50.紅の奇跡(2)
紅に染まる部屋を出て、二人になるフィオーネとアウピロス。
並んで長椅子に座るのは初めてのことだ。
これまでも交流はあったが、二人きりで同じ椅子に座るなんてことはほぼないに等しかった。
「靴は少し綺麗にできましたね」
アウピロスはいつもと変わらない表情で言葉を紡ぐ。
けれどもフィオーネの心は晴れない。
目の前の彼がどれだけ平常心を保っていてもそこに変わりはないのだ。
「……アウピロスさん」
「何です?」
フィオーネにはアウピロスが良く分からなかった。
あの場所へ立ち入ったアウピロスが大切な人を失ったことに気づいていないはずはない、なのに、泣くでも叫ぶでもない。今もまだ日頃と変わりないように振る舞って。
リベルが亡くなったのだ、いつもリベルと共にあったアウピロスが誰よりも辛いはず。
平気なはずがない。
でもアウピロスは泣かない。
それがフィオーネには良く分からないのだ。
「私は、消えてしまいたい」
フィオーネは自然とこぼす。
「こんなことを言える人間ではないと思います、貴方の大切な人を死なせておいて……消えたい、なんて」
そこまで言って言葉を止めてしまうフィオーネに、アウピロスは言葉を返す。
「貴女はまだ生きています」
フィオーネは思わず隣にいる彼の方を向く。
予期せぬ形で視線が重なった。
「貴女にしかできないことがあるはずです」
「……私は皆死なせた、もはやできることなど」
言いかけて、驚く。
喉もとに刃物を突きつけられていたから。
「では死にますか?」
小型の刃物をフィオーネに突きつけるアウピロス、その表情はどこまでも冷たい。
フィオーネは目の前の男の行動を本気のものとは捉えなかった。けれど、それと同時に、本気であってくれたらとは思った。そうであってくれたらどれだけ良いだろう、なんて思って、どこまでも歪に微笑んで。無意識に色のない涙をひとすじ頬に伝わせた。
「もはや抵抗などしません」
己の死などどうでもいい。
そう思うほどに。
既にフィオーネは闇に落ちていた。
「私は貴方の大切な人を奪った、どうあがこうともその罪は消えない――もし貴方がそれを望むなら、貴方がそれで少しでも救われるなら……」
その言葉に嘘の感情などない。
今のフィオーネにとってはそれが本心だったのだ。
「……私を殺して」
アウピロスが握る小型の刃物、その先端はフィオーネに向いている。銀に煌めくそれはフィオーネを狙っている。たとえ刺し貫くほどの刃渡りはなくとも、それでも、刺せば彼女の命を奪うかもしれない。
――だが、やがて、アウピロスは刃物を下ろした。
「貴女には貴女にしかできないことがある……ならば、今はまだ死ぬべきではないのです」
護れず、奪われ。
捨てたくとも、捨てられず。
フィオーネは息が詰まりそうだった。
死んでしまえば楽になれるのに、それすら許されない――。
「フィオーネさん、貴女は、できる限り最善を求め続けるべきです」
「え」
「諦めてはなりません」
その時ふと、フィオーネは思い出す。
レフィエリの秘術。
その存在を。
あれは時を巻き戻す――否、過去へ戻ることができる。
「閃きました!」
思わず大きめの声を発してしまうフィオーネ。
「ありがとうございますアウピロスさん!」
フィオーネは半ば無意識のうちに一番近くにいるアウピロスの手を強く握っていた。
その時のフィオーネはいきなり手を握られたアウピロスがどう思うかなんて考えてはいなかった。
閃きにばかり意識が向いていたのだ。
彼女の中の真っ直ぐさ、それはまだ欠片として残っていた。
「私、思い出せました。大切なこと、重要なことを。これができれば……きっとすべてを書き換えられます!」
「フィオーネさん……?」
「もし上手くいけば師匠も救えるかもしれません!」
直前まで、フィオーネの視界には黒しかなかった。
でも今、彼女の見る世界には、黒ではない色がある――そして、光も。
上手くいく保証はない。それでも、あの時レフィエリシナが言っていたことが事実なのなら、希望はある。消えかけた希望、それでもまだ、その光に縋ることはできるのだ。
フィオーネは派手に一礼し、アウピロスの前から走り去る。
幸い怪我はないので日頃と変わらず動ける。
いきなりの展開に戸惑うアウピロスではあったが、赤いポニーテールを弾ませながら駆けてゆくフィオーネの背中を見つめるその瞳には優しさと安堵感が滲んでいた。




