エピソード2
足を挫いてしまった私はレオンに手当てをしてもらった。軽い捻挫だったので湿布を張るだけで大丈夫そうだ。
「先ほどから、慌ただしくて申し訳ございません」
「謝らないで。レオンの弟に会えて嬉しかったから」
「そう言っていただけると助かります。兄弟はあと2人いますので、また後程紹介しますね」
まだ兄弟がいたんだ。楽しみだな。一人っ子だった私にとって、こんなに小さな子の近くに居れるのは初めてだ。きっと、まだ会ていない兄弟も可愛いんだろうな。
さっきナノにお姉ちゃんと言われたときは結構嬉しかった。そんなふうに呼ばれたことなんて一度もなかったから。知らない世界に来るのも悪くはない。
最初はどうやって帰ろうとか本当にちゃんと帰れるのだろうかとか考えて不安だったけど、ここで過ごしてみると結構楽しい。
慌ただしい毎日だったから、こんなふうにゆっくり過ごすのもいいものだな。でも、仕事どうしよう。結構溜まっているかもな。でも、連絡を取るすべがない。さっき携帯電話を開いてみたら電源が全く入らなかった。この世界に来た時に壊れてしまったのかもしれない。
まあ、私なんか居なくてもきっと何も変わらずにいるんだろうな。世界とはそんなものだ。私じゃなければならい。そんなことは滅多にない。他に代わりなんてたくさんいる私よりも優秀な人だって。そんな中で、私じゃなきゃいけない理由なんて何もない。
急に思い出した現実は、先ほどの景色を消していった。そうだ、私は仕事のミスを擦り付けら、信頼を失った。そして、余裕がなくなって恋人に振られたのだった。いろんなものを一度に無くし、生き場所を失っていたのだ。
思い出したくなかった。せっかく素敵な景色が広がっているのに、何も見えなくなってしまった。
「ハル?」
レオンに声を掛けられ、意識をこちら側に戻した。
「どうぞ。ローズヒップティーです」
先ほど私が目を覚ました部屋に戻り椅子に座っているとレオンがお茶の準備をしてくれた。いい香りがする。温かい紅茶を飲みながらほっと一息つくと向かい側にレオンが座り穏やかな時間が流れていく。
何も話さないけれどそばに居るとなぜだか安心してしまう。どうしてこんな気持ちになるのかは分からないが、この時間は心地よかった。
優しい香りに包まれていたのもつかの間。バタバタと足音が徐々に近づいてくる。何事かとレオンと目を見合わせると、勢いよく部屋の扉が開いた。そこには息を切らした女の子が立っていた。
「ルナ、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「レオン兄さんのお嫁さんが来たって聞いたから」
ルナと呼ばれた女の子は腰までの長いカールした髪が印象的だ。彼女は薄いピンクの大きな瞳をキラキラさせさっきの双子と同じような目で私を見ている。どうしよう。またややこしくなってしまう。こんな目で見つめられたらがっかりさせたくはない。
でも、嘘をつくことは出来ない。そんなことしたら、きっとレオンのことも傷つけてしまいそうだから。ここは、ちゃんと言わなきゃ。
「私はハル。でもね、レオンのお嫁さんじゃないの」
「そうなの?」
残念そうにしょんぼりしている。いい返事が出来たらいいんだけど、私も元の世界に戻らないといけない。だから、あまり深入りしてはいけないと自分にストップをかける。
私はずるいや。レオンに直接言わないなんて。本当はあの時、ちゃんと断らなければならなかった。でも、言えなかった。
どうしてだろう。普通ならすぐに断れたはず。でも、それが出来なかったのはきっとレオンだったから。私の中でレオンがどうしてそんなに特別なのかは分からない。でも、他の人とは違う。そんな気がした。
「でも、ちょっとはここに居るんだよね?」
「多分。まだ、どうやったら帰るか分からないし」
「じゃあ、それまでよろしくね。私、ルナって言うの」
さっきほどの兄弟の中で一番しっかりしているみたいだ。年齢的にはあの3人よりも年上に見える。女の子同士仲良くしましょというように手を振って部屋を出ていった。
レオンと二人になったことに気付くと先ほどまでとは違う空気が流れていた。どうしよう、レオンのこと見れない。
怒っているかな。それとも傷ついてしまったかな。私、最低だ。こんなに良くしてもらっているのに。ここから放りだされてしまうなかな。そうなったら仕方ないか。だって悪いのは私だし。
「ハル、大丈夫ですか?」
振り返らない私を心配したのか後ろから声をかけてくれるレオンの優しさは、私の胸を締め付ける。息が出来ないほどに苦しいのに、その優しさが嬉しくてたまらない。
私どうしちゃったんだろう。こんな気持ちになるなんて。少しだけレオンとの距離が近くなったと感じるのは気のせいだろうか。彼は少し困ったように微笑んだ。そして、私の頭を一度だけふわっと撫でた。その仕草があまりにも優しかったせいで涙が出そうになった。
「おかわり、いかがですか?」
「お願いします」
レオンは怒ったりしないのだろうか。どこまでも優しい彼が心配になる。もしかして隠しているだけなのかもしれない。
穏やかな顔をしてお茶を注いでいるレオンは今、どんなことを考えているのだろう。私、あなたのこと知りたい。どんなものが好きでどんなものが嫌いなのか。どんなことで泣いてんどなことで笑うの。
