保土ヶ谷 2
四年生の学年末に行う発表会を二分の一成人式などと当時は言っていたが今でもあるのだろうか。
私は小学四年生になった。
その頃私にはテレビ権がなく、自分のみたいテレビ番組を見たことがなかった。また一般家庭の子どもたちが見るであろう、毎話人が死んでいく小学生探偵のアニメや暴力的解決が好きなパンのアニメ、世話しているペットを瀕死まで戦わせるアニメ、裸にならずにはいられない少年のアニメ、呪文を唱えている間は闘わないアニメなど一つも見ずに過ごしていた。
宗教の思想を基にした母の教育方針であったが実に平和主義な性格になったのである意味では功を奏したのであろう。
そう言った理由でクラスメイトとの会話は私にとって実につまらなかったし面白くもないアニメの続きを見たがって時間を気にする彼らを理解できなかった。
話を合わせようと何度か家族に頼んでテレビ権を勝ち取り、見てみたものの、私にとってはだが、テレビの前で楽しくもない時間を過ごすのは修行に近かった。
しかし、私は音楽が大好きだったので流行りの音楽について行けないのはなかなか辛いものがあった。
結局、クラスメイトとの会話は必然的に減り私は図書室に篭るようになった。
そんな折、私は運動がしたくなった。
そもそも運動をするのは好きなのである。体を動かし走り回るのが好きなのである。何を隠そう私は陸上クラブの一員であった。
それで日頃から昼休みにドッチボールをしているメンバーの主格に参加させて欲しいと頼んだのだ。
しかし、私は球技が苦手であった。
走るのも泳ぐのもマット運動も得意であるのだが、ところがどっこい、道具を使い出した途端右も左も分からなくなるのだ。
それでその主格は言った。「お前は仲間に入れない」と。
カチンときた私は担任であった男性教員にそのことを溢した。
担任は昼休みにもう一度声をかけて見るよう勧めてくれた。
だが、そこまでしてただのクラスメイトと運動がしたいわけではない。放課後姉二人と犬の散歩に行けばいいのだ。
私は面倒くささからその日も図書室で本を読み昼休み終わりに合わせて教室へ戻った。
すると教員はどうだったかと聞いてきたので「行きませんでした」と答えた。
教員は蟠りが残るといけないと考えたのだろう。私とその主格を二人で話すよう廊下に出した。実に面倒だった。その主格はあれこれと私を仲間に入れない理由を連ねたが私は聞いてなどいなかった。
その主格は言った「聞いてる?」
私は言った「聞いてるよ」
その主格は言った「じゃあなんて言った?」
私はもう我慢ならなかった。そこまでの熱量ではないのだ。
彼と仲良くしたいわけではない。ただ少し体を動かそうとしただけで、図書室に行くまで廊下を走ったことで満足できていた。
私は答えた。正直に「ごめん嘘聴いてない」と。
その場に教員が現れた。
そしてその経緯を主格が伝えた。
そしてまた、私は怒られた。
その時からであろうか。
私はその担任に嫌われ出した。
さて、その担任はまだ若く俗に言うイケメンであった。
小学四年生を相手にする体力も筋力もあった。
すでに話した主格の生徒はよくその担任に飛びかかっておんぶをしてもらっていた。私も甘えたくなったことがあり抱きついたことがある。しかしその時その担任はすごい形相で私を睨みつけ舌打ちをした。
人に嫌われると言うことを初めて怖いと思った。
まだまだ若さの最盛期である。
恋もした。
女子生徒である。
彼女はみずきと言った。
みずきは小柄で天然パーマの髪の毛をいつも持て余しており、頭のてっぺんで一つ、後の毛を二つに結ぶと言う不思議な髪型をしていた。
私たちは私が知人の土産で家から持ってきたモンゴルの岩塩を一緒に舐めると言う、スイーツを食べるでもおやつを食べるでもない不思議な遊びをしていた。
