5-5 魂と月とに誓う
彼の者は猫であった。
デコピンなどと些か不本意な名前で呼ばれているが、取り敢えず食事と寝床を用意し散歩の自由があるから勘弁してやっていた。
そして代金替わりに同居人の手伝い何ぞをやってはいる。その程度の義理は弁えていた。だがそれはあくまでボランティア。彼本来の目的はこの周囲に満ち満ちる全世界の掌握であった。
この世界の全てを我が手に収めねばならない。それは夢や幻想などでは無く義務や権利でもなく、彼がこの世界に出現した意味そのものであった。異論反論は無用であり意味を為さない。そう決まっているからそうなのである。
掴み取るためには知らなければならなかった。だから日々ありとあらゆる場所を巡回し視察し、この崇高な思惑を司る頭蓋の奥底にその全てを刻み込んで行くのであった。
まだ喧噪も少ない早朝の屋根の上を徘徊しながら、彼は朝日でぼやけた白い月を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
世界は広い。広すぎて目眩がしそうだった。しかし彼の欲求を妨げるには役不足だった。むしろかき立てる燃料だった。魂のこの奥底から湧き出るモノがこの世の全てを見聞せよと叫んでいるからだ。
自分が同種の連中よりも些か知恵が回るという自覚はある。だがそのような些細な優位など何の保証にも為らないことはよく知っていた。あの同居人が良い凡例だった。
アレは他の人間よりも遙かに身軽で、力も強ければ老いて弱ることもない。しかも他の有象無象よりも幾分マシな小賢しい知恵と知識まで携えている。
にも拘わらずどうだ。薄くて平べったいガラスと金属で出来た板を終始顔の横に貼り付けて、其処から漏れ出る声に唯々諾々と従うばかりだ。
嬉々とするなら筋も通るが、声が途切れれば愚痴ばかりを口にする。不満があるなら恭順などせねば良いモノを。全く以て独立独歩の気概に欠ける凡俗である。己が持っている資質を何故ソレに生かそうとしないのか。
とは云え、漏れ聞こえる言葉尻を捉えてみれば何某かの弱みを握られているのは明らかで、些か他者より秀でていようが尻尾を踏んづけられていれば身動きなど叶わぬ、という良い見本である。
愚かと笑うのは容易い。だが以て他山の石とすべきであろうと彼は考えるのだ。
ものの長短ことの優劣は、その身が自由であってこそ初めて意味を為すのである。我が身を束縛するものや絡め取られる状況こそ、生涯全てにおいて敵と見なし、闘わねばならぬ相手であろう。
故に彼は常に自由であることを歓び、そして何よりも尊ぶのである。
「あんたは一体なにやってんの」
キコカは呆れた声で自分の相棒を見上げていた。ソレは木の上からぶら下がっているほぼ真っ黒な白黒のブチ猫である。
一本の紐で釣り下がっている猫の身体には、ロープだの洗濯ばさみだの木の枝だの、或いはスナックの空き袋だの様々なものが絡みつき、こんがらがり纏わり付いており、一種拘束プレイ中の猫とも評せそうな、野趣漂う前衛的なオブジェと化していた。
題名は「猫的な蓑虫」だろうか。
当の本人は極めて不本意な表情で「にい」と鳴いている。
鳴くだけで下りてくる気配も無い。いや訂正しよう、下りたくともこんがらがったロープに縛りあげられて、アクロバティックな体勢のまま身動きすら出来ずにいるのである。
新興住宅地は、雑木林ばかりの山を切り崩したその際まで宅地化が進んでいて、キコカが住んでいるアパートの直ぐ裏にまでうっそうとした木々が迫っていた。だからその一角で小学生どもが何やらわいわいと騒いでいると、ふと気になったりもするのである。
で、来てみたらコレなのだ。
「この猫ねーちゃんのか」
やたら甲高い声の男の子が駆け寄ってきた。
「そうよ。あんたらがこんなコトしたの?」
三白眼で睨まれた少年たちが一斉に首を左右に振った。
もの凄い勢いだった。みんな顔が引きつっていた。
ともあれこのアホ猫を下ろしてやらねばなるまい。
飛び上がって鉈で紐か枝を切り落とすのは簡単だが、例え子供の前でも目立つことはしたくなかった。面倒だったが手がかり足がかりに為りそうな枝を使い木に登り、梱包用の大型カッターで紐を切って落とした。
