2-8 特に何も響かなかった
教室に戻れば彼女以外にも食いついてくる子が増えていた。
定期考査前に一緒に街へと繰り出したメンツの一人だ。
赤点とって追試に為ったから勉強教えて欲しいのだという。
名前は確か沢渡某だったかと思う。やはり下の名前は憶えていなかった。
何やら切羽詰まった様子だったので断り切れず、良いよと言ったら「じゃあわたしも」とよっしーが手を上げた。
「あなたも赤点?」
「そうじゃ無いけどモノは次いでってヤツよ。じゃあ学校が終わったらみんなで勉強会をやろう」
集合はゆかりっちの家で良いかなとよっしーは言う。
いいよと彼女は云い「キコちゃんもそれでヨロシク」と肩を叩かれた。
何故?
昨日、前年度分下半期分の決済が下りたので帳簿の都合上今回の報酬が前払いとなり、久方ぶりに懐が潤っていた。
今夜は豪勢に飲めると内心ほくそ笑んで居たというのにコレでは予定と違う。
まさかこの流れで断るわけにもいかない。
やれやれ。
こうしてあたしは密かに諦めの溜息を吐き出す羽目と為った。
勉強会とは言いつつも内実は只の雑談会で、近所のコンビニで買ったスナックとジュースとが座卓の上を占領し、わさわさと他愛の無い噂話や愚痴や雑誌で読みあさったと思しき雑学とゴシップ記事とに花を咲かせていた。
「ただ話をしてて良いの?」
そもそも皆で集まったのは、赤点で追試がヤバいから教えてくれと言う話では無かったのか。
「まままま。キコちゃんお真面目だなぁ。ま、ソコが良いところなんだけれど」
「人生には息抜きが必要なのよ」
言いだっしっぺの彼女までもがこんな事を言っている。
「沢渡さんが良いなら良いけれど。困るのはあたしでは無いのだし」
「それを、言われると・・・・」
「そうね。べ、勉強しよっかな」
「やりたくないのならそう言えば良いのに」
「いやいやいやいや、意地悪言わないでよ。今からちゃんとやるからさ」
赤点を取ったという彼女の答案を見せてもらい、もう一度今度は教科書や参考書を見ながら解いてもらった。
同じ失敗をしなければ最後は満点を取れるはず、と納得させて解答を添削し、幾度か問題と正解とを解説してその日の勉強会を終えた。
「いやぁ何だか学校以上に勉強しましたって感じだよ」
「よっしーは何もしていない」
「つれねぇなぁ。でもそんなクールなところがステキ。ゆかりっちはコレで大丈夫?」
「謎だった部分は全部教えてもらったし大丈夫・・・・かも」
「分からなくなったらまた教えるから」
「うう、ありがと。頼りにしてます邑﨑ちゃん」
玄関まで沢渡ゆかりの母親から見送りを受けて、キコカと芳村は彼女の家を後にした。
「ゆかり、今日芳村さんと一緒に来た子が新しく転入してきたクラスメイト?」
普段なら何の詮索もしない母親だというのに、今日に限って我が子の友人の事を訊いてきた。
「うんそう、邑﨑さん。ちょっと目つきスルドイ感じだけど気の良い子だよ。最初の頃はわたしもびびってたけど」
「村崎じゃなくて邑﨑なのね。名前はひょっとしてキコカ?」
「あれ、お母さん知ってるの?」
「あ、うん、ちょっと先生に名前を聞いたことがあってね」
「耳に残る名前だよね。本人には悪いけどさ」
ゆかりは屈託無く笑っているだけだったが、母親は複雑な笑みで曖昧な返事をするだけだった。
日常風景の中の邑﨑キコカは只の目つきが悪いくせっ毛の女子高校生なのだが、時折教師だの教師以外の何者かだのに声を掛けられる場面が多くて、些か奇異に思う者も少なくない。
だがそれでも彼女の学生生活に何ら支障が及ばないのは、彼女ならば仕方が無いといったある種独特の雰囲気というか何某かがあって、皆が皆一様に納得してしまっているからだ。
だがそれでも、気に掛ける者が皆無という訳でもない。
その日のよっしーもまたそんな奇特な者の一人だった。
昼休み。
目標であった購買の特製タルタルソースがけ厚切りハムカツサンドが売り切れていたので、泣く泣くアンパンで我慢していた彼女であったが、何処でパクつこうかと思案している最中一人の女性の姿が目に留まった。
あれ?ゆかりっちのとこの小母さんじゃん。
しかも一緒に連れ立っているのはあのキコちゃんである。
独特のハネてうねる髪型は見間違いようが無い。
ちょうど二人して談話室の中へと入ってゆく場面だった。
普段なら気にも留めず直ぐに忘れ去っていただろう。
腹の虫も盛大に鳴いている最中だ。
しかし何故かその日は少しイケナイ好奇心がむくむくと湧き上がってきて、いったい何事なのだろうかとちょっと覗いて見たくなった。
体育館の裏手に回って、雑草だらけの裏庭を通り雑木とクモの巣をかいくぐったあとに本館の裏手に回れば、談話室の窓の下へと行き着く事が出来る。
窓にはカーテンがあったが幸いにも開かれたままで、その寸足らずの裾の隙間から中の様子を伺うことが出来た。
さて、話声は聞こえるだろうか?