5年生になっても私たちは仲が良く一緒に下校しよく遊んだ。
私たちの家は遠かったので下校時は10人くらいで学校から出るのだがみずきの家まで歩いて行く途中で一人二人と減り最後は私ともう一人くらいになり皆を送り届けて私は一人で帰ると言った日々だった。
ある時には私の帰宅時間があまりに遅いので警察沙汰にたりかけたこともあるほどである。
五年生になり私は射精というものを覚えた。
いや、自覚のないうちの行為だったのでなんと言えば正解なのかわからないが精通をした。
しかしその頃の私は実に清廉であり卑猥な単語を一切知らなかった。
男性器も女性器も“あそこ”もしくは“おまた”と言っていたのだ。胸は“胸”だったし性行為の名前すら知らなかった。
私が調べた単語は“イク”である。
なぜその言葉を知っていたのかわからない。
“イク”
つまり男性のオーガニズムの際の言葉である。
調べたページには男性器やそれに類するものが多く私は生まれて初めて、同性に意識的に関心を持った。
持ってしまったのだ。
初めての精通の際、私は尿意が抑えきれずトイレに駆け込んだ。しかしすぐ尿意が治った。部屋に戻るとシーツに微量の高粘着な液体がついていた。しかし精子などというものは知らないのでなんだろうかと不思議に思ってその日を過ごした。
その後しばらく陰部をいじることはなくなった。
その年の冬である。私は怖い夢を見て魘されていた。
というのもその頃、両親の間で不和があり父が原因ながら母が家を出て別の家に住み始めたからである。
朝、父が仕事へ出かけた頃、母が訪れ
昼、子どもたちが学校から帰る頃は母が迎えてくれ
夜、美味しくもない晩御飯の支度をして父が帰ってくる前にアパートへ帰る
というような不思議な家庭となった。
その母がいない夜の出来事である。前述したように私はひどくうなされていた。
らしい。父が朝そう言ったのだ。
私もその日の夢をいまだに覚えている。
家族をひたすら呼び続け追いかけ続け探し続ける夢である。
場面は賑やかな遊園地であった。
私は夢の中で怖くて泣いていた。
しかし急に場面が一変するのだ。
暖かい腕に抱かれ頭を優しく撫でられる。だから私はホッとしてまた泣くのであった。
そして目覚まし時計の音がなった。
目覚めると横に父がいた。父は寝ていたが私にしっかりくっつき背中に手を当てがっていた。
その時からである。
父のせいにするつもりはない。しかし男性に抱かれたい!そう強く願いを持ったのはあの後からなのである。
そんなこんなで6年生なった。
ここで語ることは大してないのだ。
しかし私は軽いイジメを受けていた。
それもそのはず。
学年遠足で大便を漏らしたからである。
もうしたことは仕方ない。どう開き直るかが大事である。
周りはキモいと言ったが私は聞こえないふりをしたし、人の噂もそんなに長続きはしない。十月十日ではないが…なんと言ったであろうか。
まあそんなところである。
卒業式の際、『旅立ちの日に』を歌った年代はわかると思うが、伴奏の際一人一言ずつ決まった単語を大きな声で言う。
例えばこんなふうにである。
「今日まで」「育ててくれた」「お父さん」「お母さん」「また」「見守ってくださった」「地域の方」…
私は当初「お母さん」を担当するはずであった。
しかし担任のベテラン女性教員は「あなたはお母さん出てちゃったからお父さんにすれば?」などと言い
私は「お父さん」担当になった。
私は母に捨てられた記憶はなかったのでピンと来なかったのだが今思うとなかなかセンシティブな発言である。
そんなところだ。目立つこともなくかと言って埋没することもなく、私は私らしく小学校の卒業式を迎えた。
念のため、父も母も卒業式には来たしなんなら母方の祖母も来て皆で写真も撮った。
こうして私は中学へ入るまで春休みを満喫するのであった。