どすんという音と共に、「ぎゅっ」と奇妙な鳴き声が聞こえた。まぁ受け身が取れないのだから仕方が無い。
デコピンの紐を解きながら、何故にと小学生どもにコトの経緯を詰問した。最初のガン付けが効いたのか、皆しどろもどろではあったがそれでも口々に説明を始めた。話の順序が滅茶苦茶で、要領を得るのにかなりの労力を要した。
まず少年の一人が、この雑木林の中で枝葉や空き缶やスナックの空袋の塊が蠢くのを発見したらしい。何事かと思って覗いて見れば、この猫が体中に様々なモノを貼り付けて草むらの中から這い出てきた。
発見した少年は面白い猫だと思ったようだ。
咄嗟に、ゴミを取ってやろうと思ったんだよ、と如何にも後付けの言い訳が添えられていた。が、興味本位だったのは間違いあるまい。それで皆を呼んで追いかけた。追ったら逃げた。逃げたのでまた追った。
そりゃあ複数の小学生に追いかけられたら逃げるだろう。掴まったら何をされるか分かったもんじゃない。
猫は雑木林のアチコチを逃げ回った。逃げ回る内にその身体に纏わり付くモノがどんどん増えていった。
木の枝や木の葉ばかりじゃない、この雑木林の中は不法投棄のゴミの山だった。狭いところを選んで通るものだから取れる付属物も少なくなかったが、貼り付くものの方が断然多かったらしい。
「で、その内にいい加減走ることも出来なくなって、木に登ったはいいがくっついて絡んだロープに足を取られて落っこちて宙吊りになってしまった、と、つまりはそういう訳ね」
連中のわやくちゃな説明を翻訳し終えて要約すると、男の子達は一斉に頷いた。
なんという阿呆な状況であることか。
キコカは、デコピンのネバネバな身体から四苦八苦して空き缶だのロープだの木の枝だのを引っぺがしながら、「よく分かったわ」と溜息をついた。
「俺たちは悪くないよね」
勢い込んではいるものの、にじみ出る不安はあからさまだった。
「うん悪くない。でもこの雑木林には入らない方がいいわね。コイツの二の舞になんて成りたくないでしょ」
粗方ゴミを剥ぎ取った猫をつまみ上げ、ネバつくそれを少年どもの目の前に突き出すと、みな微妙な表情になって互いに顔を見合わせていた。
「しかし今時トリモチなんて何処で売っているのかね。捨てる方も捨てる方だけど近寄る方も近寄る方だよね。しかも全身くまなく満遍なくって、いったい何をどうすればそうなるの。トリモチの入った缶の中にでも落っこちた?」
キコカは衣服にネバネバが着かないように身体から離し、提灯でも下げるような案配でデコピンをつまんだままアパートへと戻って行った。
もがき疲れたのか、それとも再び某かが貼り付くことに嫌気が差しているのか。いずれにしろずっとされるがままだった。ふて腐れている様が手に取るかのように判る。
「君子危うきに近寄らずという言葉を知っているかね、デコピンくん。好奇心旺盛なのは結構だけど、真に賢き者は危険というものも熟知しているものなのだよ」
微かに首が動き、金色の眼差しがジト目になって見返してきた。
そしてアパートの駐車場まで帰って来ると、「さて」とキコカは改まるのである。足元には四角い鉄蓋があって、その中には放水用の蛇口が収まっている。これから何をされるのかは彼の猫でなくとも分かった。
「きみは今世界でも比類無き、ねーばねばな猫であります。到底このまま部屋に上げることは出来ません、さあ困った。
でもしかし心配ご無用、安心召されい。ちょうど昨日、総務の眼鏡女史さまから洗剤と新品のバケツその他清掃用具一式が届いているのです。
漬け置き用の洗剤らしいんで、五分ほどどぶんと漬けた後はブラシでごしごし丸洗い。試供品なので量は少ないけれど猫一匹洗濯するくらいは訳無いわ。
ラッキー、デコピンくん」
つまみ上げられたまま猫は、にぎゃあ~と鳴きながら軟体動物のようにもがいた。だが心なしか力なく、断末魔の足掻きのように見えたのは気のせいだったのかどうか。
「逃げるかね、このままねーばねばのまま路地裏を徘徊するかね。今度は何がくっついて誰が助けてくれるだろうかねぇ。
