第二章「ニーナ・リンベルト」
僕の問いかけにニーナからの返答はない。無視かよ……ったく一体ここはどこなんだよ。取り合えず確かなのは、日本ではないということだ。なぜなら異国の方たちがわんさかいるし、こんな町並みは我が国にはない。因みに町の名前はホロックと言うらしい。雰囲気的には以前テレビで見たヨーロッパ地方の朝市通り、といった感じがしっくりとくる。
僕はなんの変哲もない、どこにでいるような普通の高一男子だ。それなのに、どうしてこんな辺鄙な場所に……いいや、なんの変哲もいないというのは、ちょっと図々しいな。
彼女を親友に寝取られても、なんのリアクションも起こさない、不感症でマグロのヘタレ野郎。そんな僕こと黒木禄が、どうしてこんな場所にいなければならないんだ?
理由は分らないが、誰のせいかは明白だ。犯人はさっきから僕の手を引き、朝市通りを闊歩する碧眼の美女。そう、この女のおかげで僕はこんな場所にいるのだ。どうして、こんなことになった? 僕はそう思いつつ、先のクソッタレでクレイジーな一件を思い起こした――。
「ようこそ、地獄の世界へ」
彼女がそう言った時だった、けたたましいサイレン音が鼓膜に届いてきた。すると彼女は軽く吐息を漏らすと、いきなり僕を抱きかかえ強引にフェラーリの助手席へと放り込んだ。
因みに僕の身長は170cm、体重50㎏の貧弱体型だ。いくら僕がもやしっ子とはいえ、あの細腕のどこにそんな力が……ぼんやりとそんなことを考えていると、彼女は運転席に颯爽と乗り込んできた。
そしてすかさずキーを回すと、アクセルを目一杯踏み込んだ。するとフェラーリは轟音を撒き散らしながら、猛スピードで急発進してゆく。明らかな暴走行為――僕は慌ててシートベルトに手を伸ばすと、法定速度などお構いなしの美人レーサーに非難の眼差しを向けた。
「安心しなさい。私は誰かさんと違って運転も上手だから」
片手でハンドルを操作しながら、彼女は軽く微笑んだ。
絶世の美女なのは認める。そして命の恩人なのも……だけどとてもじゃないが、好きになれるタイプじゃない。因みに僕は ”女は、男の後を3歩下がってついてゆく” 的な、男性を立ててくれる女性が好みだ。
一応断っておくが、立てるというのは支えるという意味であって、間違っても下品な意味じゃない。まあ、いまの時代そんな古風な女性は皆無なので、正直なところそのような奥方との出会いは諦めている。というわけで僕は溜め息を漏らしながら、静かにサイドウィンドに視線を移した。
ニーナ・リンベルト。暫く走ったところで、彼女はそう名乗ってきた。ニーナか……確かに綺麗な名前ではある。性格はさて置き、美しい容姿の彼女にはピッタリだ。
だが騙されてはいけない。この女は羊の皮を被った雌ゴリラなのだ。先程その事実を、嫌というほど目の当たりにした。というわけで、ヘタレの僕は彼女への問いかけにも声が上ずってしまう。
「あ、あのう、ニーナさん――」
「呼捨てでいい。それと敬語もナシで」
ニーナはハンドルを切りながら、冷たい瞳で前方を見つめている。な、なんか恐いんだけど……まあ、でも彼女がそう言うのなら、そうするべきか。因みに僕は異性を名前で呼んだことは一度として無い。
半年間付き合っていた彼女にしたって常に ”北川さん” と言っていたくらいだ。そんな女性に免疫のない僕だが、聞きたいことは聞かせてもらう。そうでもしなければ、頭がパンクしそうだ。
「さっきの化物……あれってなんなの?」
「あれは、バグよ」
ニーナはそっけなく簡潔に答えた。あれは、バグよ、って……説明不足も甚だしいだろ。一字違いでブサカワ犬の代表格じゃないか。だがどんだけひいき目にみても、あれには全く可愛げはなかった。
「そんで……そのバグって一体なんなの?」
「低級魔獣」
魔獣って……いとも簡単に、サラッと言ってくれるなあ。あのねえ、一般常識ではそんなものこの世界には絶対に存在しないんだよ。いいや、存在してはいけないんだっ!
「質問は後回しにして、取りあえずこれを飲みなさい。気持ちが落ち着くわよ」
僕が呆然としていると、ニーナが缶ジュースを差し出してきた。確かに喉が渇いていたのは事実だ。まあ、当然といえば当然だろう。いきなりあんな目にあったんだ。普通なら失禁していてもおかしくない状況だ。
因みにこれは内緒でカミングアウトするのだが、正直いうとチョロっと漏らしてしまっていた。この事実は墓場まで持って行くことにしよう。僕はそう心に誓うと、ニーナから受け取った缶ジュースで干上がった喉の渇きを潤した。
すると彼女はにやりと笑みを浮かべたかと思うと ”おやすみ” と言って、冷たい眼差しを向けてきた。えっ? おやすみ? あれ、なんだか急に瞼が……僕の記憶はそこでプツンと途切れた。
以上、回想終了――もうお分かりだと思うが、僕はこのクソ女に一服盛られたのだ。そして気付けばこんなどこの国とも分らない朝市通りで、わけも行先も告げられぬまま彼女に手を引かれながら歩いている。
こ、これは完全に拉致&誘拐だ。僕はこれから内臓でも、取れてしまうのだろうか? それとも、どこぞの変態親父にでも売られて、性奴隷にでもされてしまうのだろうか? それとも、魔獣共の餌に……いいや、やつから助けてくれたくらいだ、流石にそれはないだろう。まあ、いずれにしてもはっきりと分っているのは、人生とはまったくもってクソッタレでつくづくだ、ということだ。