エピソード1
私を忘れないで。
そんな声が聞こえてくる。いつだったか聞いたことのあるその優しい声に耳を澄ませるが誰の声なのかどこで聞いたのか思い出せない。けれど、その声を忘れたことは一度もない。
ああ、なんだかいいにおいがする。心地の良い空気に包まれながらぼんやり思う。ずいぶんと眠っていたみたいだ。まあいい。今日は確か仕事はお休みだったから。そう思いもう一度寝ようとするといつもとは違う感覚に疑問を感じた。まず最初に布団が違う。私の家のはこんなにふかふかじゃない。そして部屋の香りだ。甘いけれど上品な香りがする。おかしいなと思い目を開けると視界がぼやけている。不安になり起き上がって状況を確認する。
「いたた……」
そんなに寝てしまったのかな。こめかみを抑えながら、あたりを見渡す。次第にはっきり見えてくると自分がいる場所に目を疑った。なに、ここ。まるで映画に出てくるお姫様のお城みたいな部屋だ。白を基調としていてところどころ水色のモチーフがあってとても綺麗。さらにドレッサーやクローゼットもある。
わあ、すごい。なんてのんきに思っているけれど、今はそんなこと考えている余裕はないはずだ。まずはここがどこなのか確かめなければ。そう思い窓のそばに行こうとベッドから体を乗り出した時、ガチャ。後ろの扉が開く音がした。そして振り向いたと同時にベッドから落ちてしまた。
「いたっ」
床に腰を強打した。その時向こうから慌てたように叫び、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。きっと私を驚かせた犯人だ。すこしは文句を言っても許されるだろう。なんて言ってやろうかと考えているとその人は私を心配そうにのぞき込んできた。
「ハル、大丈夫ですか?」
見上げるとまるで王子様のような青年と目が合った。その瞬間、頭の中に浮かんでいた暴言の数々は消えていった。しばらくぼんやりと見つめていたが、その間彼はずっと慌てた様子だった。どうしたんだろうと不思議に思っているとその原因は私にあった。ベッドから転げた落ちた後に何もしゃべらずぼんやりしていたらそりゃあ慌てるか。なんて冷静に考えている自分に驚く。この数分でかなり度胸がついたようだ。そろそろ起きないと救急車を呼ばれそうな様子だったのでそろそろ起きるとしよう。ゆっくりと起き上がるとそっと背中を支えてくれた。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し驚いてしまっただけで」
笑ってそう言うと、まるで今まで息を止めていたのかと思うくらいに大きな息をついた。そんなに心配させてしまっていたんだ。少し申し訳ないことをしてしまったな。
それにしても本当に綺麗な人だ。風になびく少し長い薄い青色の髪。それと同じ色をした優しい瞳。今は心配している顔だけど、きっと笑うともっと綺麗なんだろうな。いまだってすでに吸い込まれそうなほどなのだから。そうだ。この人に聞いてみよう。きっと何か教えてくれるだろう。
「あの、私は何でここに居るんですか?」
ここはどこなのか。あなたは誰なのか。いろいろ聞きたいことはあったけれど、まずはなぜここにきてしまったのかを聞かなければ何も始まらない気がした。
「申し訳ございません。私の弟が連れてきてしまったのです」
弟?私は目の前に居る人ではなく、彼の弟に勝手につれてこられたってことかな。でも、なんでその弟はここに来ないんだろう。私に用があって連れてきたんじゃないのかな。更にわからなくなってしまったけれど、弟のしたことを知ってお兄さんの彼が助けに来てくれたってところか。とりあえず、この人と一緒に居たらいいのかな。
「申し遅れましたが、私はレオンと申します。末永くよろしくお願いします」
「ハルです。よろしくお願い……」
ん?今、末永くって言った?あまりにも自然に言うから違和感がなかったけれどよく考えるとおかしい。
「突然のことで驚いてしまわれると思いますが、私のお嫁さんになっていただけませんか?」
少し伏し目がちに言う姿にドキドキしてしまった。でも、ちょっと待って。展開が急すぎる。出会ってから5分もたっていない人からプロポーズされてしまった。どういう状況なのか全くの見込めない。跪き私に片手を差し出している。ついその手を取ってしまいそうになるけれど、そうしてしまったらもう戻れない。そんな気がした。だから、戸惑いながら白い手袋をつけた手を見つめることしかできなかった。
「やはり、承諾していただけませんよね」
