7-6 残念ながらそれは叶わなかった
二つ交差点を抜けて赤い点滅の信号機の下を潜り、静かな住宅地に入った。主幹道路からも外れ、通るクルマもない閑散とした深夜の空気があった。
「そちら側よりもコチラ側を通った方が近道よ」
彼女が促したのは住宅地の際に続く小道だった。
「そう?あなたあたしの行き先の見当が着いていると」
「北本町でしょう、向っているのは。この道順ならそれと知れるわ」
「でもその角を曲がった先から急勾配の登り坂になるわよね。あたしらの足でも移動速度が落ちる。実質の距離は兎も角、かかる時間を考えると逆に遠回りになるんじゃないの」
「大した傾斜じゃないわ。あんたはどうだか知らないけれど」
「それに頂上付近の路肩は切り立った斜面で臭いが風で下に拡散してしまう。いくら風上じゃないとはいえ不用心よね。しかも見晴らしまでいい。ちょうど月も昇り始めたし、何かの弾みでヤツに感づかれてしまうかもしれない。何故にわざわざそんなルートを提案するの?」
「なにその物言い。まるでわたしがあなたに不利な道順を教えているみたいじゃない。不愉快だわ」
「みたい、じゃなくてそうでしょう」
「邪推もいいところ。北本町は坂を下った先よ。しかもここから先は街路樹が茂っているし姿なんて直ぐに見えなくなる。被害妄想よ」
「そうかしら。街路樹がばっさり剪定されているのも知らなかったと。ネットのマップサービスでもキレイに見て取れるのに」
「あら、そうだったの。知らなかったわ。じゃあルート変更しましょうか」
「無駄話とルートの変更。コレでまた少し時間が稼げたわけね」
「あなたいい加減にしてくれる。まるでわたしがアレを逃がそうとしているように聞えるわ」
「犬塚さん。あなた、実はあたしよりも鼻が利くでしょう」
「また妙なコトを。わたしの鼻が利かないと、散々吹聴していたのはあなたじゃない。金川さんにまでネジ込んで」
「あたしが感づく前に巡回ルートを逐一変えて、ワザとアレから遠ざけていたでしょう。一番最初に路地であたしに声を掛けたのも、曲がり角の向こう側にアレが居ると感づいて、アレに気付かせるためだったのね。あの時はまんまと欺されちゃったわ」
「バッカじゃないの、ナニよその言い掛かり。何だってわたしがアレの片棒担がなきゃならないワケ?アレはわたしの家族を食ったのよ。そんな親の仇に何でわたしが肩入れしなきゃなんないワケ?ふざけるんじゃないわよ!」
「最初に学校であなたに会ったあと、妙だなと思ってデコピンにあなたが通った後を追跡してもらったの。何せいつも、自分の巡回ルートでもない隣の地区を歩き回ってから自分の地区に戻って来るし。
尾行しようとしたけれど、あなた、めっぽう鼻が利く上にフィジカル高いから、デコピンですらアッサリ振り切られちゃった。お陰で苦労したわ」
そう言いながらスカートのポケットからスマホを取り出して、スワイプしながら目的のフォルダを探した。
「それでも何日か分をまとめて、地図上で回らなかったルートを時系列順で追ってみたの。そしたら、隣の地区でアレが目撃された日付と地点がぴったり重なっちゃうじゃない」
「あなた莫迦?前日に目撃された箇所を確認するのは当たり前じゃない」
「あたしとペアを組んで動く約束なのに何故一人で?しかも合流する直前に。そして二人一緒の夜のルートとはまったく被らない、見事に避けてる。まるでソコにナニかを隠しているみたいに。・・・・ああ、あった、あった。コレだ」
ようやく見つけたフォルダをタップして、一つの動画を再生させた。
「昨日あなたと別れた後に撮れた画像がコレ。ナニが見える?」
かざしたスマホの画面には、夜間で今ひとつ鮮明ではないがヒトに化けた明らかにヒトでない何かと、それを急かすように誘導する犬塚伊佐美の動画が映っていた。
「資料で確認したけれど、この姿あなたの弟にそっくりね。服や靴は家族のものを寄せ集めてまとっている感じかしら。靴なんて完全にガバガバだわ。あまり知恵の回らないヤツみたい」
彼女は無表情のままだ。だが顔色が尋常じゃない。紙のように真っ白で、まるで能面のような面持ちだった。
「かくまっていた場所から抜け出したので連れ戻している最中かしら。小学校に潜んでいたのね。朝になって子供達が登校してきたら物陰で襲われたかも知れない」
「・・・・」
「弟さんは小学四年生だったわね。学校で襲われて入れ替わったのかも。ひょっとして最初にコイツを発見したのは此処?切っ掛けは誰かさんの残骸を見つけたから、とか」
そこまで言ったところで、手にしていたスマホはたたき落とされてしまった。薄いガラスが割れる音がして、画面は虹色のささくれだったひび割れに変わり果てた。
犬塚伊佐美は目を剥いて、肩で息をしていた。
「非道いコトする。ま、バックアップとってあるからイイけど」
「弟は、修はアレなんかじゃないっ!」
壊れたスマホを拾い上げるキコカに彼女は吠えていた。
「人間に触手なんて生えてないわ。目玉を左右別々に動かしたり、ちょっと伸ばして真後ろを確かめたりもしない。とはいえ世界は広いから、ひょっとすると出来るヒトが居るかもしれないけれど」
