味です」
「強化対応者の管理管轄は地方自治体の責任者、もっと有り体に言えば地方の政治家先生たちが所有権を主張できます」
我が国の中央政府直轄の警察機構に、アレへの対抗手段が独占されているのは面白くない。地方自治の発言権も強化したい。暴力機構の権限を一部でも良いから掌握しておきたい。
等々、様々な目論見から強化対応者を欲しがっている者は多いのだ。
「御存知ですか。ソレ専門の部所から区議会へ、最終的にはレベル7までの強化案が提出されています」
「レ、レベル7?」
「レベル3とレベル4の差が隔絶していることは御存知でしょう。あれが更に三段階積み重なっていると考えて頂ければ良いです」
既知限界の筋力増強と脳改造、骨格の殆どを人口骨に置き換え、内臓や主要血管は負傷時に血流量のコントロールも可能。
肉体的な改造強化は勿論、精神面にも相当に手が加えられる。闘争本能の向上と共に視野狭窄に陥らない冷徹さの保持。
情緒反応を抑制し感情の起伏によって『役目』に支障が出ない、完全無欠な超人を目指している。
狂気の沙汰だ。もうソコまで手を掛けたら日常生活にも支障が出る。
「ひょっとすると自我を維持することすら難しいかもしれない。もちろん、予算的にも桁違いになるので承認されていませんが、まかり間違ってという可能性は在ります。
計画案を凍結する理由の一つに、人道的観点云々なんてものがありましたが、そんな言い訳だれも本気にはしていませんしね」
キコカはそこで一息入れて、疲れた口調で自嘲気味に笑うのだ。
「強化対応者なんてものを認めている現状で、いったい何を云っているのかと言いたくなります。ましてや秘匿とは云え、あたし等みたいな駆除者を当然のように使役するなどと」
「・・・・」
そこで、際限のないエスカレートにブレーキを掛けたいと思う者も出てきます。どんなに優秀でも一人二人では意味が無い。大勢の市民を助けるとなれば相応の数は必要ですから。
様は比較の問題で、アレに充分に対処できて予算的にもソコソコで、可能ならば警察機構の専任者と同等程度が望ましい。費用対効果というヤツです。
ならば警察機構の専任者よりも、現在最高峰であるレベル4の強化対応者が優秀だと判ったらどうするか。
「きっと現在以上の向上は見合わせる、そう思いはしませんか」
「だから、負ける必要があったと」
「うちの上司はきっと『非常用の特別薬』も支給した、と吹聴するでしょうね」
皮肉っぽく笑って見せたら、金川さんの引きつる顔が見えた。
正規担当者に投薬すら行なってこの結果なら、喜ぶ連中は多いでしょう。まぁ嘘じゃあないですよね、確かに特別なクスリだったので。
ちょっと気の利いた人間なら簡単に看破してしまうでしょうが、大切なのは『レベル4が勝った』という事実です。
「茶番だと知っていても喧伝する者には格好の材料でしょう」
「そんな・・・・そんなバカバカしい上の連中の思惑に、あなたがこんな危険を冒す必要はないでしょう。一歩間違えば死んでいたんですよ」
「上司は必要ありと思ったようです。あたしもその口車に乗って良いと思いました。過剰に過ぎれば害でしかありませんから」
「・・・・おっしゃる意味は判ります。しかし、命を粗末にするやり方には賛成しかねます」
「ご心配なく、あたしはもう既に屍体ですので」
今朝は一段と冷え込んでいて吐く息も白く、薄暗い朝焼けの空気の中に儚く散って消えていった。季節はそろそろ本格的な冬模様といった様相だった。
「まぁ確かに、クスリを打ったのはヤリ過ぎだったかなとは思って居るんだよ。金川さんにも怪しまれるホドにグダグダの状態だったからね」
あたしはまだ少し疼く腹の傷跡を撫でながら、左手に下げたデコピン入りの猫バスケットに声を掛けた。
駅までのタクシーを呼んだのに、指定時刻になってもやって来ないというのはどういうコトか。三〇分のマージンを与えたのに応えられないのは問題だろう、プロ意識に欠けると思った。
