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えげつない夜のために  作者: 九木十郎
第三話 腐臭
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3-4 狂気の色合いだけ

 それは資料室で過去の事例を物色していたときに見つけたものだった。

 どうやって発覚したのか、どんな顛末であったのか。その一連の記述は最初から最後までよく憶えている。出来れば忘れてしまいたい内容であったが、ひとたび知ってしまえば決して忘れられない内容ものだった。


 可能ならば知らないままで居たかった。


 だが知った方がより効率よく、いまの仕事をこなすことが出来る。知らないよりは知っていた方が格段に都合が良い。まだ喰われていない者たちを助ける一助に出来るかもしれない。そう思うからこそ、時間の許す限り丹念に過去の事例を吸い上げ続けた。

 決して愉快とはえない作業、眉を潜めたくなる記述ばかり。だが明日への糧になると信じた。


 いまも気づけたのは、そういった過去の自分の地道な積み上げのたまものだった。


 自分の腕の臭いを嗅いでみた。だがよく分からない。当然だ、自分の臭いなど自分では気付かないものなのだから。


「夏岡、あたしからはどんな臭いがする?」


「どうしたの、いきなり」


「いいから感想を聞かせて」


「んー、キコカちゃん自身とこれは猫かな。たぶん雄だね。シャンプーはリンス無しでボディシャンプーも使わずに石けんオンリー。珍しいね。ムースや乳液なんか使わない文字通りのナチュラル、JKの特権だね。トイレを済ませたのは二時間から三時間ほど前かな。汗ばんでいるけど平常範囲、背中や顔よりも脇の下によくかくタイプ。それとスルメとビールの臭いがするよ、一口か二口ってところだね。

 仕事前に一杯引っかけるのはどうかなと思うけれど、こんなコト飲まなきゃやってらんないよね」


「腹の中の臭いも分かる?」


「それは流石に難しいね。吐く息や口や肛門周辺の臭いからそれと察するのが関の山だよ」


「体腔周辺の臭いなら問題ないということ?」


「うん、まぁ」


「それ以外は?あたしがヒトじゃないということは嗅ぎ分けられているんでしょう」


「え、う、うん」


くわしく教えて」


「お、怒らないでね。キコカちゃんの体臭はヒトとアレの混じりものだよ。ヒトっぽさはかなり薄くなってきているけれど、以前会った時から変わらないみたいだから今の状態で安定しちゃっている感じかな」


「・・・・」


「キコカちゃん?」


「あんた学校に生徒として潜り込むのよね」


勿論もちろん。夜間の方が得意だけれど昼間も地道に頑張っちゃうよ」


「アレとヒトが全く同じ場所に居たとして、それぞれを子細に判別出来る?」


「莫迦にしないで欲しいな。確かにアンモニア系の臭気に特化した犬の鼻には劣るけど、ボクの鼻はレンジが広いんだ。その程度なら一〇メートル先からでも見分けて見せるさ」


「腐肉だとしても?」


「造作ない」


「それを聞いて安心したわ」


「何か心当たりがある?」


「心当たりと言うよりも、懸念ね」


 キコカは夏岡十里に内容を説明し、その日の探索はそれで終いとなった。




 ずっと違和感があった。


 最初はそれが何なのか分からなかったが、ふと気が付いたのは昨日教室で中野教諭の胸元に小さな染みを見つけたときだ。実力テストの結果を手渡され「本当に頑張ったのね」と微笑まれ、小さな愛想笑いを返すときに目に留まった。

 それは間近でなければ気付かないほどの小さな染みで、余りにも微かだったから普通の人間には分かるまい。そして染みに気付かなければ恐らく分からなかったろう。


 胸元から極々微かに匂っていたのは母乳の香りだった。


 彼女とて生身の女性なのだからそういうこともあるだろうと、特に干渉しないつもりだった。が、同時にもう一つ奇妙なことにも気が付いた。母乳が匂うほどに彼女自身の体臭がかすれて希薄で、微かなアルコール系の残滓ざんしが臭っていたことだ。


