保土ヶ谷 1
母は歓喜した。
何せ関西弁を野蛮だという母である。標準語で話せる相手がいるだけで心が休まるのであろう。
しかし父は大いに悩んでいた。子どもたち5人を転校させ中学生になっていた上三人の年子の制服代やら諸経費やら。また社宅も社員に宛てがわれる広さの物件では子ども5人住むのは手狭で部長職用の社宅に住まなければならなくなりそうなると必然的に経費が嵩むと言った現実的な壁があったそうだ。
ここで登場、伝家の宝刀“神頼み”である。と言っても慎ましいものだ。まず神に祈る。道を教えてくださいと。
少し話はズレるが母の箱根にある実家は由緒正しい寺社であり母は自分の信仰を理由に勘当されていた。
故に勘当されている娘家族がこれまでよりもグッと近くに来ることを母の実家が良しとするか否かで決めようというのだった。
普段ならとんでもない剣幕で神奈川に来るな!という母の実家であったが、この時はなぜか電話越しに泣いて喜ばれだという。
神頼みが吉と出たようだ。
かくして父の単身赴任ではなく、一家揃ってでの大移動となった。
私が7歳、小学2年のゴールデンウィーク中、5月3日のことである。
ゴールデンウィーク明け、私は新しい学校のクラスメイトの前に立っていた。
家庭内では標準語だったとはいえ1年間同級生の大阪弁に晒されていた私は、大阪弁寄りの標準語で言葉の端々に訛りが散りばめられていた。
あのね帳というのをご存じだろうか。『先生あのね』から始まる日記のような内容の文を書くという趣旨のマス目のあるノートである。ゴールデンウィーク中の宿題として大阪で与えられた課題である。奇しくも保土ヶ谷でも同じ宿題であった。文体は比較的で思ったことを自由に書きなさいと教えられていた。
しかしどうだろう、同じノートを使ってるはずなのに関西とは違い赤字での訂正を受けるのだ。何に赤字を喰らったか。
『先生あんな』である。
喋り言葉と書き言葉、変えるべきなのは今なら理解している。しかし小学2年生にこれは酷だ。そしてその日から言われ出した「大阪弁喋って」攻撃。私は見せ物ではないと幼心に強く思った。それが転入初日の出来事である。
いや、まだあった。既に言ったように私は比較的上品に食事をとる方ではないかと思う。
もちろん青梗菜の時のように抑えきれない時はあるのだかそれは置いて棚に上げさせていただく。
何があったのか、いや何もないのだ。
大阪から来た転入生にみんなが注目しているのはわかる。しかし口を開けながら食べる人を見るのは初めてだった。
私はすぐにその同級生に言った。
「食べ方気持ち悪い」と。
今日会ったばかりの同級生によくいえたものだと今なら思うが言ってしまったのだ。しかし私の本意は伝わらなかった。私が発した「気持ち悪い」だけが拾われ周りの子はこう言ったのだ。「先生!転入生が気持ち悪いって言ってる!」
教員は焦った。そりゃそうだ。転入初日のナイーブな期間に生徒が悩んで吐き気を催したとでも考えたのだろう。そして隣のクラスの男性教員に私を抱えさせ保健室まで走ったのだ。
私はどうしてたかというと、その男性教員の背中に甘え幸せな気分だった。一人呑気である。
転入二日目、私は潮干狩りに来ていた。学年遠足である。友だちなどいなかった。
他のクラスメイトはゴールデンウィーク前から通知がありゴールデンウィーク中には支度を整えていたであろう。しかし転入二日目である。家もまた片付いていない。母が着々と片付けを進めているので綺麗ではあるがまだカーテンのない部屋もあるくらいだった。潮干狩りなどそんなことしてる場合じゃないはずなのだ。
そして友だちはいなかった。
さて、何度も何度も言わせていただこう。私は大人に囲まれて生きてきた。海に行った事もあったが全て大人とだった。この潮干狩りは人生初のと言ってもいいだろう。そう人生初の潮干狩りに来て一人なのである。
友だちなどいない。
さぞ寂しいであろうと思うなかれ。私は強かった。一人で遊び一人で走り回った。そしてまだ風の寒い5月の海辺、私はびしょびしょになった。
着替えておいでと担任が言った。公衆トイレできがえられるというのだ。しかし一人で公衆トイレなど行ったことのない私は絶対に嫌だった。木陰でこっそり着替えたがランニングをしていた外国人のような男性と目があい恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
転入してすぐ友だちができなくても訛りの強い標準語しか話せなくても時間が経てば馴染んでいく。
季節が巡り3年生になった。私は大阪弁を話せなくなったし、男性に対して何が感情が湧き上がる事も無くなった。家は完璧に片付いていたし母の料理は控えめに言って不味かった。
父は仕事が忙しくなり家に帰らない日も増え、兄は建築系の高校進学した。
反抗的な行動は治らず家庭内で昭和の親父のようによくテーブルをひっくり返した。いつも自宅の共有のテレビを占有してはサッカーのゲームをしては思い通りに動かないコンピュータの選手たちに怒鳴り壁を殴り穴を開けていた。
長女はエクステをつけつけまつ毛とルーズソックスでプリクラを撮りまくり携帯は本体よりアクセサリーの方が重いのではないかと思うほどジャラジャラと言わせていた。
他の二人は至って真面目で近所に住む老夫婦の飼っていたシベリアンハスキーの散歩代行を毎日のようにしていた。
そして、プロフィール帳が流行っていたあの頃、私はクラスメイトに恋をしていた。私が窓際で本を読んでいた時彼女は隣に座りこう言った。
「ねぇ好きな人いる?」私はこう言った。「今横にいるよ」
なんともキザな小学三年生である。
その日から私たちはいつも一緒にいた。彼女の名前は高野さんである。
その当時彼女の夢は建築士だった。その当時私の夢は大工だった。あまり仲のよくない兄を慕う弟の可愛らしい夢である。
彼女は言った。「私が設計するからあなたが建ててね」と。
私はよくわからなかったが絶対そうしようと思った。
しかし小学3年生の恋などすぐ終わる。
進学し四年生になりクラスが変わると目も合わせない程私たちは素っ気なくなった。




