ル・ルーを追って
『知らないこと、わからないことばかりで不安だったよね』
はじめはなにもわからなかった。ル・ルーさんは意地悪で、ライラさんは冷たかった。
『危険な目にあって、怖かったよね』
教会で襲われたり、刺されたり。怖かったさ。ぼくは凡人で、臆病なんだ。
『役に立たなかったり、置いていかれたり、つらかったよね』
そうさ、ぼくは役立たずだ。自分の体ひとつ守れない。
『だから、ぜんぶ、忘れていいよ。それはあなたに必要のない記憶』
記憶の糸が、ほどけていく。
ぼくの中から抜けていく。
消えていく。
ぼくは手を伸ばし――――そして、糸を掴んだ。
手応えがあった。決して放してはいけないという、たしかな想いがあった。
「あぁそうさ、ぼくは臆病で役立たずで美少女好きのどうしようもない人間だ。だけどそんなぼくだって意地がある。大切なものを守る覚悟くらいある」
ぼくは、ぼくの意志でしっかりと記憶の糸を掴んだ。
大切なものはいつだってぼくの中にある。
渡すものか。
たとえ、きみにでも。
「――ルフ。いるんだろう。これ以上ぼくの記憶をいじるな」
自信をもってその名を呼んだ。
同じ道の周回。記憶の逆戻り。術。これを扱える相手はルフしかいない。
返答はない。立ち止まり、じっと周りに目を凝らす。霧の動きに変化はない。
「ルフ、姿を見せろ。見せないと……怒るぞ」
云ってみたものの、こんな脅しが通じるとは思えない。
だから、どこかから伸びてきた手に握りしめられたとき、驚いたのはぼくのほうだった。
「クロ、怒る、だめ。ごめんなさい」
ぼくの手を握るルフの姿。太ももにまで届く銀髪をひとつにまとめ、背中に流している。
ぼくはルフに向き直り、小さい子に云い聞かせるように視線を合わせた。
「お願いだ。この霧を止めてくれ。ぼくはル・ルーさんを追わなくちゃいけない」
しかしルフは頑なに首を振る。
「だめ。ベアトリス、悪い人」
「なにが、悪いんだ?……ぼくの母さんを、殺したかもしれないこと?」
先ほどの問いかけに、ル・ルーさんは答えなかった。だからこれは確証がない。ルフの知る事実と突合しようとしているだけだ。
ルフは首を振る。
「ルフの、にーさま、殺された」
ルフの兄ってだれことだ? ル・ルーさんに殺されたのか?
「……あっ」
ルフが小さく叫んだ。と同時に、ぼくらの頭上を覆っていた霧が糸のようにほどけて青空が見えた。
ぼくが握りしめていた記憶の糸も消え、心なしか頭がすっきりした気がする。
「術の礎、ベアトリス、破った」
別行動をとっていたル・ルーさんが術を突破したらしい。
霧はしだいに薄れ、街の全景が見え隠れするようになった。ぼくは素人だから術の原理はわからないけど、ル・ルーさんは霧を発生させていた人物がルフであることや、ぼくに接触することで術の「礎」が手薄になることを承知していたのかもしれない。
「行かなくちゃ、ねーさまを、守らなきゃ」
振りほどかれたルフの手を、今度はぼくのほうから掴んだ。
「ぼくも行く。連れて行ってほしい」
「だめ、一緒、だめ」
いかに拒まれても、こればかりは譲れない。
ル・ルーさんはひとりで行く気だ。ぼくを置いてひとりで戦うつもりだ。
たぶん最初からそのつもりで、ルフが現れることを想定して、足止めのためだけにぼくを連れてきただけかもしれない。
ひどいや。
ぼくはル・ルーさんのことを知ったつもりでいたけど、実際はなにもわかっていなかったんだ。
悔しい。あんまりだよル・ルーさん。
――元気でね。
あんなことを云わせるつもりはなかった。
「ルフは、お姉さんのこと、好き?」
「うん」
「ぼくのことは、好き?」
「うん」
「ルフが好きなぼくからのお願いだ。ぼくを行かせて欲しい。だってぼくはルフがお姉さんを好きなくらい、ル・ルーさんのこと……」
「好きなの?」
先に云われてしまった。ぼくは苦笑いするしかない。
「うん。かなり」
だってよく考えてくれ。ル・ルーさんは『死に神』で、葬儀屋の代表で、本当はエリアーデさんと同い年(たぶん二十代半ばくらい)だけど、見た目は小さな女の子なんだ。
