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1.抱え込むな

ミツキが婿入りすると言ってくれたあの後、帰りのバスの時間に慌てる私は支度を済ませて後から来ると言われて一人で帰った。

それから三日が経っているけれどミツキはまだ来ていない。よくよく考えてみれば私は彼に自分の住んでいる場所を教えるのを忘れていたから、もしかしたらどこへ向かえばいいのかわからないのかもしれないと思い当たった。けれど祖母の家のあるあの土地まで私が迎えに行くには日帰りでは難しく、そうそう連続した休みの申請をするわけにもいかない以上、すぐには迎えにいくことができずにいた。


「いってきます。」


今日もいつものように誰もいない部屋へ向けて挨拶を投げかけて慌ただしく職場へと足を向ける。


「おはようございます!」

「蛇島さん。おはよう。今日店の方出てもらえる?」

「はい!」


ついて早々指示が飛ぶのはいつものことで、私も当たり前に応じて更衣室へ入った。今日は日曜で客も多いだろうと気合を入れてお店の担当エリアへと立った。


◆◇◆◇◆


「蛇島~、そろそろ上がっていいってさ。」


20時を回った頃に声をかけられた。店の閉店時間まではまだあと1時間ほどあるけれど既に客足は落ち着いてきている様子で、私が帰っても閉店作業などに支障なさそうに見えた。それに私は今日開店準備の方にしっかりと参加していたので今帰っても文句はでないだろう。


「じゃあ、おことばに甘えて先失礼します。」


声をかけてきた同僚に軽く会釈して更衣室に向かい帰り支度を済ませて職場を出る。

8月の終わり、もう日はとうに沈み暗くなったこの時間でもアスファルトの蓄えた熱のせいか、はたまた室外機たちの奮闘のせいか暑く、夕ごろまで降っていた雨が蒸発して空気を重く湿らせていた。その湿り気を肌や服が吸って体を重くしていくような感覚に、今日はもう夕食やお風呂は諦め、帰ったら眠ってしまおうなどと考えながら駅から家まで歩く。

叔父から住居提供の代わりに管理を頼まれたアパートは建てられてから20年ほど経っている上、開発が進み学生街になったこの土地には合わない家族向けの設計のせいで入居者は私以外には誰もいない。しかし駅から徒歩15分圏内という立地は、仕事に疲れて帰宅する私には非常にありがたかった。


「ただいまぁ。」


いつものように鍵を開け中に入る。


「おかえり。」


誰もいないはずの部屋から返事が帰ってきて、料理の匂いが私の鼻孔をくすぐった。予想していなかった状況に何事かと固まっていると声の主がリビングからこちらへ出てきた。


「…ミツキ。」

「遅くなってすまないな。とりあえず話は後でする。まずは風呂にでもいってゆっくり湯に漬かってこい。」


さらりと荷物を取られ、何か言う暇もなく脱衣所へと連行された。棚の見えやすい場所には既にタオルと着替えが綺麗に畳まれ用意されている。どうやら私に拒否権はないらしいので大人しくお風呂場へと足を踏み入れると、湯舟の蓋がずらされていて湯が張ってあるのが見えた。

髪や体を手早くおおざっぱに洗って湯舟に身を沈めると温かな湯に少しの清涼感というか、スースーとするような感じがした。少し注意して匂いを嗅ぐと薄っすら薄荷の匂いがする。ハッカ油が垂らしてあるらしかった。暑い今の時期にはありがたい。


「いいお湯加減でした。」

「それは良かった。では、食事しながら話といこうか。」


お風呂から上がりリビングへ行くと、机には美味しそうな豚汁とご飯が並べられていて、互いに向き合うように座布団が敷かれていた。ミツキに促されるままにその片側に座り彼と目を合わせる。


「あの、どうやってここを?あと鍵閉まっていたと思うんですけど…。」

「場所はな、アキの気配や痕跡を辿れたから比較的に簡単に探し出せた。鍵の方は…まぁ少々つてをたどっていた時に偶然に入手したようなかたちだな。」

「つて、ですか?」

「うむ。一緒に暮らすようになれば周りの目もあるからな。念のため人間として違和感のないように書類や履歴を用意しておきたかったんだ。」

「それって書類偽造じゃ…。」

「そうだろうが、案外とそういうことをして人間に溶け込んでいるやつは多い。俺一人咎めたところで、という話だ。」

「じゃあ、この前言っていた支度っていうのはそういうことだったんですか?」

「そうだ。とはいえ未だに戸籍の関係は手続き途中だが。」


私の疑問に特に言いよどむこともなく、普通に食事する余裕すら見せながらミツキは答えてくる。質問している私の方は、なんだか未知の世界の話を聞いているようであまり頭の整理がつかず、ミツキに促されるまで食事は手付かずになっていた。