自嘲気味にそう言ったレオンはどこか寂しそうな表情を浮かべている。どうしたんだろう。彼の綺麗な目が少し陰って見えた。けれどそれはすぐに消えたので少し気になったが、きっとそれは光のいたずらだろう。彼はすぐに笑顔を取り戻し、立ち上がった。
「さあ、お手をどうぞ」
こんなに紳士的な人がいるんだな。一つ一つの所作が上品で見惚れてしまう。その手を取り立ち上がると、窓の外に綺麗なお花畑が見えた。真っ白な花が一面に広がっている。いったいどれくらいの花が咲いているのだろう。
その景色を眺めていると、懐かしい記憶が蘇る。以前ここと似たような場所に来たことがある。いつだったか忘れたけれど、温かい気持ちがこみ上げる。目の奥が熱くなりレオンから顔を隠すように俯く。どうしてこんな気持ちになるんだろう。分からない。でも、思い出せずにいた記憶が少しだけ鮮やかになった。
今まで、私の記憶の中には空白の時間があった。その時、どんなことをしていたのか誰といたのかその全部が抜けていた。ずっと分からなかったのに、なんで今思い出したんだろう。もしかしてこの場所が関係しているのかな。ここに居たら何か思いだせるかもしれない。だったら、私はその記憶を取り戻すためにここに呼び寄せられたのかな。根拠はないけれど、それはきっと私の大切な思い出だ。だから、どうしても思い出したかった。
「ハル?」
レオンに名前を呼ばれ、少し困ったような顔を浮かべる彼を見てはっとする。そういえば、私ずっとレオンの手を握ったままだった。綺麗な景色に気をとられ、彼のことをほったらかしにしてしまっていた。つないでいる手を見て急に恥ずかしくなった私は、慌てて手を放してしまった。そのはずみで後ろに転げそうになったところをレオンが、引き留めてくれた。片手を腰に回されていたため、彼の顔は互いの鼻が触れてしまいそうな距離だった。本当ならもう少し距離を取りたいところだけれど、これ以上後ろに言ったら二人とも倒れてしまいかねない。
「あ、ありがとう……」
顔を背け、小さな声でつぶやくと耳元でかすかに笑う声が聞こえた。私の反応変だったかな。男性と付き合ったことがないわけではない。でも、少しだけ苦手なんだ。
「すみません。笑ったりして。でも、あなたがあまりにもかわいかったから」
どうしてそんなに優しい笑顔で私を見つめてくるの。まるで花がぱっと咲いたような笑顔に吸い込まれそうになる。彼の目に映る私の顔は戸惑っていた。嬉しいはずなのに素直に受け入れることが出来ないのはきっと私が弱いから。
どんなに嬉しくても心から笑うことが出来ない。どんなに悲しくても心の底から涙を流すことが出来ない。自分が弱いことなんて知っている。でも、そんな自分を受け入れられないからずっと苦しいままなんだ。
今だってそうだ。こんなに優しくされて嬉しい癖に出来ることなら私を突き飛ばしてほしいと思ってしまう。私は何を恐れているのだろう。分からないからどうしようもないのだけれど。私もあの花のようにただ
咲いていれたらいいのに。
「少し散歩でもしませんか?」
「はい」
「ふふ、敬語はいりませんよ。私のことは気軽にレオンとお呼びください」
いいのかな。私よりも少し年上に見えるけれど、彼自身が言ってくれているんだからいいよね。知らないところに連れてこらて分からないことばかりだけれど、レオンのおかげで少しは落ち着いた。今更ながら、さっきまですごく気が張っていたんだなと気付き、張りつめてた気持ちがほどけてゆく。
「さあ、行きましょう」
そう言って当たり前のように手を差し出すレオンに元気よく返事をしてその手を掴んだ。
「ねえ、ここはどこなの?」
落ち着いたころ、ようやくいろいろと聞けそうだ。
「ここは、花の国です」
花の国?どういうことか全く理解できない。でも、そういう話は聞いたことがある。いつだったかおばあちゃんに聞いた。この世には様々な知らない世界がある。花の国きっとそれも知らない世界の一つだろう。でも、本当にあるとは思っていなかった。ただのおとぎ話のようなものだと思っていたのに。レオンの顔を見ても嘘をついているようには見えなかった。本当にここは、花の国なのだろうか。もし、それが本当だとしたら私はこの先どうしたらいいのだろう。
「大丈夫ですよ。なにも心配いりません」
「でも、私は人間だよ?こことは違う世界の人」
「知っていますよ。でも、今は私も人間ですから一緒です」
