第四章 長女、リヴァイアサンのヴァリサイア
「ここから、第二上層に上がれるわ」
ロレイラに案内されて、俺は上の階層へと続く階段にやってきた。
「第二上層は神殿の最上階よ。かなり広いから、水で溢れるまでには、相当の時間がかかると思う」
「ありがとな、ロレイラ」
ロレイラは、照れたような仕草で顔を背ける。
「お、お礼なんていいわよ。それより、姉様にどうやって加護をもらうかが大変なんだから」
「お姉さん……四姉妹の長女、なんだよな?」
彼女は、俺にちらりと目線を向けて、首肯した。
「そう。海神の娘ヴァリサイア。ヴァリ姉様は豪胆で、私や妹たちより凄まじい力を持った――」
「怖ろしい海の怪物だよ」
上から声が降ってきた。
俺たちの頭上、階段の先に、人影が現れていた。
「ヴァリ姉様……」
ロレイラが、畏怖するように喉を震わせた。
人影は、ズルリズルリという擦音と一緒に下ってくる。
「聞いたことがあるかい? 『リヴァイアサン』という、恐怖と暴力の化身の名を」
降りてきたのは、真っ赤な髪を振り乱した、紅い瞳の女性だった。
豊満な胸を、サラシのような胸布で覆い、そして、下半身は海蛇の体。
ズルリという音は、長い蛇の胴体が床と擦れて生じていたのだ。
「ヴァリ姉様、彼は――」
「下の様子は見ていたよ。妹たちを、言葉巧みに籠絡していた男だろ?」
貫くような紅い視線が、俺をジロリと見据えている。
長い長い蛇のしっぽが、怒りを表すかのようにゆっくりうねった。
「待って姉様! 凪沙さんは、100年前に姉様を騙した男とは違いま――」
「お黙りロレイラ!」
ドゴン!
大きな破壊音。
ヴァリサイアの長い海蛇の尾が、壁を叩いて粉砕していた。
「人間なんて、所詮は自分のことしか考えていない、下等で下劣な生き物だよ!」
憎悪混じりの姉の声色に、ロレイラはひどく怯えている。
ロレイラを庇おうと、俺はヴァリサイアに話しかけた。
「なあ、何があったのかは知らないけど――」
「誰が口を開いて良いと!」
ヴァリサイアの手が俺に向く。
「避けて!」
ロレイラが叫び、その直後。
「スキル【断鋼の水太刀】!」
強烈な水流が、ヴァリサイアの手から放たれた。
高水圧の鋭い刃が、俺の立っていた床に直撃し、深い亀裂を刻み込む。
「次は、首を撥ねてやろう」
「やめて姉様!」
ロレイラが俺の前へと踊りだし、両手を広げた。
「お願い、凪沙さんを殺さないで。彼の目的は、生きてここから出て行くことなの。害意なんて持っていないわ。なんでもするから、お願い……」
目から大粒の涙を流し、ロレイラは俺の助命を嘆願する。
ヴァリサイアは、ふん、と鼻を鳴らした。
「かわいい妹がこうまで頼むんだ、考えてやらないこともないね」
憎しみの篭った紅い目が、俺のことを流し見た。
「人間の男よ。お前が欲しがっている私の加護はね、この長いしっぽに生えた鱗の、たった1枚に宿っているのさ」
彼女は蛇の下半身をうねらせた。
「欲しければ、ひざまづいて鱗に口づけするんだね。どれが加護つきか、1枚1枚、唇と舌で探し当てな」
姉の発言に、ロレイラが叫び声をあげた。
「姉様、あんまりです!」
「おや、『なんでもする』んだろう? まさか、その男には同じ覚悟がないのかい?」
悄然と青ざめていくロレイラ。
彼女らのやりとりからして、今のはきっと、俺の世界で言ったら、「土下座して靴をなめろ」くらいの侮辱の発言なのだろう。
「どうせできやしない。偽物の愛に、本当の覚悟なんて宿りやしないんだからね。もし万が一できたとして、そうするくらいなら、最初から妹たちのためにここに残ろうとするはずだろう?」
何か、話の方向性が変わったような?