ミツキが作ったらしい豚汁は、温かくてとても懐かしい味がした。仕事疲れや面倒くささに抗えずすっかり自炊をしなくなっていた私のお腹に優しい手料理の温かさがほんわりと広がっていくのを感じた。そもそも夕食を摂るのはどれくらいぶりだろうなんて思いながら夢中で味わっていると、先に完食していたらしいミツキの視線が気になった。顔を上げると頬杖をついて優しく目を細めている彼と目が合った。


「美味いか?」

「は、はい…。すごく美味しいです。料理上手なんですね。」


なんだか恥ずかしくて目を逸らしながら答えて、その後は黙って食事を続けた。


「ご飯作ってもらったので、お皿は私が洗います。」

「いいや、お前は仕事で疲れているのだから座って茶でも飲んでいろ。」


でも、と言いかけて立ち上がろうとした私の肩を先に立ち上がっていたミツキが軽く押さえて制した。大した力で抑えられたわけではないのに有無を言わせないような迫力というか、逆らう気を失わせるような雰囲気が伝わってきた。

結局押し切られ、出されたお茶をちびちびと飲みながらぼんやりとすることになった。キッチンではミツキがさも当然のように食器を洗っているのが見える。食器のぶつかるカチャカチャという小気味良い音や水の流れる音は、普段から適当な食生活でごまかしている私が住むこの部屋では久しく聞くことのなかった音だった。なんだかどこか現実みが湧かず夢心地のままにミツキを眺めていると目が合って、そして穏やかに微笑みを向けられた。とくん、と心臓が一際大きく音を立てた気がして、そんなわけじゃないけれどそれが聞こえてしまったんじゃないかという気持ちになって慌ててそっぽを向いた。


「アキ、お前いつから自炊をしていない?」

「なんです?急に。」

「夕餉を用意しようとした時にな?流しに既製品の容器が積み重なっていたのが気になったんだ。」

「あぁ…えっと、えー、え?いつからでしょう?そんなに長くないですよ。一年半くらい?」

「待て待て、一年半は長いと思うんだが。」


ふきんで食器の水気を拭き取りながミツキは苦笑している。


「職場が変わってから仕事量が増えて作る余裕がなかったんですよね。どうせ二日に一食とか、多くても一日一食でしたからかえって食費もかかりそうでしたし。」

「だいぶ聞き捨てならない発言だな?」

「ぅ…体に良くないのは分かってたんですよ?」

「自覚していたなら改善する努力をしろ。」

「しました!さすがにお菓子だけで過ごしたら倒れたのでお弁当とか野菜入ってるのを買うようにしてましたから!」

「明日からは一日三食きっちり食わせるから覚悟しろよ。」


少しムキになって言い返した私に、ミツキはため息交じりに言いながらキッチンから出てきた。ずんずんとこちらへ近づいて、さも当然のように、自然に私の隣に寄り添うように座って私の頬を軽く摘まんだ。


「自分で改善できないならせめて大人しく矯正されてくれよ。」

「ふぁい。」

「言ったな?頼むぞ?」


頬を摘ままれたままで間抜けた返事を返すと彼の手が頬から頭へと移動し、ゆるゆると撫でられた。呆れたような、困ったような笑みを浮かべたミツキの目はずっと優しく細められていた。


◆◇◆◇◆


まだ薄暗い中で目が覚めて、スマホで時計を確認する。6時。まだもう少し眠れるだろうかと思いながら枕元にスマホを戻したあたりで違和感に気づいた。

昨晩、二人分の布団がなかったのでどうしようかと思っている私をミツキはそうするのがごく自然な流れのように捕まえ、そのまま一緒に布団へともぐりこんだ。そういうわけでミツキは超至近距離で眠っているはずなわけだけれど、彼は隣にはいなかった。布団からはみ出してしまったのかと起き上がって見渡ししてみたけれどそもそも寝室の中には見当たらなかった。もしかして昨日のあれは夢で、実はミツキはうちに来てはいなかったのかもしれない。などと回らない頭で考えていると、リビングの方から何やら物音がしていることに気づいた。よくよく耳を澄ませると何かの食材を切っている音や炒めものをしているのか、じゅうじゅうという焼ける音のようだった。