胸はぺったんこだしお尻も小さいし、くびれなんて色っぽいラインもない。
守りたいと思わせる、ただの女の子なんだよ。
小さい体に似合わない鎌を持って、ひとりディオンのもとに立ち向かったル・ルーさん。
あの背中を追いかけたい。
役に立たないことは承知している。迷惑をかけるかもしれない。だけどぼくは男だから、好きになった女の子を放っておくことなんてできないんだ。
だって、カッコ悪いじゃないか。
「もし願いをきいてくれるならなんだってする。フォルトゥナも守るよ。約束だ」
ぼくは最低の男だ。ルフの想いを逆手にとって、自分の目的を果たそうとしている。
だけどいまは他に手がない。鬼にも悪魔にもなってやる。
「――……わかった。約束」
ルフの顔にうっすらと笑顔が浮かぶ。
霧は跡形もなく消え去り、教会へと続くまっすぐな回廊を浮かび上がらせた。
ルフと手をつなぎ、歩き出す。
「ルフも、本当は、ベアトリス、嫌いじゃない。『塔』のしるしを持っていたルフを、外で育てようとしてくれた人、だから」
「……それって、ルフがル・ルーさんにリバースをかけたときのこと?」
「うん。エリアーデ、教えてくれた。生まれてすぐ閉じ込められたルフに、ベアトリス、優しくしてくれたって。だけどルフ、力が強くて、ベアトリスに、リバースした」
ル・ルーさんは、幽閉されることを宿命づけられていた『塔』を救いたかったのだろう。そう思って関わりをもった。リバースをかけられたのは予期せぬ事故だったのだ。
本当にもう、ル・ルーさんは。
「ちなみにルフっていま何歳?」
ル・ルーさんの話からすると、フォルトゥナとルフの母親はすでに亡くなっている。
だけどルフはどう見ても十歳くらいで、フォルトゥナとは年が離れすぎている。
「ん、と」
ルフは両手を広げた。
「指十本。うん、十歳か」
「それと」
つづけて片手を広げた。指五本。
「――十五歳って、ぼくと同い年? 信じられない」
「ねーさまに、云われた。冷たいところにいたから、ルフ、いろいろ遅れてる。言葉も、体も、胸も、お子ちゃま」
なるほど。幽閉されていた影響で、知識や言語能力だけでなく体にも影響が出ているのか。
ルフは自分の平らな胸を撫でていたが、おもむろに指を止めて顔を赤らめた。
「でも、好きな人できたら、すぐに大きくなるって。ねーさまみたいに、でっかく」
フォルトゥナはとんでもない巨乳じゃないか。ぜひ健やかに育ってもらいたいものだ。
「導師、こちらにいらしたのですか」
密集した民家の先に目的の教会の鉄塔が見えたころ、ぼくの隣に馬車が並んだ。
馬車を停めて駆け下りてきたふたりは……フェロー夫妻だった。
「娘の着替えをとりに屋敷に戻りましたら、霧に行く手をふさがれてしまいました」
ぼくがディオン先生だと信じて話しかけてくる。
もしル・ルーさんが一緒だったら疑いを抱いたかもしれないけど、先生に味方していたルフが一緒だから疑う余地がないのだろう。
つまり、ディオン先生はまだ「ぼく」の姿を見せていないということだ。
「儀式に間に合って良かった。これで私たちも娘の元に行ける」
なんてことだろう。ふたりはディオン先生の儀式でミリアを追いかけようとしている。
そんなことってあるか。ぼくはミリアじゃないけど、彼女がそんなこと望んでいないと断言できる。
「さ、導師。信者の方々も大聖堂で心待ちにしております。ぜひともお言葉を」
ぼくは喉元まで出かかった怒りの言葉をなんとか呑みこんだ。
冷静になれ。
ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「――あぁ、すぐに行くよ。案内してくれるかい?」
ぼくの変貌ぶりに、ルフが不安そうに瞳を揺らした。
「……ど、したの?」
「どうもしないさ。ぼくはぼく、ディオン・ダーリングだ」
中身はどうあれ、ぼくの容姿はディオン先生本人。
つまり、ぼくの言葉はディオン先生なのだ。
ならば方法はある。だれも死ななくて済む方法が。