砂でも被ればネバネバは無くなるだろうけれど、その後はどうするのかねぇ。やがて乾いて固まってカチカチになったら全身毛を刈るしかないだろうね。
丸洗いか丸刈りか、あたしはきみの意思を尊重するよ。さあどっちだ」
ふはははっと勝ち誇った声が駐車場に響いた。力なく弱々しい鳴き声も後に続いていたが、余りにもか細かったので気にする者は何処にも居なかった。
彼は孤高であり夜の支配者であった。
脳天に突き刺さる刺激臭の液体に頭の毛の先まで浸されようと、ハリネズミの如き清掃用具で傍若無人に腹の裏側まで嬲られようと、その魂までをも穢されることは在り得なかった。己を支配しうるは己のみ。その蒼空よりも高く冷徹な黒金よりも堅い矜持こそが彼の真髄だった。強固な自分自身を保持しうる自我とへりくだらぬ崇高な意思こそが、この宇宙でもっとも尊ぶべき真理なのである。
だというのに、何故あの相方はそれを理解し得ぬのか。
雑木林の中で円筒形の野太い容器を見かけ探究心が刺激されたのは確かだ。
ヒトと自称する生き物が作った「ドラム缶」と呼ばれる容器だ。以前精査したことがあるのでよく知っている。一度見聞きしたことは忘れない、探索者の必須要項である。
あの家主はよく事の子細をころころとよく忘れるが、よくあれで生きてゆけているものだ。少しは我を見習えと彼は常々思っていた。だがわざわざ教えてやるほど無粋では無い。
己の短所を己で見つけ出すのも猫生、いやきゃつはヒトであるから人生か、それの意義なのだと彼は強く信じていた。
ドラム缶の周囲を一周しても何も分からなかった。果たしてコレは空なのかそれとも何かが詰められているのか。後者ならばいったい何が入っているのか。一度生じた疑問は解明せねばならない。それが探索者に課せられた使命なのである。
ぴょんと上に飛び乗ってみた。やはり行動してみねば分からぬモノである。これはオープンドラムと呼ばれる型式のドラム缶で、缶の片方が全面丸蓋になって完全に開口するものだった。これでまた世界の謎が一つ解けた。
ただ飛び乗ったせいで、密閉されず中途半端に乗っていただけの丸蓋はどんでん返しの様にひっくり返り、彼の身体は呆気なくその中に転落していった。
そしてその中には類い希なる粘着性の物質が満ち満ちていたのである。
失敗からの生還は成功の何倍も意義のある出来事である。
成功体験が残すのは自信の獲得だけだが、失敗体験は己の至らぬ箇所への開眼と更なる未来への指標、かけがえのない教訓となってその者の更なる高みへと押し上げるからだ。
ひきしっ
彼は屋根の上でくしゃみをした。全身の毛をこさぎ落とされるのではと思しき尋常ならざる暴虐と、猫という存在そのものすら否定しかねない叩き付けられる冷水にただひたすら辛抱強く耐え、ようやく手にした自由であった。
あの温情の欠片も無い同居人には言いたいことは山ほどあった。
だが非難を口にし弾劾する愚は犯さなかった。此度の不覚は確かに己の責任において処されるべき事案。屈辱は甘んじて受け容れよう。その程度の意地と理性はあった。
探求者が己の失態とその原因を、他者に転化するなどあってはならないからだ。
見よこの潔さを、と彼は思った。
あの四角いガラス板に唯々諾々と媚びへつらい、声が途切れた途端不細工な臭いの腐った麦汁を喉に流し込み、不平不満を吐き続ける輩とは雲泥の差である。
己を律し矜持に従い禁欲的にして真摯、不撓不屈の探索に生きる意義と崇高さを知れ。
「にゃおーん」
彼は夜空に鳴いた。
猫の遠吠えが微かに夜気を震わせ染み通ってゆく。細い爪のような月が空に浮かんでいた。
負けぬ、これしきのことで我は折れぬ。麻のごとく千々に乱れ荒れ果てた毛並みも次の春が訪れる頃には元通りになるだろう。同じように傷つきねじ伏せられた自尊心もやがて時間に洗われて、荒れ野に草木が芽生えるように癒しの森へと埋没するに違いない。
故に何も失ってはいないのだと己に言い聞かせる。切られたヒゲが生え替わるように、一旦塞がってしまえば傷は無かったことと同じなのである。
そして彼はこれより生涯の全てにおいて、如何なる困難に直面しようとも二度と決してドラム缶の上には飛び乗るまい。
そう固く、魂と月とに誓うのであった。