ヴァリサイアの恨みを湛えた紅い瞳は、俺を見ているようで見ていなかった。
「気づいていたかい? 妹たちは、誰もお前を繋ぎとめようとはしなかった。生きて欲しいと思いはしても、もう一度会えるなんて思っちゃいない。ああ、そうだろうとも。妹たちは私の醜態を知っているからね。恋に憧れはするものの、愛を信じることなんてできない。信じれば必ず裏切られると、恋に溺れて神槍を持ち去られた無様な姉を見て――」
終いには俺やロレイラのことを忘れたように、ごちゃごちゃと語り始めている。
……なんとなく、突破口が見つかった気がするぞ。
「――お前には、ここで溺れ死ぬ以外の選択肢なんてありはしないのさ。それとも、加護の鱗を探し当てるかい?」
「ああ、よくわかった」
俺の言葉に、ヴァリサイアが怪訝な顔になった。
「はあ? わかっただって? プライドを捨てる覚悟ができたってかい。でもね、お前は私のしっぽに、鱗が何枚あるのか知っているのかい?」
「ヴァリサイアっていったな。今からデートするぞ」
「ああ、デートか。ふん、どんな小細工を持ち出すかと思……デートっ!?」
ヴァリサイアは、わかりやすく動揺した。
「だからデートだ。意味が伝わらないなら、逢引きでも密会でも睦み合いでも、好きに捉えてくれ」
「睦み合っ……! お、お前は何を言ってるんだい!?」
慌てふためく長女の様子を、泣いていたロレイラまでが白々しい目で見ている。
「引き篭もっててもいいことはないぞ。100年も経つのにあんだけ毒を吐きちらすってのは、終わった恋から立ち直れてないって宣言してるようなもんだろ」
「そ、そんな訳、暴力と恐怖の化身である私が――」
「傷心の女の子の体をいたぶるような真似ができるか。一緒に遊んで、まずは慰める。話なんてその後でいい。仲良くなってからだったら、鱗だろうが全身だろうが、いくらだってキスしてやる!」
「んなっ!?」
どんどん顔が赤くなっていくヴァリサイア。
無茶苦茶な屁理屈を並べ立てているだけなのに、簡単に押し切れそうな雰囲気である。
「お、お前に遊んでる暇なんてないはずだろ! 生きてここを出ることが第一なんじゃないのかい!?」
「そんなことはどうでもいい。泣いてる女の子を放っておけるか!」
「な、泣いてなんかいないだろっ!」
「どうせ、夜な夜な枕をぐっしょり濡らすくらいに泣き腫らしてるに決まってる!」
「ぐっ……」
図星だったらしい。
どんだけ乙女なのか、この暴力と恐怖の化身は。
「ということでデートだ。場所はこの第二上層。本当だったらエスコートしたいとこだけど、初めて来たから俺には無理だ。てことで、どっかおすすめのデートスポットを知らないか?」
「お、教えると思って――」
「じゃあ、適当に見て回るか」
俺はヴァリサイアの手を取って、階段を昇り始めた。
「ひゃっ!?」
手を握った瞬間、彼女の肩がびくんと跳ねた。
まさか、こんなことにさえ免疫がないのか?
一時は男がいたんだよな?
ヴァリサイアは、顔をぷるぷると震わせて、さっきまで恫喝していた妹に、救いを求めるように視線を送っている。
「あ、えっと、ごゆっくり、姉様」
ロレイラは控えめに手を振って、切羽詰まっている姉にエールを送り、下に戻った。
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第二上層の通路の壁は、ガラスのように透明だった。
透明な分厚い壁板は、下層からの光を吸い上げているらしい。
青赤緑の光点が、壁の中を下から上にゆらゆらと流れていく。
幻想的な光の壁の中を、俺とヴァリサイアは、手を繋ぎながら歩いている。
最初はあたふたしていた彼女も、所詮は手を繋ぐだけだと割りきったのか、態度を少し元に戻した。
「このようなことで、私を懐柔できると思うのかい、人間?」
「懐柔なんてする気はないよ。俺はただ、可愛い女の子とのデートを楽しみたいだけだ」
「かわ!? お、お前は、海神の娘たるこの私に、お前は――」
「待った。『人間』とか『お前』は無しだ。デートなんだから、名前で呼び合うことにしようぜ」
「へ?」
間の抜けた声を出すヴァリサイア。
「俺は凪沙。そのまま『凪沙』って呼んでくれ。代わりに俺は『ヴァリ』って呼ぶから」
「ぶ、無礼者めが! 人の身の分際で、神の血族に愛称など――」
「あ、『ヴァリちゃん』とかのほうが恋人っぽいか」
「こいびっ!?」
予想通り、とでも言おうか。
ヴァリサイアは、口調と態度は高圧的だけど、他の妹たちと同じで恋愛絡みの防御力は絶無だった。
少し強引に押し通せば、あっけなくこっちの流れに持ち込める。
「てことで聞きたいんだけど、ヴァリちゃんは――」
「だ、だめよ! それだけはだめだから!」
本気で恥ずかしがるヴァリサイア。
口調まで変わっている。
耐性がなさすぎて、逆に加減が難しいな。
「じゃあ、呼び方は『ヴァリ』で。その代わり、ひとつお願いがあるんだけど」
「か、加護はやらないからな!」
そこまでチョロくはないよな、さすがに。