「アレに、アレに取り憑かれているだけ。身体の中に潜り込まれているダケ。修は修よっ。アレを取り除いたら元に戻るんだから。わたしをお姉ちゃんって言って、頼ってくれているんだから!」
「潜り込まれていると思って居るのなら、何故病院に連れて行こうとはしないの。普通はそうするわ」
「信用出来る人を捜している最中なのよ。普通の医者はダメっ。人体実験されるっ。切り刻まれるっ。わたし、わたしみたいにっ。そんなの、そんなの、許せるワケないっ!」
叫んだ次の瞬間に犬塚伊佐美の姿はかき消えていた。
「スゴイ跳躍力。流石はレベル4」
彼女の身体は一番手近な電信柱へと跳び、その中程を蹴って更に隣の家の屋根に乗り、そのまま夜の虚空に飛び去っていた。
一瞬の出来事だった。跳躍力だけではない、体裁きとその速度。普通の人間なら目では追えなかったろう。
「デコピン、聞える?彼女がソッチに向ったわ。今の正確な位置と、ヤツが進んでいる方角を教えて」
予備のスマホでほぼ真っ黒な白黒ブチ猫と連絡を取りながら、あたしは彼女が向った方角に向けて駆け出していた。
デコピンの首輪から発信された精密な位置信号と、ビデオカメラに映ったヤツの映像を元にそこへ到着した。古い商店街の片隅にある空き地で、様々な瓦礫が山となっていた。どうやら古い家を取り壊している最中らしい。
暗がりの中に立つ長身の人影が見えた。
あたしは腰の得物をゆっくりと抜いた。
「犬塚さん、ソコを退いてくれる?」
「イヤよ」
「今回の件、何処にも報告するつもりは無いわ。幸い、あなたがかくまっていた間に被害は出ていないようだし、事の子細を知っているのもごく一部。今回の一件は少し手こずったけれど永らく徘徊していたヤツを今晩ようやく見つけて狩った。ソレだけ。
あなたが素直に引き下がってくれれば大事に為らずに済むし、八方丸く収まるのよ」
「修はヒト喰らいなんかじゃない」
「そうね、もう食べられちゃったものね。その犯人は食べた餌に擬態して、ソコの瓦礫の中に隠れているものね」
「修はヒト喰らいなんかじゃないっ!」
一際甲高く叫んだ後に、彼女は獲物である二丁の手斧を抜いてあたしに斬りかかってきた。
諸手で寸瞬の時間差を駆使して斧を振る。悪くない動きだがあまりにも教科書通りだ。
軽く躱して彼女の背後に回り、そのまま瓦礫の中のアレへ駆け出した。間合いを外し完全にやり過ごせたという確信があった。だが彼女は、そのすり抜けの一瞬で片方の獲物を手放し、振り向きざまにあたしの足を捕ったのだ。
何という反射神経。
しまったと焦ったがもう遅い。そのまま引きずり戻され、振り回された後に力任せに地面に叩き付けられた。
土木用の重機が転倒したのかとも思しき轟音。
頭の中が真っ白になった。
「修、修っ。出てらっしゃい。お姉ちゃんと一緒に逃げよう!」
彼女の大声で我に返った。
畜生、やってくれる。地面に叩き付けられるなんて一〇年ぶり位だ。起き上がった地面が何センチか窪んでいた。
よく身体がつぶれなかったものだ。我ながら感心する。
そしてあの子、膂力脚力だけではなく咄嗟の判断も大したものだ。
瞬きにも満たない時間の間に己の得物を手放し、あたしの足を掴む事を選択した。あのセンスは天性のものなのか、それともたゆまぬ研鑽の果てに体得したものなのか。
いずれにしても与えられたフィジカルに頼っただけの猪武者なんかじゃない。
あたしとしたことが見誤っていたわ。
苦笑と共に立ち上がって軽くスカートの埃を払った。アイロンをかけたばかりの制服がシワだらけ埃まみれだ。これでは人前に出られやしない。どんな連中を相手にしても、血しぶき浴びるどころかシミ一つ無く、制服を着崩すことすら無いまま仕事を終えるのが密かな自慢だったというのに。
どうやら天狗になっていたらしい。
認めよう、あたしは此の子を見くびっていた。だが己を叱咤することはあっても、彼女への憐憫が自分自身を曇らせたとは思いたく無かった。
今や、瓦礫の中から這い出てきたアレを庇って犬塚伊佐美が手斧を構える。渡して為るものかと、禍々しい殺気と爛々とした眼差しとでにらみ返してくるのだ。
「修に指一本でも触れてごらんなさい。なます切りにしてやるわ」
「姉弟愛は美しいけれど、ソレはヒトじゃないわよ。ヒトを喰うただの異形」
「やかましいっ、おまえだって似たようなものだろうが!」
「全然違うわよ。あたしは取敢えずヒトと認定されているもの」
屍体なんで人権は無いけれど。
「デタラメ云うな。アレと混じり合った真っ当な人間なんて居るものか」
「おやおや、何処で聞いたの?それは秘匿案件なのに」
あたしは思わず片頬で笑っていた。情報の出所を訊くよりも、その指摘にナイスと言ってあげたかった。だが彼女の嗅覚なら、それと嗅ぎ分けても可笑しくないかと思い直した。
確かにあなたの言うとおり。この身体は只の屍肉で、しかも色々と混ざり合ったモザイクだ。
「あたしが真っ当な人間じゃないのなら、あなたが庇っているソレもご同輩よね」
返答を期待したのだが、残念ながらそれは叶わなかった。




