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えげつない夜のために  作者: 九木十郎
第四話 ノロ教授
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4-3 無意識の世界へと引きずり込まれて

「や、ややや、やぁ誰かとおもえバき、きり、きみは、そう、アレ、カツひ、ちらう、そうキ、キコカくんじゃないかかか」


「久しぶりですノロ教授。不躾ぶしつけで申し訳ありませんが、獲物は諦めて穴に戻っていただけませんかね」


「ななあ、何故かネ。わたは、わたしはまだだだ代償をうれろ、うけ、受け取っていないぃぃ」


「諦めて下さいと申し上げているのです」


「こ、こんなとろろに追い込んで何をいいらすのかと思えば、何たるたる無理難題。れつれい、いや失敬、失礼ではないのかれ?」


「大分脳ミソの腐敗が進んでいるようですね」


 踏み込んだと同時に鉈を水平に振り払い、男の目玉から上半分が消えて失せた。隣のビルの壁に頭蓋と二つの目玉だったモノが叩き付けられて、白いパテ状の何某かと血肉の塊に変貌していた。


「どうです、少しはマシでしょう」


「おお、ふむ、何だかすっきりしたよ。いや、しかし本当に久しいね、一年ぶりくらいかな」


 目と頭頂部がすっかり失せてしまった男性であったが、逆に口調は滑らかで澱みが無かった。


「三二年ぶりです」


「おやもうそんなに経ったか。だがきみはまるで変わっていない」


「教授の施術のお陰ですよ」


「ふふん、我ながらなかなかの出来であるな」


「穴までご一緒いたしましょう」


「先程も言ったがわたしは代償を物色しておるのだ。邪魔をせんでくれるかね」


「ここ数日あちこちを徘徊していたようですが、お眼鏡にかなった獲物が居ましたか」


「居んな、まるで居ない。何奴も此奴も不衛生なままぶくぶくと太りおって。余分な化学物質を内外に取り込みどういうつもりか。節制というモノがまるでなっておらん」


「でしょうね」


「わたしを呼んだあの女医も濁ったはらわたであったが、差し出されたものを食わぬようでは沽券こけんにかかわる。不味いが我慢して食ったよ。願いは叶えたがソコで彼女は力尽きてしまった。

 折角いましばしは生きながらえるよう処置をしておいたというに。昨今の若い者は根性が無い」


「教授に比べれば地球上の人類大半が若いでしょう。取り敢えず今回はコレで我慢して下さい」


 手提げ鞄の中から大きめの包みを取り出すとそれを放って投げた。


「なんだコレは」


「豚肉のブロックです。ロースで高かったんですからね」


「ふざけるな、こんなモノで誤魔化すつもりかね」


「手間賃だと思って下さい」


「死霊の本を読み操る者がかようなおふざけ、許されることではないぞ」


「あの本をありがたがる者も多いです。でもあたしの人生の中で最大の過ちであったと思ってますよ、未だにね」


「知ってしまった事がかね」


「すがってしまった事が、ですよ」


「やれやれ。あの本をキチンと読み取れた者は本当に少ないというのに、何というバチ当たりなこと言う。それでもきみはわたしの生徒かね、実に嘆かわしい」


「元、です。さ、それを土産にお帰り下さい。全くの手ぶらでは無いのですからまだマシでしょう」


「イヤだと言えばどうする」


「五分刻みにして穴に放り込みます」


「出来ると思うのかね」


「出来ますよ」


「悪あがきでこの辺り一帯が血の海になったとしてもかね。贄の一人もあれば大人しく戻ってやるものを」


「すればよろしい、知ったことではありません。あたしの仕事はあなたを穴に押し込める事ですから」


「やれやれ、脅しも効かんとは可愛げのない」


「どなたかの教育がよろしかったので」


 あきらめたような風情の溜息があり、最近の若い者は敬意が足らぬと、老人特有の愚痴が聞こえてきた。


「まぁ良い、これも時代の趨勢すうせいか。その内きみも身に染みよう。ところで、巷ではわたしのように向こう側に堕ちたモノには、知性が無いと言われとるらしいな。あるいは這い出てきたモノと言い換えた方がより正確かもしれん」


「唐突にどうしたのですか」


「今、きみの脳裏に浮かんだ一節だよ。最近何かあったか」


「言う必要はありません」


「こうやって会話が成立しているように見えるのは、ただの形態反射か」


「やかましいですね」


「取引が成立するのだから、確かに知性はあるのかもしれない。しかし価値観は違う。倫理観も違う。別の生き物なのだから仕方が無い。でも境界さえわきまえておけば、無駄な争いは避けることが出来るのではないのか」