「違う違う。今繋いでる手を、いわゆる『恋人繋ぎ』にしてほしいんだ。こんな感じで――」
握り方を変え、指と指を交互に絡めた。
「ひゃああっ!?」
奇声を発したヴァリサイアは、その後しばらく口をあわあわさせながらも、恋人繋ぎを離そうとせず、むしろ、時折指を動かして、感触を堪能している様子だった。
機嫌も良さそうになったので、このままにしておくことにする。
「お、よく見たら、天井も透明なのか」
壁と繋がった天井は、やはり透明で、光の粒子が壁を伝って流れていた。
この第二上層は最上階なので、まるで全体が巨大な天窓のように、海の底からの景色が見上げられる。
色んな魚が泳いでいて、広大な水族館の中にいるみたいだ。
「深海5000メートルって聞いたけど、ずいぶん明るいんだな」
一番最初に会った人魚のシレーナは、太陽の光が届くよりも深い場所だって言ってたのに。
「……あれは、この神殿が発する魔力光のおかげだよ」
「魔力光?」
「明るいのは、神殿の外側の壁が光ってるからなんだよ。下の階層にも、壁が光ってる場所があっただろ?」
そういえば、下層の壁は青色や赤色に輝いていたっけか。
それが外側にもついていて、海の底を見渡せるくらいに明るくしているのだろう。
「なんていうか、神秘的な光景だな」
本来は光の届かない、暗黒の空間に俺はいる。
ここの生態系は、俺のいた世界と違うのだろう。
深海魚みたいな変な形をしたやつのほか、クジラみたいに巨大な角ばった魚や、それを上回る長さの尖ったイカのような巻き貝のような生き物も見受けられた。
「この世界には、でっかい魚がたくさんいるんだな」
「泳いでるのは魚じゃない。みんな、ここいらに巣食う魔物の一種だよ」
「魔物? ふつうの生き物とは違うのか?」
「ひとことでいえば、不思議な力を持った生き物だね。主に捕食のために力を使うのさ」
俺が貰ったスキルみたいなものかもしれない。
「……凪沙、は、あんな魔物を見ていて楽しいのかい?」
「ああ。そう言うヴァリサイアも、結構楽しそうだぞ?」
しっかり俺を名前で呼んでるし。ぎこちないけど。
「……この階を誰かと巡るだなんて、それこそ100年ぶりなんだよ」
握った手に、ぎゅっと力が込められた。
やがて俺たちは、天井が丸い天蓋のようになっている場所に出た。
そこは、下層から集まる光の集合点だった。
赤緑青の光点が、吸い込まれるように一箇所に集まって、天蓋を仄白く輝かせている。
鮮やかな光の欠片を、薄暗い海のスクリーンが、まるで、満天の星空のように映し出した。
「綺麗だ」
「……そう、ね」
ヴァリサイアは歯切れの悪い声で天井から目をそらし、悲しげな顔で床を見ていた。
「もしかして、『君のほうが綺麗だよ』とか言われたクチ?」
「っ……!」
肩を震わすヴァリサイア。
またも図星だったのか。
というかココ、もしや前の男と来た場所だったのか?
この姉妹たち、古典的な口説き文句にさえ免疫がないのはホントどうなんだ?
「そうだよ、悪いのかい? あんなこと、生まれて初めて言われたのに……」
歯を食いしばっているヴァリサイアを、俺は強引に抱き寄せた。
「ひゃあっ!? な、何、を……」
「この場所にはもう来るなよ。ヴァリサイアを騙した男との思い出なんて、覚えてたって辛いだけだろ」
100年も経つのに、未練タラタラにもほどがある。
彼女の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「無理よ……忘れたくても、無視したくても、体が勝手にここに来ちゃう……」
「じゃあ、別のことを思い出せるようにしてやる」
俺は、彼女の頬に手を添えた。
下層での俺の行動を見ていたヴァリサイアには、それがどういう意味かわかったらしい。
抵抗はなく、赤い瞳が、ゆっくりと閉じられた。
「ん……」
重なりあう唇。
ヴァリサイアの腕が、俺の背中に回される。
が、キスは短い時間で終わった。
「ぷはっ、ちょっと、その、少し待って」
動揺する俺。
まさか、未練のほうが打ち勝ったのか?
しかし、ヴァリサイアは顔を真っ赤に染めながら、
「……息の仕方が、わからなくなって」
おずおずと上目遣いで、こんな可愛げのあることを口にした。
俺は優しく彼女に微笑みかけて、その額にキスをした。
「ひゃう!?」
愛らしい悲鳴。
「呼吸は整った?」
「お、おでこになんて、妹たちには……」
「俺もおでこにキスは初めてだよ。ヴァリが初めての女性だ」
ヴァリサイアは、蕩けるような目になった。
俺たちの顔は自然と近づき、3度目のキスをした。
今度は再び唇へ。
「んん……」
今度のキスは、長く続いた。
キスを終えると、ヴァリサイアは力が抜けたように、俺の胸へとしなだれかかってきた。
「少し、このままでいさせておくれよ」
彼女は目を閉じて、さっきまでの熱の余韻に浸っている。
(じゃあ俺は、この間に)
【閲歴】の画面をオープン。
念入りに3回もキスしたんだ。
加護よ、手に入っていてくれ……!