いっぱい知りたい。そう考えながら見つめていると彼と目が合った。ふっと目を細めるその顔はいつまでも忘れたくはないと思った。
気が付くと外は太陽が沈みかけていた。お花畑にある小さな湖に反射してキラキラ輝いていてとても綺麗だ。兄弟のことを話すレオンはとても楽しそうだった。その様子につられて私も楽しくなり、つい時間を忘れ夢中になって話していた。こんなこと、元の世界に居たら絶対に出来ない。
慌ただしく過ぎていく時間に流されるように進んでいく毎日。やりたいこともなくただ過ぎていく時間に焦りを感じていても何もしない日々だった私の人生は生きている実感がなかった。
だから、必死に働いたり趣味に打ち込もうとした。でも、そんなことじゃ意味がなくて、体だけが動いて心をどこかに置いてきてしまったようになっていた。だけど、ここでは何もかも違った。新しい人に出会う度にわくわくした。美しいものに出会うと心が躍った。
「申し訳ございません。つい話し込んでしまいました」
しまったというような顔をしたレオンは少しだけ可愛かった。きっと兄弟には目がないんだろうな。彼の話を聞いていて少しの羨ましさを感じた。私にもこんなに大切に思えるような人がいたらいいにと。
兄弟はいないうえに両親とも疎遠になっているので身内にそんな人はいない。かといって他人のことをそんなに大切に思えるいし。友達がいないというわけではない。
ただ、人と距離を縮めるのが苦手なんだ。なぜかは分からないが、ある程度のところまで行くとストップをかけてしまう。本当ならもっと仲良くなりたいのに。
でも、それが出来ないから自分から人と距離を置くようになっていた。多分傷つきたくないから。心の防衛反応なのだろう。
優しくされると、拒絶してしまう。でも、離れていくと追いかけたくなる。こんな天邪鬼な私だけど、あなたにもっと近づきたいって思ってもいいかな。やっぱり、だめだよね。私にはそんな資格ない。だって、一度レオンのことレオンの気持ちを拒否してしまったから。
でも、もう一度プロポーズされた時に戻れるとしても私は同じ返事をしただろう。そう考えると後悔はないはずなのに心がもやもやする。どうしてこんな気持ちになるんだろう。
また、レオンの優しい顔が見たくてこっそり見つめる。夕日に照らされた君の横顔はとても綺麗で目が離せなかった。
今日は疲れているだろうからと、レオンが気を利かせて部屋に食事を持て来てくれた。本当は、みんなと一緒に食事が出来るとわくわくしていからちょっとだけ残念だったけれどありがたかった。
思っている以上に疲れているみたいだったから。食事が終わると睡魔に襲われ、抗うことが出来なくなりベッドにもぐりこんだ。
目が覚めると太陽がすでに高い位置にあった。もしかして、もうお昼だったりするのだろうか。慌ててベットから降り、用意されていた服に着替えるとそれを見計らったように扉の外から声をかけられた。
「ハル、身支度はお済ですか?」
「うん、大丈夫だよ」
そう言うとお盆を持ったレオンが部屋に入ってきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん、十分すぎるくらい寝ちゃったよ」
本当に寝すぎてしまった。こんなに長い時間寝たのは久しぶりだ。今までは仕事に追われゆっくり眠れる時間なんてほとんど無かった。眠れる時間が当ても気がかりなことがあると夜中に何度も目が覚めてしまい逆に疲れてしまう。
それなのにこんなにもリラックスしてしまっていた自分に驚いた。始めてきた場所でこんなに眠りこけてしまうなんて今までの私だったら絶対にしないことだ。それなのにこんなふうになってしまうのはきっとレオンのせいだ。今も私のことを見つめながら笑っている。
「もう少しで昼食の時間ですが、それまで少しありますので良ければスコーンを召し上がりませんか?」
「ありがとう。いただくね」
レオンは手際よく準備を始めた。その所作は目が離せなくなるほどび美しく無駄がない。彼はこの屋敷の王子だったりするのだろうか。まさかそんなはずはないだろう。こんなにも私の世話をしてくれるのだから。
紅茶とブルーベリージャムの塗られたスコーンは本当によく合う。美味しすぎてもうすぐお昼ご飯だというのに手が止まらなくなってしまいそうだ。そんな私をレオンはただじっと見つめていた。
彼と目が合うとにっこりと笑ってくれる。そんなふうに私のことを見るから、そんな顔で笑うからきっと私はこんなにも穏やかな気持ちになれるんだろうな。
今まで生きてきて、レオンみたいな人には出会ったことがない。
この世界は不思議だ。なんでこんなにも心が穏やかになるのだろう。そういえば、おばあちゃんに教えてもらったことがある。様々な世界がある中で最も美しいのは花の国だと。そしてその世界にあるもの全てが美しいと。
確かにそうだ。この景色だってここに居る人だっていままで見たことがないほどに美しい。きっと、この国に居る人は心まで綺麗なんだろうな。だから、こんなにも優しいのだ。
そんな綺麗な世界に取り残された私はすごく醜く見える。みんなのような綺麗な心なんてないのにこんなところに居てもいいのだろうか。「早くこっちにおいでよ」と誘うみんなの声に少しの居心地の悪さを抱えなが昼食へ向かった。