少しの間耳を澄ませながらうとうとしていると味噌汁のいい匂いが漂ってきてお腹が小さく音を立てた。相変わらず普段起きるよりはずっと早い時間ではあるけれど、だいぶ体も起きてきて二度寝をできるほどは時間もないので布団を出てリビングへと顔をだした。


「おはよう、アキ。」

「おはようございます。」


私が起きてきたことにすぐに気づいたらしいミツキと挨拶を交わして洗面所へ向かう。最低限、着替えと化粧以外を済ませ戻ると食卓には既に温かな朝食が並べられていた。しかしミツキはキッチンの方でまだ何かしているようで食卓にはついていなかった。


「あの、ミツキは朝食べないんですか?」

「いいや、勿論食べるがもう少しやることがな。先に食べてくれ。」

「そうですか…わかりました。」


少々寂しさはあったけれど、独りで食べるコンビニ弁当よりはずっとマシなので言われるがままに食事を摂ることにした。


「美味しい。」


ほかほかと炊き立ての良い香りを漂わせる白米、出汁と味噌が互いの旨味を引き立て合う味噌汁、ふわふわとろとろの卵焼き…どれをとっても文句なしに美味しい。食卓に並んでいるのを見た瞬間は小食で、さらに寝起きの私に食べきれるだろうかなどと思ったけれど、そんなことを思ったことすら忘れてしまうほどで、自分でも驚くくらいにあっさりと完食してしまった。


「ふぅ、ごちそうさまでした。」


丁度食べ終えたところにミツキが緑茶を出してくれて、食後のほわほわとした余韻に浸っていると目の前に紙とペンを差し出された。


「出るまでにこれを書いておいてくれ。」

「はい?これですか?」


一体なんだろうと紙を覗き込んでみる。


「…え、あの、これって。」

「婚姻届だが?」

「いやわかりますけど…出すんですか?」

「昨日も言ったが人として違和感のないよう手続きを進めていてな。戸籍取得の手続きが済み次第出すつもりでいる。」

「…いいんでしょうか。」

「法的に、か?」

「もうこの際法的なことには目を瞑ります。」

「では何に対してだ?」

「将来的なこととか…色々と。どちらにせよ私たちまだその、こういう関係になって日も浅いわけですし。」

「不安か?」

「正直そうです。」


私を見る彼がどんな表情をしているのか怖くて俯く。沈黙が長く、重く過ぎるのに耐えきれず口を開いた。


「別にミツキのことが嫌いとか、ミツキが頼りないとかじゃなくて、私の将来性とかそういうのがなくて。収入とか上がる保証なんてないですし、会社だってこれから経営がどうなるかとか。そうなったらミツキに苦労をさせない保証もできなくて、でも大好きな、大切な相手を苦労はさせたくないですし。」


一気に言って、まとまっていない私の言葉をミツキは黙って聞いていた。言葉に詰まって黙ってしまってからもしばらくは何も反応は返ってこなかった。


「言いたいことはそれだけか。」


低く、重い声。聞いたこともないようなミツキの声に驚き顔を上げると目が合った。真っすぐに見つめてくる瞳の奥には怒りとも悲しみともとれるような色が揺れていた。


「はい…。ごめんなさい。」

「何に対しての謝罪だか知らんが、独りで背負い込もうとするその考え方は俺は好かんな。お前の言いぐさではまるで、お前独りで俺とお前二人分を全て背負い込み支えること前提じゃないか。」

「それは…。」

「俺にも背負わせろ。お前が大切だと思う相手に苦労をさせたくないのと同じように、俺だって愛している奴には苦労させたくはない。それになぁ。」


一度言葉を止め、呆れたように大きく息を吐きまた言葉を続ける。


「本当に愛している、傍にいたい相手といるためならば、苦労など存在しない。傍目から苦労しているように見えようが関係ない。ただ傍にいられるのならそれでいい。俺にとってのそういう存在はアキ、お前だ。」


それでもまだ渋るのか、と彼の瞳が問いかけてくる。彼の言葉は真っすぐで、嬉しくて、けれど少し私には重いようで、私なんかには勿体ないもののように感じた。


「すいません。すぐはやっぱり…。色々考えたいです。届は書くので、出すのは待ってくれませんか。」

「わかった。抱え込むなよ。考えることは構わんが俺にも一緒に考えさせてくれ。」


いくらか優しさを含んだ、けれどもまだ低く重いままの声で彼はそう言って、ジッと瞳の奥を覗き込んでくる。強い意志の篭った瞳に吸い込まれるようにしばらく見つめ合い、私はゆっくりと頷いて見せた。

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