◆
氏名 :新島凪沙
種族 :人間
性別 :男性
潜水時間:66分(補正値+35) ←Update
耐圧限界:5100メートル(補正値+5000)←Update
加護① :海神の四女の加護
加護② :海神の三女の加護
加護③ :海神の次女の加護
加護④ :海神の長女の加護 ←New
海神の四女の加護
補正効果①:潜水時間+5分
補正効果②:耐圧限界+500メートル
追加スキル:高速泳法
海神の三女の加護
補正効果①:潜水時間+10分
補正効果②:耐圧限界+1000メートル
追加スキル:渦潮の牢獄
海神の次女の加護
補正効果①:潜水時間+20分
補正効果②:耐圧限界+1500メートル
追加スキル:覆滅の徒歌
海神の長女の加護 ←New
補正効果①:潜水時間+30分
補正効果②:耐圧限界+2000メートル
追加スキル:断鋼の水太刀
◆
(いよしっ!)
耐圧限界が5000メートルを突破している。
この深海の神殿から、ついに脱出する準備が整ったのだ。
ようやく訪れた歓喜の瞬間に、俺は心のなかだけでガッツポーズした。
「ふうん、私の加護には、こういう効果があったんだね」
が、ヴァリサイアにばれていた。
「あ、いやその、これは」
慌てて弁解しようとした俺に、ヴァリサイアは婀娜っぽく笑いかけた。
「責めたりなんてしないよ。凪沙が加護をほしがってたのは、最初から知ってたんだから」
乙女の階段を駆け上がった余裕とでも言うのか、彼女はとても落ち着いていて、とても妖艶で、そして、とても儚げに笑った。
「あの男は、私に口づけなんてしなかった。手も握らなかった。今から思えば、耳障りのいいことだけを言って、言葉巧みにあたしに神槍を持ちださせただけの、詐欺師だった」
「ヴァリ……」
眦には、薄く涙が浮いている。
「凪沙は違うって、証明して」
俺は、すぐに返事を出来なかった。
ここだけは、嘘をついてはいけないと感じた。
「ヴァリのことは大事にしたいと思ってる。でも、俺はやっぱり、ここから生きて出たいって気持ちがありきだから……」
「そんなのは私も承知の上さ。その上で、態度で示して欲しいって言ってるんだよ」
ヴァリサイアは俺の背中に腕を回し、長い蛇の尾で、ふたりの体を巻き上げた。
とても優しく、しかし、情熱的な力加減で。
「もう一度キスしておくれよ。今度は、他の妹たちにしたのより激しい、情熱的な大人のキスを」
抱きしめ合ったまま、俺たちは三度唇を重ねた。
互いの舌を絡めあう、熱くて深い、濃厚な口づけ。
ねっとりとした、絡みつく蛇を思わせるキスを終えても、俺たちは、しばらくふたりで抱き合った。
「愛してるよ、凪沙」
「ヴァリ、俺は――」
しゃべろうとした俺の口を、ヴァリサイアの唇が塞いだ。
彼女は、俺に言葉を許さず、幸せそうに微笑んだ。
「たとえ今日限りでも、凪沙は私を愛してくれた」
蛇のしっぽが、しゅるしゅると俺から離れていく。
「凪沙のことは忘れないよ、これからは、凪沙を想って、凪沙だけを想って、私はここから海を眺める」
「俺も、ヴァリのことを忘れない。絶対に」
◆
ここまでの【閲歴】
氏名 :新島凪沙
種族 :人間
性別 :男性
潜水時間:66分(補正値+35)
耐圧限界:5100メートル(補正値+5000)
加護① :海神の四女の加護
加護② :海神の三女の加護
加護③ :海神の次女の加護
加護④ :海神の長女の加護
海神の四女の加護
補正効果①:潜水時間+5分
補正効果②:耐圧限界+500メートル
追加スキル:高速泳法
海神の三女の加護
補正効果①:潜水時間+10分
補正効果②:耐圧限界+1000メートル
追加スキル:渦潮の牢獄
海神の次女の加護
補正効果①:潜水時間+20分
補正効果②:耐圧限界+1500メートル
追加スキル:覆滅の徒歌
海神の長女の加護
補正効果①:潜水時間+30分
補正効果②:耐圧限界+2000メートル
追加スキル:断鋼の水太刀
◆