「少し黙って頂けませんか。さ、戻りますよ」


「堕ちる者が増えれば、わたしのように取引することが出来るモノが増えるかも知れない。増えないかも知れない。何せ淵を覗き込んだ者の大半が発狂してしまう有様だ。が、全てではない。わたしのような例外も居るからね」


 教授の弁舌は相も変わらず滑らかであった。


 意図的に選んだ者を落とすというのは、悪くないアイデアなのではないのか。三十年以上あそこの穴を開く術式を破壊もせず、未だに保持し続けていたのもその証拠。

 取引者を得、穴の奥から今まで汲むことの出来なかった知恵を吸い上げることが出来るのではないか。


 長い歴史の中で偶然開眼する者も居るが、そんな者は本当にごく稀だ。ならば進んで試して見るのも悪くはあるまい。


 たとい確率は低かろうとも、堕とす数を増やせばそれだけ願いは叶い易くなる。指を咥えて恵みの雨が降ってくることを祈るよりは余程に有意義である。


「そして、上司や更にその上の連中はそのような思惑を抱いているのではないかと、きみは疑念を抱いている。違うかね」


「本当にうるさいですね。運ぶのが面倒なので歩かせようとしてますが、五分どころかこの場でミンチにしても良いのですよ。もしかしてそちらの方がお望みですか」


「ふふ、歩くよ歩くよ。折角きみからもらったコレを細切れにしてしまったら申し訳ないからね」


 そう言って手に下げた買い物袋を軽く上げて見せた。


 頭の上半分が掻き消えた白衣の教授は、ふらりふらりとたよりのない足取りで路地を出、繁華街の中を歩き始めた。どう見ても異様な光景の筈なのだが、それを見咎める者も騒ぐ者も誰一人として居なかった。


「キコカくん、きみはいま警察の仕事をやっているのかね」


「無断であたしの頭の中を覗かないで下さい。名前もそうですが」


「固いことを言うな、きみとわたしの仲ではないか。色々と不満は渦巻いておるようだな。この状態では表面しか判らんが、感情がふつふつと静かに煮えているのは見て取れる」


「教授、あなたへの最大の不満はですね。私が願ったのは彼女の再生であって、『あたし』としての再生ではないということです」


「うむ、それに関してはいささか悪い事をしたと思っておるのだ。だが、用意されたモノに肝心要の部分が微塵も残って無かった。ほんの一欠片でも残っておれば、淵より探して引き上げることも出来たものを。よって次善の手段を取るしかなかった」


「まぁ、薄々そういう事ではないかと思っていました」


「しかもアチコチつぎはぎになってしまった。折角きみが全てを注いだ願いだと言うに」


「そうですね」


「怒らんのかね」


「怒って解決しますか」


「せんな」


「でしょう」


 さして早くもない足取りだったが、それでも順調にあの現場に辿り着いた。


 だがそのまま封鎖線のテープを乗り越えて入ろうとすると、一人の警官に誰何され止められた。しかしそれはあたし一人で、件の教授だけはふらふらと中に入り込んで行くのだ。


「だからあたしは捜査関係者だと言っているでしょう」


「何を言っているのかね、きみのような女学生がそんな筈は無かろう。デタラメを言うのは止めなさい。此処はドラマや映画の撮影をやっているのではないのだよ」


 身分証を持ってくれば良かったと後悔したが後の祭り。押し問答をしている内に教授が見えなくなってしまった。仕方が無いので警官の向こうすねを蹴りつけると、相手は奇妙な悲鳴を上げて悶絶した。


 うずくまるその脇をすり抜け、封鎖線を飛び越える。手加減したので折れてはいないと思うが構っている余裕はない。そして建屋の中に駆け込んだ。


「教授?」


 声を掛けたが返事は無い。


 それを期待した訳ではなかったのだが、反応が無ければやはり少し焦れた。窓は戸板で封鎖され、薄暗い階段脇の廊下を真っ直ぐ行くと突き当たりには小さな講堂があり、そのドアを開けるとソコにはやはりあった。三二年前に自分が描いた召喚陣が。


 だが奇異なモノが一つある。陣の端に置かれたスーパーの買い物袋だ。近寄って中を確かめてみれば間違いない。先程自分が教授に手渡した豚肉だった。

 此処にまで来たのは確かなのに、本人の姿は何処にも無かった。法陣はまだ開いたままだから本人が穴に戻った訳でも無さそうだ。


「何処に行ったあのボケ教授」


 立ち上がろうとして首筋にチクリと何かが刺さった。

 しまったと舌打ちし首筋を押さえて腰の鉈に手を伸ばした。だが振り返る前に目がかすみ膝が折れ、そしてそのまま無意識の世界へと引きずり込まれていったのである。

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