駅までてくてく歩くという選択肢もあるが、傷の癒えないこの有様で無理を押す必要もあるまい。本日はただの移動で指定された業務ではないのである。
「でもさ、あたしは手加減って苦手なんだよね。以前も軽くいなす程度に済ますつもりが、そのままトドメ刺しちゃったコトもあったし。今回は失敗する訳にはいかなかったし。何かの手違いで勝ちでもしたらソレこそ目も当てられない。そうだろ?」
バスケットの中のほぼ真っ黒い相棒は聞いているのか、いないのか。多分間違いなく聞いちゃ居ないだろうなと思いながらも言葉を紡いだ。寒い朝に一人で黙って立っているなんて我慢出来ないからだ。
スマホに着信があって出てみると金川さんだった。もう出ていくのですかと大層驚いていた。
こんな早朝によく気付いたモノだ。挨拶が煩わしかったからコッソリと発つつもりだったのに。
犬塚伊佐美はまだ処置の最中で目が覚めていないのだという。そして最後まであの子を慮ってくれて感謝している、と言われた。随分とこそばゆい。あたしはただ後味を悪くしたくなかっただけだ。
そして「大変ですね」と言われた。
「あなたはこれからも延々と、このうんざりとする仕事を繰り返してゆくのですね」
あと何年続くのですか、と問われてあなたの寿命よりは永いでしょうと応えた。しみじみと「ご苦労様です」と言われた。それは労いなのか、それとも哀れみか。
もしかすると皮肉かもしれなかった。
「土地の責任者ほどではありませんよ」
口にした台詞はあの時あの校長に掛けたものと同じで、我ながら芸が無かった。
彼とあの校長の言葉の真意が何処に在ろうと、苦笑しか湧いてこなかった。
仕事を終えれば赴任地を去るあたしとは違って、彼らはずっとこの土地と、この土地に住む者たちに寄り添っていかねばならない。それに比べればこの身は随分と気楽なものだ。
彼女に宜しくと言って通話を切ろうとしたら、報酬以外に自分に出来るコトはないかと言われた。
ふむ。
「実は腹を割られて、ここ数日ビールを飲めずにいたのですよ。此処には地ビールがありましたよね。ソレをあたしの次の赴任先に送って下さい。送り先はこの後にメールします」
通話を終えてメールも転送し終えると、バスケットの中で「にい」と鳴く声がした。
「判って居るよ。アンタへのご褒美も忘れちゃいない。今回は珍しく大活躍だったからね。キチンと猫缶以外のブツも割増しで用意してやるよ」
だがいずれにしても、次の目的地に到着してからの話だ。
納得したのかどうかは分らないが、バスケットの中の毛むくじゃらな相棒はそれ以上鳴くことはなかった。
少しだけ身じろぎした感触だけが持ち手に伝わってきて、やがて動かなくなった。格子状の窓から中を覗き込んでみても、もうぴくりともしない。外の寒さに辟易して、返事をする気も起きないといった風情だった。
再び大きく息を吸い込んで吐き出した。息が白くわだかまり、そして一瞬で霧散していった。
深呼吸する度に脇腹が疼くがもう数日の辛抱だろう。この身は野生のケダモノ並みの回復力が備わっている。簡単には壊れないし、壊れても食って眠ればすぐに直った。
もっとも、その恩恵に預かるのも一〇年ぶりくらいではあるのだが。
そしてこの頑丈さのお陰で馬車馬のごとくコキ使われて、のんびりベッドを暖める暇も無いのではあるが。
道の向こうからライトを付けたタクシーが近付いてきて、あたしの目の前で止まった。初老の運転手が窓を半分だけ開けて顔を覗かせ「邑﨑さんですか?」と問う。
「はい」とだけ返事をする。
遅いと文句を言ってみても良かったが、急に面倒くさくなって止めた。ここで腹を立てても傷口に障るダケだ。何の得も在りはしない。
どうぞと言われて後部ドアが開き、あたしは手荷物と一緒に中へ身体を滑り込ませた。
「一番近いJRの駅までお願いします」
ドアが閉まるとタクシーは走り出した。赤いテールランプが払暁の薄闇の中に消えてゆく。
こうして邑﨑キコカは、思わぬ残業と文字通り自腹を切る苦悶の果てに、ようやくこの町から立ち去ることが出来たのである。