今はってことは、昔は人間じゃなかったってことだよね。ってことはもともとは花だったってこともあり得るもかな。心配しないでというように笑う彼はさっきとは少し違う人に見えた。笑ってはいるけれど、どこかに心を置いてきてしまったような感じだった。私、何か悪いこと言ってしまったかなと考えるけれど思い当たる節はない。少し前を歩く彼は歩調を合わせてくれているようだったけれど、振り返ろうとはしない。そんな様子にちょっとだけ寂しくなった。
そういえば、お散歩ってどこに行くんだろう。窓から見たところこの辺りには町はないように見えた。あれ、じゃあこの国の人たちはどこに住んでいるのだろう。どんどん、疑問が増えていく。分からないことばかりだけど、世界はこんなにも広いのだと実感する。あれこれ考えていると、何かにぶつかり後ろに飛ばされてしまった。
いたた……
さっきからこけてばかりだな。それにしても私は何とぶつかったんだろう。あたりを見ると、目の前に私と同じように床にこけている男の子がいた。あの子がぶつかってきたんだ。それにしても結構強い力だったな。
「ハル、大丈夫ですか?」
慌てたように駆け寄ってくる。数分前と同じ状況につい笑ってしまう。
「私は大丈夫。それよりあの子は大丈夫かな?」
「ユウならこの通り平気です」
ユウと呼ばれた男の子はすっと立ち上がて見せた。確かに怪我はしていみたいだから大丈夫そうだ。良かった。私も同じように立ち上がろうとしたがうまくいかない。足をくじいてしまったようだ。
「ごめんなさい」
私の様子に気付いたのか彼は泣きそうな顔をしていた。レオンをすがるように見つめる姿は可愛かった。例えるなら天使だ。少しくせ毛の髪にくりくりの目。そのどちらも薄紫色でとても綺麗だ。
「私は大丈夫だから、泣かないで」
そう言いながら頭を撫でると泣き出してしまった。どうしよう。泣かせないようにしたことが逆効果だったようだ。子供のあやし方よくわからないんだよな。それに立ち上がれないんじゃあ大したこと出来ないし。
「驚かせて、すみません。きっと、あなたが大丈夫だと分かって安心したんですよ」
そうだったんだ。それなら良かった。さすがはお兄ちゃんだな。弟のことよくわかっている。レオンに抱きしめられ落ち着いたようだ。
「ユウ、こちらはハルだよ。挨拶をして」
「はい。僕はユウです。よろしくお願いします」
「私はハルです。よろしくね」
笑った顔はレオンにそっくりだ。きっとユウも大人になったらかっこよくなるんだろうな。礼儀正し
くお辞儀している彼を見ているとほのぼのした気持ちになる。
「レオン兄さんのお嫁さんですか?」
小さな声が聞こえてきた。振り返るとレオンの陰に隠れ両側から顔だけ出している男の子たちがいた。
「この子たちは末の弟です。私の右に居るのがレン。左に居るのがナノです」
二人はよく似ていた。きっと双子なのだろう。どちらもレオンよりも濃ゆい青色の髪と瞳だった。見分けがつかなくなりそうだったけれど、よく見るとレンはまっすぐなサラサラの髪でナノはユウと同じくせ毛だった。
「ほら、2人ともちゃんと挨拶して」
そうレオンに言われても彼の陰から出てこようとしない。人見知りなのかな。しっかりとレオンの服を握っている。なんだか小さい頃の私を見ているようだ。
「ハルは優しい人だから大丈夫だよ」
そう言ったのはユウだ。泣いていた時とは打って変わってお兄さんっぽい顔になっている。その様子につられるように2人はレオンの陰から出てきた。私が座っているから二人とは目線が同じになる。
「ぼくはレンです」
「ぼくはナノです」
恥ずかしそうに自己紹介をする様子にまた癒されてしまった。
「私はハルです。よろしくね」
2人の頭をそっと撫でるとふわっと笑った。
「ハルはぼくたちのお姉さんですか?」
「え?」
そういえば、さっきお嫁さんがどうとか言ってたのこの子たちだよね。どうしよう。なんて答えればいいんだろう。目をキラキラさせながら私を見ている2人に返す言葉を探していると、レオンが口を開いた。
「ほらほら2人とも、お掃除の途中じゃなかったのかな?」
「そうでした」
そう言って2人は元居た場所へ戻っていった。
「ユウはセブのところに行くんじゃなかったのかな?」
「そうだった。では、失礼します」
ユウは私に一礼して駆けていく。これでよかったのだろうか。弟たちをの話をあいまいに終わらせたレオンは少し自分を責めているようだった。苦しそうなレオンを助けたいと思ったけれど、私には何が出来るのだろう。さすがにお嫁さんになるわけにはいかないけれど、お姉さん替わりになることくらいなら出来るのかな。そう思いながら3人の笑顔を思い浮かべた。