ただのキス
渦を巻くような霧の中を、ぼくとル・ルーさんを乗せた馬車が進んでいく。
馬の手綱を握る御者は馬車とセットで雇った第三者で、ぼくらはふたりきりでディオン先生のもとに向かっているのだ。
「良かったんですか。ライラさんやリリィさんにジル。朝食に混ぜた睡眠薬でいまごろ」
向かい合って座るル・ルーさんは当然のように頷く。
「遠足に行くんじゃないのよ。敵に人質にとられて行動を制限されるよりも、安全なところでおとなしく眠っていてもらうほうがマシ」
辛辣な言葉。だけどぼくはわかっている。
ル・ルーさんは三人を傷つけたくないのだ。
大事だから、敢えて遠ざける。不器用でひねくれたル・ルーさんなりの優しさなのだ。
「ぼくはル・ルーさんのことを誤解していました。屍体相手の商売をしているのは、だれかへの贖罪のためだと思っていました。伯母さんの仕事をまっとうに引き継いでいたなんて……。すいませんでした」
深く頭を下げた。ル・ルーさんはなにも云わなかったけど、ぼくが顔を上げたときには口元に笑みを浮かべていた。
「その顔で謝られると、変な気分」
「すいませんね。真心だけ受け取ってください」
「ずいぶん買ってくれているみたいだけど、いまの言葉、撤回したほうがいいわよ。事業の継続に必要なものは資金、将来性、ニーズ。葬儀にはそのすべてがあるわ。一生に一度の葬儀にお金を惜しむ人はいないし、人は絶えず亡くなる。だから葬儀屋を続ける限り生活に困ることはないのよ」
金になるから商売をしている、とでも云いたげな口調だ。
だけどきっと、それだけじゃない。
「無理して悪いものにならなくてもいいですよ。ル・ルーさん」
金なんかのためだけに、たくさんの人を見送ってきたんじゃない。
ル・ルーさんは、そういう人じゃない。
いまなら、そう思える。
目を丸くしていたル・ルーさんは、諦めたように息を吐いた。
「……そうね、それだけじゃないわ。それに、あなたの考えは案外間違っていない」
膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
「わたしは『死に神』として、病に苦しみ、痛みから逃れたいと願う多くの人を見送ってきたけど、たった一度だけ、死ななくて済んだ人に『死に神』のキスを贈ってしまったことがあるのよ。いまでもそれを悔いている」
青ざめ頬と唇。初めて聞く、ル・ルーさんの懺悔。
「……もしかして、それが母さんだったりして?」
思いつきで口にしただけだった。「ちがうわよ」とすぐに反論があるものだと思った。
だけどル・ルーさんは気まずくなるくらいの沈黙を保つ。
――それは、つまり。
不意に馬車が止まった。
「申し訳ありません。馬が急に」
御者からの声に、ル・ルーさんは素早く身なりを整えた。
「降りるわよ、クロ」
「え? まだ教会に着いていませんけど」
「何日かけてもたどり着かないわよ。同じところをぐるぐる周回しているみたい。霧自体が術なのかもしれないわ。敏感な馬もそれに気づいて戸惑っている」
立ち上がったル・ルーさんは扉を開けて先に飛び降りる。
勝負服のような真っ白なワンピースの裾がふわりと揺れた。すこし屈めばパンツ見えそう……じゃなくて。
外はわずかな先も見えないほど濃密な霧に包まれている。
「霧が晴れたら中央へ戻っていいわ。ご苦労様」
と御者に小銭を渡して、ル・ルーさんはどこへともなく歩き出す。ぼくもその背を追いかけた。
たしかに、変な霧だ。奇妙に生暖かくて、肌を滑るようにぼくの体を包んでいく。霧というよりは泡状の緩衝材をかき分けて進む感じ。足を止めれば埋まりそうだ。
足場の悪さに戸惑っている間に、ル・ルーさんの姿が消える。
「ル・ルーさん、待ってください」
「クロはそこにいなさい。動かなければ霧に呑まれることもない」
鋭い声が飛んでくる。だけど目を凝らしてもなにも見えない。ぼくは声の方向に進んでみたけど、目当ての姿は見つからない。
「そうはいきません。ぼくも行きます」
「いいのよ。そこにいて。それから、クロ」
死角から手を引かれた。ぼくは体勢を崩して前のめりになる。
唇が触れたのは、本当に一瞬だった。
「安心しなさい。『死に神のキス』じゃなくて、ただのキスよ」
目が合うと、ル・ルーさんは頬を赤らめた。
ぼくもきっと、同じくらい顔を赤くしていたことだろう。
まさかル・ルーさんのほうからキスをされるなんて、夢にも思わなかった。目の前にある、先ほどぼくに触れた唇を直視する勇気もない。
「ル・ルーさん、ぼ、ぼくも」
と云いかけた唇を、ル・ルーさんの人差し指に遮られる。
「あなたのベッドの下に小壜を隠しておいたわ。アイリッシュから貰った精油――『アルカナの祝福』よ。使う使わないは自由だけれど、せめてものお詫びとして受け取ってちょうだい」
笑っているル・ルーさんの頬を涙が伝う。ぼくはたまらずル・ルーさんの指を掴んだ。
「お詫びってなんですか。変なこと云わないでくださいよ」
「だって鳩の血社が廃業したら、また転職活動しなくちゃいけないでしょう。こんな高給の企業そうはないからね」
「そうですよ。あと十年、いや二十年、いや死ぬまで働かせてくれないと困ります。従業員の雇用を守るのは企業の義務ですよ。それくらい知っているんですからね」
生意気、とばかりにル・ルーさんが肩をすくめる。
「だけどね、従業員の命を守るのも代表の務めなの」
ぼくの手の中から引き抜かれる冷たい指。
「あなたの肉体はちゃんと取り戻すから心配しないで。その肉体でも案外使い勝手はいいと思うけど、やっぱり使い慣れた体のほうがいいものね」
「どういう意味ですか?」
おまえはここで用済みと云わんばかりの。
「元気でね、さようなら」
「……ル・ルーさ」
ぼくを突き飛ばし、ル・ルーさんは走り去ってしまう。
必死に追いかけたけど霧が行く手をふさぐ。
もはやどこをどう走っているのか、自分の手足がきちんと動いているのかすらわからない。闇雲に歩き回っても霧はどんどん濃くなってぼくの体を包む。
体どころか、頭の中にまで入ってくるようだ。
落ち着け。深呼吸。ル・ルーさんに追いつくんだ。
ぼくの知っているル・ルーさんは、天然パーマの黒髪で、類いまれな美少女で、抱きしめたいくらい小さくて、えーと……皮肉めいた笑いかたをして……えーと、それで。
するすると記憶がほどけていく。
そんな気がした。
霧に溶けて、ぼくの記憶が流れ出していく。
『忘れていいんだよ』
どこかで、声がした。