 制汗剤やコスメで使う類いの消臭剤ではない。もっと本格的な工業系の消臭剤か薬用アルコールの類いだ。随分と徹底していると思った。

 そして、それはそれだけのものを使わないと払拭出来ない臭いをまとっていたという事ではないのかとも思った。


「中野先生」


 放課後の校舎の中でキコカは自分の担任を呼び止めた。


「あら邑﨑(むらさき)さん、未だ残っていたの」


「お話があります」


「あ、ごめんなさい先約があるのよ。申し訳ないけれど明日にしてもらえないかしら」


「成績相談をする彼は、先生に急用が出来たと言って先に帰ってもらいました」


 窓から差し込む斜陽の中で女教師は困ったような顔になった。


「ちょっと、あまり勝手なことしないで頂戴。彼にとって大切なことなのよ」


「あたしの用事の方が急ぎの案件でしたので」


「強引ね」


 あきらめたような溜息をつく女教師を誘って空いていた教室に入り込んだ。入り口を開けた途端、むっと籠もった空気が顔をで、彼女は少し顔をしかめた。


「相談室の方が良くないかしら」


「誰も居ませんから問題ないです。ちょっと臭いますがね」


「そ、そうね」


「この教室も臭いますけれど、最近学校全体が臭うと思いませんか。何とも言えない生き物の体臭のような」


「そう、かしら」


「そうですよ。先生だって気になるから、いつも消臭用に薬用のアルコールを持ち歩いていらっしゃるのでしょう?」


「よく知ってるわね。でもこれはわたしが汗っかきだからよ。市販の制汗スプレーじゃ効き目が薄くって」


「コスメ関係のスプレーではお腹の中の臭いまでは消せないでしょう」


「何、の話をしているの。相談があってわたしに声を掛けたのではなかったの」


「相談ですよ。と言うよりも自首の勧めですけれども」


「自首って、誰が。どういうこと」


勿論もちろん先生が、ですよ。今ならまだ寄生されたがゆえの精神錯乱、という理由で極刑をまぬがれることが出来ます。これ以上無駄に問答せず、素直に出頭すれば最悪の結末を迎えずに済むということですよ」


「あなたどうかしているの。テレビドラマか何かに感化されたの?それとも意地の悪い引っかけか、ドッキリでも仕掛けているつもりなのかしら」


「おふざけでも何でも無くてマジもんの話なのですけれどもね。それに先生のお腹のソレ、すでに死んでいますよ。恐らく拒絶反応でしょうね。以前何件か似たような事例が在ったのを知っています」


「!」


 女教師は反射的に自分の下腹部を両手で覆っていた。


 日に日に腐敗臭が強くなっていくコトに気付いていらしゃるのでしょう?表面の臭いをどれだけ丹念に消したところで、後から後から漏れ出してくるのですからキリがありませんよね。


 膿や出血が少しずつ増えていっていませんか。誤魔化すのはもう限界と分かっているでしょうに。


 いくら餌を与えたところで元には戻りませんよ。食いたくもないモノを無理矢理食い続けるのも苦痛でしょう。食い残しを隠す場所にも苦労なさっているのではないのですか。


「それとも後始末はすべて、『掃除屋』に任せてしまって居るのでしょうか」


「・・・・」


「もう無理なんですよ、先生」


 中野教諭の顔は血の気が引いて蒼白だった。


 それはまさに蝋人形のようで。


「あなた、何者?」


 つぶやく声には感情の一切が失せていた。


「他所から学内の清掃を命じられた女生徒、と言っても信用してはもらえないでしょうね」


 そう言うと軽く肩をすくめた。


「出頭と一緒にお腹のソレを病院で取り出してもらいましょう。まずはそれからです」


 努めて平静平穏を気取ったつもりだったのだが、受け答え方がまずかったのかもしれない。あるいはその態度だったのだろうか。


 彼女のかおが見る見る内に変形してゆく。ものの見事に。


 それはまさしく般若だった。


 彼女が隠し持っていたナイフを繰り出したのはまさに次の瞬間。

 思いの他に素早くて目にも留まらぬと言っていい。何の躊躇ちゅうちょも無く喉を狙ってくる辺りも大したものだ。


 だがそれはあくまでヒトにしては、というだけの話。アレやその眷属を相手にする者にとってしたる脅威じゃない。軽くかわし手首を取ってヒネって、床に取り落とさせた後に蹴り飛ばした。

 夕陽を反射して一瞬だけ光り、だんと音を立てて壁に突き刺さった。

 果物ナイフだった。

 

 相談室に呼び出した男子生徒に使うつもりだったのだろうか。


 そのまま中野先生の腕を身体ごと振り回して床に叩き付けた。

 ぎゃっと悲鳴が上がった。手加減したつもりだったがゴキリと肩の関節が外れる音がした。


「大丈夫ですか」


 黒髪が乱れ、蒼白の顔が怨念を刻んだまま見上げている。痛む肩を押さえて唇がわなわなと震えていた。


 不意に体をかわし、逃げだそうとしたその襟首をつかまえて勢いよく引き戻すと、そのまま床を滑っていって、並んだ机と椅子にぶつかって派手な音を立てた。

 さっきよりも力は込めなかったのだが、まだ強かったらしい。


 狼狽ろうばいと共に幾重にも折り重なった感情を貼り付けて、彼女は親の敵のごとくあたしを見据みすええるのだ。


「さ、駄々をこねないで下さい。あたしと一緒に行きましょう」


 突如として「嫌よ」と叫び喚きだした。


「嫌!嫌、嫌、嫌、嫌、いやよっ!絶対に駄目っ、ダメよっ!」


 完全に裏返った金切り声だった。目が吊り上がり血走っていた。少し前まで冷静温厚だった女教師の姿など微塵も無い。


 端から見れば全ては突然の変貌に見える、が、それはただの上っ面。裏側はもう薄く張り詰めて限界ぎりぎり破裂寸前の風船だった。

 ただそれが針の一突きで割れただけのこと。


 今、在るのはただ狂気の色合いだけだった。


 彼女は叫ぶ。自分がどれだけ苦労したのか、どれだけの葛藤をもってソレに従事していたのか。それは事細かにわめき始めた。

 溜め込んでいたものを一気に吐き出すかのような勢いだった。

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