適性試験③ 少女(ただし屍体)と一夜を共にすべし
どうあっても、棺には近づきたくなかった。出口に近い階段に腰かけると、たまらずため息が出た。
またあの言葉が浮かんでくる。
「一体ぼくがなにを――」
言葉が途切れた。ちがう思いが浮かんできたからだ。
ぼくは……なにもしなかったんだ。なにもしようとしなかったんだ。
同情を引きたくて死にたいと云ったり、求人に対しても安い賃金だからと二の足を踏んだり、二十万ペルカに引かれてなにも調べずに鳩の血社を訪れたり。
被害者の仮面をかぶって、そのじつ、自分の人生を真剣に考えていなかった。
ふと視界に入ったのは、静かに横たわる棺だった。一般的な長方形の棺ではあったけど、随分小さい。暗いのでよく見えない。
ぼくは思いきって腰を上げ、そろりそろりと棺に近づいた。
棺の側面には複雑に絡み合う薔薇の彫刻が施されている。おじさんが「薔薇の棺」と呼ぶ、子ども(女の子)向けの棺だと気づいた。
レースで縁取られた重厚な布が掛けられている。色は天使の羽を思わせる純白。天国に召された者が子どもであることを裏付ける。布の上には魔除けの意味がある楯が立てかけられ、故人の名前と手向けの言葉が刻まれている。
最愛の娘、M.Fは八歳の誕生日を前に旅立ちました
さぁ冒険に行こう、とせっかちなピーター・パンが誘いに来てしまったのです
われわれと過ごした時間は短かったけれど
その分、ネバーランドで長く過ごせますように
青空の下で友達と遊びたいとひたすらに願っていた娘に
ネバーランドでもたくさんの友達ができますように
苦い薬も、痛い注射も、たくさんたくさん我慢した娘が
どうか、ネバーランドで笑っていますように
『死ぬということは、すごい冒険なんだろうな』と云ったピーター・パンの言葉を引用しているのだろう。
亡くなったM.Fが大好きな本だったのかもしれない。ぼくも好きだ。
おじさんの棺とピーター・パンの言葉に触れたことで、ここで眠る少女への恐怖はいくぶん和らいだ。
ぼくは棺の傍らに腰を下ろし、棺を見守るような天使像を見上げた。
みんな穏やかな顔をしている。慈悲深い母親のようなもの、威厳ある父親のようなもの、悪戯好きな子どものようなもの。角を生やした悪魔顔の像が一体混じっているのは、他の悪魔が近づかないようにと威嚇するためかもしれない。
なんだか肩の力が抜けた。屍体――じゃなくてこの子は、生前はぼくと同じようにピーター・パンが好きなただの女の子だったのだ。
ずっと高いところに天窓が空いていて、外の様子が見えた。まだ明るい。
ボーっと眺めている内に、ぼくは睡魔に襲われた。
そして夢を見た。悪夢だった。
――せんせッ。
頬にジリジリと熱を感じた。きれいに並んでいた柱はなすすべなく倒れ、炎に食べられている。怖い。次はぼくに炎の牙を剥くかもしれない。
――先生。
ぼくは走った。天井も壁も床も真っ白なこの「おうち」はとても広くて、すぐ迷子になってしまう。だから向かっている先が「れいはいどう」なのかわからない。
――先生、先生、先生。
だけど先生ならなんとかしてくれると思っていた。先生はすごい。神様なんだ。ぼくらを助けてくれる。
――おねがいだから。たすけて。
――イヤだ。ぼくは死にたくない。
――死にたくない。
「クロ。起きてる?」
ぼくは目を瞬かせた。いつの間にか眠ってしまったらしく、棺の横に寝転がっていた。
ここは外気が入らずひんやりとしているので、とても居心地がいい。
「食事を持って来たわ」
閉ざされた扉の覗き穴が空いている。ル・ルーさんだ。ぼくが駆け寄ると、扉を開けて姿を見せた。
隙をついて逃げることもできるけど、一晩ここで過ごすのが試験である以上、不正はしたくない。
「……ひどい顔」
ル・ルーさんは眉をひそめる。
「え? あれ、よだれついています?」
口元をごしごしとこすった。
「違うわよ、目元」
なんのためらいもなく伸びてきた手が、ぼくの頬を撫でる。
ぼくは泣いていたらしい。
びっくりするほどのやわらかさに、残っていた涙がするりと流れた。