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この人生の終わらせ方  作者: 妻鹿シジミ
1/8

大阪

2025年が終わるまでに私は“死のう”と思っている。

悲観的な感情も肯定的な感情もない。ただそうしたいと思っている。

その“死”が生物的な“死”でも今の自分を脱却するなどといった哲学的な“死”でもどちらでもいい。

私は私を辞めたい。

その前にこの駄文をまとめ自分の感情を余すことなく曝け出したいと思った。


時は1996年秋。私は大阪北部の小さな街の五人兄弟の末子として生まれた。


父の収入は中流家庭よりも多いものだったが、なにぶん子ども5人もいるのだ。支出も多く経済的に余裕のない生活だった。


母は専業主婦で勤勉だった。

小柄な体格ゆえ育ち盛りの子どもたちが満足できるほどの鍋を振るう力もなく、いつも野菜は焦げカレールーは溶けきらず料理はとても美味しいとは言えなかったが、1日3食全て手料理だった。

また掃除はプロ並みで子ども5人が4LDKの家中に散らかしたはずのおもちゃや服、ゴミはまるでそこに最初からなかったかのようなスピードで片付けられていた。


父は厳格で真面目な性格だったがアウトドアや運動が好きで休みの日は前日から車にキャンプ道具を詰め朝はテレビもつけず家族揃って出掛けるような計画性のある人間だった。



さて、私と私の家族を書き連ねるに語らずにはいられない事柄がある。一般的にタブーとされることが多い話題ではあるが多様性が認め始められたこの現代、この手の多様性も容認して欲しく思う。


“宗教”だ。


宗教二世信者として母の腹の中から集いに参加し生まれた時から同じ信仰を共にする人に祝福された私からすれば、普通の事柄であるゆえこれを読むあなたには不快に感じることがあるかも知れないが、多様性の社会、こんな人間もいるのだと容認して欲しい。



兄や姉、また両親、あの頃関わった宗教人たちがどう考えているか私にはわからないが、私は幼児体験として人格形成期に宗教に関われたことをよかったと思っている。


幼少期にたくさんの信仰を持つ大人とたくさんの時間を過ごしたことで偏見のない豊かな人間になれたと思っている。

それが事実かは私の主観なので確証のしようはないがまあ信じて欲しい。



また宗教云々ではなく私個人を尊重してくれる友人との出会いもあった。

私が信仰を持っていることを含めて受け入れてくれた友、私が信仰しているという理由で離れた人、どちらも尊重されるべき意志だとは思うが、やはり受け入れてもらって嬉しくないわけがない。


学生時代、信仰を理由に何度も嫌がらせのような事も受けたがそういった経験を持つ人間は強くなる。

総じて私は宗教二世として育てられたことを良いことだと思っている。



話を戻して、私の幼少期について少し聞いていただきたい。


大阪の北側。京都に程近い街の大きな団地に住んでいた我が家はあの街に溶け込まずにいた。

父は函館の生まれ母は箱根の生まれ、家庭内では標準語が使われて関西の方言が子どもの口から出ようものならちゃんと話しなさいと叱られる始末。

ご近所付き合いも宗教を理由に希薄で週に3回集いに参加する為に、家をまるまる3時間時間留守にする大家族はさぞ目立っただろう。

私は持ち前の愛嬌で近所のご婦人から可愛がられていたが反抗期に差し掛かっていた長男長女は大いに反発し中学生で家出を繰り返していた。


私は知らなかったが反抗権化の某曲ようにバイクを盗んで走り回ったり路上駐車の車のフロントガラスにコンクリートブロックを叩きつけたりと言った悪事働いていたようだ。


そんな事も知らない私は至って平和だった。私は小学生となった。そして生まれて初めて同年代40人と出会った。

というのも専業主婦の母は私を幼稚園にも保育園にも預ける事がなかったからだ。


生まれて初めて同年代のクラスメイトに浮かれた私は入学式で大いにはしゃぎそれはそれは目立ってしまった。


新一年生入場の手を繋いで体育館に入る際、私はスキップをしていたし、起立と言われ立つ際には椅子に膝立ちをしていた。

両親はそんな様子をビデオに撮っていたが母の「やだもう恥ずかしい」の声が何度も何度も録音されている。

式も終わりクラスに向かう際、3人の男女に声をかけた。林さん、福井くん、岡山くんである。

なぜその3人だったのか。


外見が麗しかったからだ。


彼らについてはこれ以上語ることはないが本当に顔だけで声をかけたのはきっとこれも兆候の一つだったのだろう。


そして顔だけで判断した私はさぞ性格が悪かろう。



さて、私自身を語るのにもう一つ言っておかなければならない事柄がある。私のマイノリティについてだ。もう何が言いたいかお分かりであろう。


私はゲイだ。


またこのくだりだが、多様性を認め合う時代、どうか寛大な心を持っていただきたい。



関西の方言の飛び交う教室で一人、私一人が標準語を喋る様子を想像していただきたい。

まだその頃はゲイやオネエなどといった表現ではなく“オカマ”と呼ばれていた。姉が3人もいるせいなのか女性を異性として認識しておらず女児との距離も他の男児より近かったのも相まって私は早々にそう呼ばれた。

しかし私自身男児に恋することなどなくごく一般的な小学一年生として過ごした。


いや、過ごしたつもりだったがそんな事はありえない。何せ大人しかいない生活から同年代ばかりの生活に一転したのだ。

わからない事だらけだった。


夏、プールがあった。大人以外とのプールは何をどうすればいいか頭が真っ白になった。私は手を挙げてこう言った。


「パンツは脱ぐんですか」


「もちろん」


それはそうだろう。

もう一度。それはそうだろう。


当たり前だ。当時の私にとっては初めて知った情報でパンツを人前で履かないなんてありえないと思いパンツを履いたまままで水着を着た。

パンツの替えなど持っていなかった。


プールが終わると一生懸命パンツを乾かし湿ったパンツで午後の1日を過ごした。幸いなことに黒いズボンで濡れていることに誰も気が付かなかった。



また食事を同年代と取ることなど初めてだった。

母の作る黒色か茶色かの料理以外知らなかったし青梗菜なんて聞いた事もなかった。

透き通ったスープとカラフルな炒め物、サラダとパンこんな贅沢な食事は初めてだった。食事とはみんなで食べるもの。大家族の一員としてそのくらいは知っていた。


だかこれまでは苦味を栄養として接種しなければならない時間のように感じていた私は歓喜した。そしてまた浮かれた。


食事のメニューを聞いた時「ちんげんさい!ちんげくさい!」などと言って囃し立てた。そして教員からこっぴとぐ叱られた。


まだまだあの一年を語るのに時間は足りないが概ね一般的な普通の男児としてそうオカマとしてではなく男児として私は学生生活のスタートを切った。




小学2年生に上がった頃、急遽父の転勤が決まった。


正月の箱根駅伝、華の二区。保土ヶ谷である。

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