息を潜めて覗いて見れば、キコカとゆかりの母親は会議室によくある折りたたみの机を挟み向かい合わせて座っていた。
「あなたがこの学校に来たという事は、アレが此処に居るということね」
「本当に久しいわね。名字が変わっていたので気が付かなかった」
「挨拶なんて結構よ」
「そう。まぁ居たと言う方が正しいわ。今は残務処理といったところよ」
「危険は無いと」
「そう言ってもいい」
「その言葉を鵜呑みにしろというの」
「別に信じてもらわなくてもいいけれど。説得はあたしの仕事じゃ無いし」
「あなたは全然変わらないのね。自分の仕事以外何も興味が無い」
「黙っていてくれるという約束だからこうやって話も出来るのだけれども、本来ならばこの会話は禁則事
項に触れるのよ。それとも忘れさせて欲しいという申し入れなのかしら」
「止めてよ!勝手にわたしの頭の中を弄らないで」
「そう。じゃあもう特に何も無いわね、ならあたしはこれで」
「待って、あの子は大丈夫なのよね。この学校はもう絶対安全なのよね」
「絶対なんて有り得ない」
「無責任よっ」
「例えば、今日あなたが学校から帰るときに交通事故に遭わないと確信出来る?或いは昨日までは安全だった通学路。けれども今日の夕刻突然頭のおかしなヤツが現れて、下校中の生徒を襲わないという確証は?予測は出来ても確約出来ることなんてこの世には存在しない」
「詭弁だわ。責任逃れの言葉遊びで誤魔化さないで」
「前にも云ったけれどもあたしの仕事はアレの解体と後始末なの。見つけたヤツを狩るだけで安全の確保は業務外。もちろん、被害が無ければそれが最良だと思っているし襲われないように最大限の努力はする。けれど完璧って訳じゃないのよ。害虫害獣の駆除に被害が出るのは致し方のないこと」
「仕方が無い?それで、そんな理由で早苗や祐子は死んだの?ふざけるなっ」
「喰われて亡くなったのはあの子たちだけじゃない。他の学校でも、この世界のあちこちでもいまこの瞬間、誰かが不本意な結末を迎えている。取り敢えずこの学校での最大懸案は取り除かれたのだからそれで良いじゃない」
「家族が、自分の子供が居ないからそんな呑気なことが言えるのよ。自分よりも大切なものがあるという気持ちが持てないのよ」
「辛いようね。やっぱりクスリをあげましょうか」
「まっぴらごめんだわ」
椅子から立ち上がったキコカがふと窓に目を向けた。
ゆかりの母もつられてそちらを見たが、ただ雑木や学校の境界に建つフェンスが見えるだけで他には何も見えなかった。
「あたしは近日中にこの学校を出て行く。だからもうイライラしなくても良いわ」
「驚いた、昆虫みたいなあなたも相手を慮るふりくらいは出来るのね」
行き場の無い感情と皮肉をねじ込めた精一杯の台詞ではあったろうが、生憎とあたしには特に何も響かなかった。